5.二人ぼっちの世界

 オープニングの挨拶の後、新入生全員に配られたグラスワインやシャンパン―もちろん中身はグレープジュースやジンジャエール、シャンメリーだけど―で乾杯した。同じ中学出身者同士のグループや、クラスで最近仲良くなった者同士のグループなど、クラス関係なく入り交じっている。

 全員で乾杯した後、明日花と真希と小さく乾杯をするつもりだった。近くに顔見知りのクラスメイトがいればその子とも。でも、それが七尾くんだと気づいたのは「乾杯!」と言った後だった。

 グラスがチンッと高い音を響かせてぶつかる。でも、その音よりも高い音を響かせているのは私の心臓だ。

 「石和さん、一人なの?」

 七尾くんの後ろに回り込んだ真希と明日花が親指を立てて、向こうへ姿を消した。

 「みたい……だね。な、七尾くんも?」

 「いや、小沢と…」 

 七尾くんが振り返ると、そこには誰もいなかった。

 「今、一人になったみたい」

 苦笑いをする七尾くん。ごめん、たぶん小沢くんを連れ去ったのは私の友達です。

 「それにしても先輩達、みんなすごいね。気合いが入っているというか、部費のために必死というか」

 「この新入生歓迎会は記念祭と並ぶくらい学校行事でも大きなものなんだって」

 「記念祭?」

 「うん。文化祭のことなんだけど、それがいつもすごくて。ほとんど町をあげてのお祭りみたいになるの。私の家ってこの辺だから、小さい頃からよく見てて……」

 「なんとなくわかるかも。体育館の外の方もすごいみたいだし。石和さんは高校でも美術部に入るの?」

 「うん。お、覚えててくれたんだ、ぬ」

 しまった。噛んだあああああ!!!

 あの雨の日、話した内容を覚えていてくれたのは爆発してしまうくらい嬉しかった。でも、今はもう別の意味で爆発しそうです。私は早口言葉を練習しようと心に誓った。

 「そりゃ、覚えてるさ」

 噛んだことを、笑いもせず、いじりもせず、大人な対応でスルーしてくれる七尾くん。やっぱり優しい。思わず涙目になってしまう。

 「やっぱり美術部の展示、見に行くの?」

 「あ、う、うん。どんな作品作るのか気になるし、先輩がどんな人たちなのかも気になるから行くよ。明日花が、あ、御堂さんのことだけど。明日花が言うには中庭全部を使った展示作品なんだって」

 噛んだ後の動揺は収まっていない。早くなかったことにしようとたくさんしゃべってしまう。

 「そうなんだ。後で見に行こうかな…」

 「うん。そうしなよ……」

 お互いが無言になってしまう。

 BGMとして流れるバッハのプレリュード、盛り上がっている同級生たちの声。二人の間には音が溢れていて、どんな言葉を言っても許されそうな気がしてくる。今がチャンスだ。七尾くんを美術部の展示に誘うんだ。

 『いっしょに見に行こう』

 その言葉が、たったそれだけの言葉が口から出てこない。少し激しくなったチェロの音と周りの声が、鼓動を煽る。頑張れ私。口を開け。

 まぶたを閉じ、深く息を吸う。

 1秒ほどだったと思う。一瞬の暗闇に、旧校舎に預けたラブレターの像が浮かんだ。目を開く。

 「……な、七尾くん!」

 「外、一緒に見に行こうか」

 プレリュードの終わりと同時に時が止まった。ように感じた。

 「はい」

 私の呼びかけた時の声の大きさは適切だっただろうか。そんなことを考えたと思う。少なくとも『はい』と答えたときの声の大きさは適切だったと思う。



 体育館での催しが終わると私たちは外に出た。体育館にいた1時間、七尾くんとは舞台で行われる出し物を見て一緒に笑ったり、普通だったら記憶にも残らないような、たわいない話をして過ごし、私の緊張もだいぶほぐれてきた。

 4月といってもまだ寒い。体育館に急ごしらえで作られたクロークに預けてしまったショールを持ってくれば良かった。

 「寒くない?」

 「うん。大丈夫」

 七尾くんはジャケットに丈の短めなピーコート、マフラーを身につけていた。

 「まだ、冷えるね」

 その声が聞こえるのと同じタイミングで、私の首に温かい感触が下りてくる。七尾くんのマフラーだった。七尾くんの温もりが残っていて、すごく心地いい。でも、バカな私は慌てて、マフラーを外そうとする。

