2.はじまりの傘
真希は勘が鋭いらしい。
七尾くんの視線から逃れて、唐突にせき込む私を見て、ほほう、と思い、その後の私をしばらく監視していたとのこと。
自分でも気づかなかったけれど、手を振って自分の席に向かう七尾くんの姿を目で追っていたみたいだった。机に肘をついて、熱くなった顔を手で押さえていると、真希が走り寄ってきた。
「あの人となんかあったの?」と、キュートなニヤケ顔で耳打ちをしてくる真希。
私は慌てて顔を覆っていた手を振りまわし、必死に―それでも七尾くんには聞こえないようなボリュームで―否定する。
「ないよ、ないない! 七尾くんと私の間で、そんな、何かあるなんて、ないよ」
「へえ。『七尾くん』と……ねぇ?」
にじり寄るような真希の空気感に私は気圧されてしまう。
「……うう」
「景ってやっぱりいい子だよね」
ニヤケ顔を崩して大笑いする真希。真希のプレシャーに負けてしまうなんて。悔しいぜ私は。
「さぁ、全部聞かせてもらおうか、石和景さん!」
「くう……」
怒られた犬みたいに、うめき声を上げるしかできなかった。
という具合で、今後一年間の授業の説明と、体育館で行われた部活紹介のオリエンテーションが終わるとすぐ、私は真希に『ワッフルカフェ・テリーライト』へと連行されたのだった。
背の低い、赤いソファーが置かれたテーブル席に座る。明日花もまた真希に無理矢理連れられて来ていた。机を挟んだ向かいで目を点にして、私と真希の顔を交互に見つめる。
「それじゃあ、早速話してもらおうか、石和景さんよ」
まるで事件の容疑者だ。悪いことをしていないのに尋問をかけられるって、なかなか貴重な体験だよね。
「いや、本当、なんでもないんですよ……」
私は真希の顔を見ないで、悪あがきの言葉を口にする。しかし真希には通用しないようで、テーブルをばんっと叩いて、人情派刑事の如く厳しい口調で「故郷でおっかさんが泣いてるぞ」と、私の情に訴えかけてくる。実に名演技だけど、この件でお母さんは泣かないと思う。お父さんは泣いちゃうかもだけど。
「さあ、どうなんだ。お前がやったんだろ?」
真希のやつ、自分の演技に飲まれて、すっかり話の目的を忘れている。私はため息をついた。
「私は七尾くんのことが好きなんだ」
観念した石和容疑者は独白をはじめた、というところだろうか。明日花を見ると、どういった話の流れか掴んだのか、目をキラキラ輝かしはじめた。
ああ、もう。私は心の芯から観念した。明日花はこうなると、ものすごく頑固になる。話さなければ泣き出してしまうだろう。ああ、もう。
あの日は、八代台高校へ願書を出しに行く日だった。
これから受験を受ける学校に行こうっていうのに、雨が降っていて、一緒に願書を提出しに行くはずの明日花は風邪でお休みで、私は気持ちを落ち込ませていた。
私はせめて気持ちだけは明るくしたいと思って、薄いピンク地に小さく花がプリントされたお気に入りの傘を持って、自分と明日花の願書を提出しに向かった。
お気に入りの傘が、ただのビニール傘だったら七尾くんのことを好きにはなっていなかったんじゃないかと思う。
今でも思い出せる。学校に向かって伸びる桜の坂道を上っていた。もちろんまだ桜は咲いていない。それどころか葉も散ってしまっていて、寂しい景色だった。
風が強く、雨が横から打ちつけてきた。私は濡れたくなくて傘を少し斜め右に傾けて歩いていた。たぶん願書を出し終えて坂道を下っていた七尾くんも同じように傘を傾けていたんだと思う。
傘で視界が限定されていて、前の見えない私たちは、当たり前なんだけど、ぶつかった。
それが私と七尾くんの出会いだった。
「それでどうなったの?」
私が話しはじめてからより一層目を輝かせる明日花がワックワクで聞いてくる。
なにも机に身を乗り出さなくてもいいでしょ。私が連行されそうになって逃げまどっている時に「真希ちゃん、無理矢理はダメだよぉ!」って言っていたくせに。裏切り者め。
「明日花、ちょっと待って。話の核心に触れる前に。テリーさん、注文いい?」
真希が「なににする?」とメニューを渡してくる。そこで改めて、この場所が『ワッフルカフェ・テリーライト』だってことを思い出した。
「お前らね、しゃべるのもいいけど、注文頼むまで20分かかるのとかやめろ。大人は忙しいんだぞ」
『ワッフルカフェ・テリーライト』マスターのテリーさんが、やっと出番が来たかと洗い物をして濡れた手を拭きながらカウンターから出てきた。
最近テリーさんはすこし薄くなった頭をハンチングを被ることでごまかしている。当時まだ中学生である私に「髪に効くシャンプーないかな」と相談してきたことがあって、私は諦めて、ハンチングを被ることを勧めた。正直、テリーさんはもう手遅れだと思ったからだ。そんなくだらないことをテリーさんの頭を見て考えていると、その視線に気づいたのか、テリーさんはハンチングを深く被り直した。
真希は「エヘへッ。ケチケチすんなよ、テリーさん!」と愛嬌たっぷりな笑顔をみせる。
こんなキュートな子に笑顔を向けられたら、忙しい大人達は簡単に騙されてしまうだろうな。
「しょ、しょうがねぇなぁ。常連さんだしな。大目にみといてやるよ」
ほらやっぱり。鼻の下、伸びてるし。
テリーさんの行動をつぶさに観察していると明日花が何かに気づいたように手を叩く。
「そうかっ! 店名の『テリーライト』ってテリーさんの頭がLIGHTのようだってことなんだ!」
場は一瞬にして凍りついた。
私は笑いそうになるが、笑ったらまずい空気だとわかっていたから、口を手元で押さえながら咳をすることでごまかした。真希も窓の向こうをシリアスな顔で眺めている。テリーさんは無言のままカウンターへ戻っていき、明日花はなぜ変な空気になったのかわからない顔をしている。
どうしよう、この空気。
考えても結論は出ないまま、5分ほど無言の時間を過ごしたところで、テリーさんがカウンターの向こうから出てきた。別のハンチングに変わっている。テリーさん……。
「……それで注文は何にするんだ、君たち」
なかったことにしようとしたのね。うん! なかったことにしよう!