 「いいよ。石和さん、つけてて」

 「いや、でも、大丈夫だから…!」

 「そんな、震える声で大丈夫って言われてもね」

 苦笑いする七尾くん。私は気づいてなかった。声が震えてることに。一気に顔が熱くなる。震えているのは、寒さのせいもあるけど、緊張のせいでもあるんだよ。体育館から出ようとしたときに、真希が「今日はこのまま解散の別行動で!」なんて、いらない置き土産をするから。

 ため息をつく。息は白く、宙に消えていった。緊張も一緒に消えればいいのに。もう一回ため息をつくと七尾くんが心配そうな目で、私の顔をのぞいた。

 「ご、ごめん!い、息が白かったから、おもしろくって」

 「そっか」と言って、七尾くんは微笑んだ。「もう4月なのに。今日は冷えるね」

 「うん」

 そんな、なにも関係性が変わることのない話をしているうちに目的の中庭に到着した。

 中庭は2つの校舎と2本の渡り廊下に囲まれている場所のことで、2つの校舎―特別教室棟と一般校舎―が東西に長く伸び、その2つの校舎を繋ぐように渡り廊下が東側と西側で2本通っている。渡り廊下の下にはレンガで仕切られた道があり、道の外側は芝生地帯となっている。昼休みになるとその芝生地帯はボール遊びをする生徒や、昼ご飯を食べる生徒でにぎわう、と、歓迎会のオープニングで生徒会長が話していた。

 そんな空間を全て使って、まるでプラネタリウムの様な展示物を披露しているのが美術部だ。

 「すごい。光が降ってる……」

 囲まれた四方全てに電飾が飾ってあり、渡り廊下の下を通って中庭に人が出入りすると、設置されたセンサーが動きをキャッチし、人の動きに合わせるようにして光が波打つように、色とりどりに変化する。それはまるで私の恋に似ていると思った。

 空はいつの間にかに暗い紫色に変わっていて、光の波打つ空間全体がまるで地上から切り離され、空を漂流しているかのように感じた。

 本当に漂流していればいいのに。七尾くんが隣にいることで、そんな風に思ってしまった。

 「本当に光が降ってくるみたいだ」

 そう言う七尾くんの横顔を見上げる。光の色が変わるたび、七尾くんの表情も変わっていくように見える。

 だったら、少し贅沢かも。同じ時間の中で今、私だけが七尾くんの全ての表情を独り占めしているんだ。もしかしたら、あのラブレターの御利益かもしれない。もしもこの時間があのラブレターのおかげだとしたらテリーライトで全商品を食べよう。テリーさんへの恩返しとして。そんな風に考えてしまうくらいに、この状況は私にとってうれしくて、タイミングが良かった。今が私に与えられた『時』なのかもしれない。一歩先に進むための。

 七色に変化する光に染まった時間。何人かの生徒が同じように、この中庭に集まっているのはわかっていた。けれど、私にとっては二人ぼっちの世界だった。

 もう少しだけ。もう少しだけ、七尾くんの横顔を見上げていよう。次に七尾くんがこっちを見るまで。

 永遠に続くように。そう心のどこかで願っていたのかもしれない。七尾くんが私の視線に気付いて、振り向いた時、二人ぼっちの世界は終わってしまうから。

 しかし、そんな願いは、あっけなく途切れてしまう。七尾くんがこちらを振り向いた。

 「綺麗だね」

 その言葉は、もちろん私に言ったものでないことはわかっている。ただ、こんな風に同じものを見て、同じように考えていたことが嬉しかった。

 私は桜の坂道を思い出した。『綺麗』という言葉で心が埋まるのだ。この場所は桜の坂道と同じだ。七尾くんと不思議な出会い方をした、あの坂道と。

 「私、七尾くんのことが好き」

 その言葉は私の口から自然と、心から溢れ出すように出てきた。恥ずかしくもない。怖くもない。ありのままの気持ち。ただそれを口にしただけだ。

 七尾くんは振り向き、私を見る。たぶん御利益があったんだ。その目は優しくて、色とりどりに輝いていた。

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