私はカフェモカを、明日花は抹茶ラテ、真希はブレンドコーヒーと森の果実のショートケーキワッフルを注文した。それにしてもテリーライトに連行されたときは驚いた。
連行されている間、どこへ行くのかを訪ねると、真希は「あたしの行きつけに連れていく!」と言って、到着したのがテリーライトだった。
私自身、テリーライトを中学生の時から利用していたし、たまに明日花とも来ていた。真希もどうやら昔から利用していたらしい。
今までテリーライトで会ったことはなく、テリーさんも『お前ら知り合いだったの!?』と驚いていた。
「それで! ぶつかった二人はどうなったのさ」
真希がニヤリと笑う。明日花もまた机に身を乗り出してくる。そんなに面白い話じゃないけどな。私は改めて話しはじめた。
「その……ぶつかったときに、その拍子で私の傘が壊れたの」
傘が壊れた。こんな出会いがあるんだって、後で思った。おかしな出会いだよね。
願書を一人で出しに来ていた七尾くんは、たぶん責任を感じて、私を傘に入れて願書受付に付き合ってくれた。
願書を出し終わって、傘なしにどう帰ろうかな、なんて考えながら外に出ると七尾くんが待っていた。
「本当にごめんなさい。あの傘、大事なものだったでしょ?」
「いえ、いいんです。私も不注意だったし」
「お詫びと言うか、その……あの傘、俺に弁償させてください!」
腰から60度の角度で頭を下げた。その勢いでジップが閉まっていなかった鞄からペンやら参考書やらがこぼれてしまう。
あたふたする七尾くんを見て、あぁこの人必死になってくれているんだ、いい人だな、なんて思っていたら、なんだか笑えてきた。
声を出して笑っていると、七尾くんはもっとあたふたして、またそれがかわいくって笑った。
「はぁ……わかりました。……弁償、お願いします。だから、その、そんなにテンパらないで?」
「あ、あぁ! はい」
七尾くんは返事をすると、真っ赤な顔ではにかんだ。その表情を見て、不思議なんだけど、少しドキドキしてしまった。
それから私たちはまっすぐ学校に戻らず、そのまま前に傘を買ったお店まで行った。その間は相合い傘。今思えば、すごいことしてるなって思う。
「このままもうちょっと学校サボりません?」
傘はすぐ手に入ったけれど、さよならのタイミングがわからなかったんだと思う。七尾くんの言葉に私は違和感を感じることなく、素直な気持ちでうなづいた。
私たちはカフェに向かう間も、カフェに入ってからも、お互いのことを―部活のこととか、受験生らしい悩みとか、本当にどうでもいいくだらない話を―これでもかってくらいに話した。あっという間に時間は過ぎていった。
「うわ。そろそろ戻らないとヤバい時間になってきたかも」
七尾くんがそう言うまで、全然時計を気にしてなかった。時計を見ると、学校を戻る予定時間を1時間半もオーバーしていた。時間を気にしたくないくらい、時間に気が回らないくらい、楽しかったんだと思う。
「それで、駅でさよならして、今度は高校で会おうねって。さよならした後、不意にさびしくなって。もしかしたら恋したのかな、恋って嬉しいとか寂しいとか、プラスの感情もマイナスの感情もぐちゃぐちゃで、奇跡みたいなバランスで存在するんだな、みたいなこと考えてた」
明日花は黙って真剣な顔をして、真希は机に肘をついて、一見すると退屈そうに話を聞いていた。一通り話を終えると二人は一度目を合わせ、私の方にその目を向ける。
「景、マジで恋してるんだ」
「景ちゃん……」
最強文化系美少女の目には涙が浮かんでいた。ただの恋バナで、泣きそうな顔をしないで明日花。
「はい、お待ち! モカと抹茶ラテ、ブレンドコーヒーと森の果実ショートケーキ風だぞっと」
テリーさんがトレンチに注文の品を載せて唐突に現れた。急に声が聞こえたので、ビクッとしてしまった。しかし、テリーさんの声も最強文化系美少女の耳には届かなかったようで、急に立ち上がり、私の手を握って叫び声に近いボリュームで言った。
「わたし、応援するから!」
明日花がそんな素早い動きをするとは思っていなかった私は、またビクッとしてしまう。
近くに注文の品を持って来ていたテリーさんも、急に明日花が立ち上がったのでビクッとしてしまい、トレンチの中にブレンドコーヒーをこぼしていた。
「そうだね! あたしも応援するよ。景と友達になれたんだ。協力は惜しみません!」
「景ちゃんの初恋、だもんね?」
「え、えぇ…まぁ……ハイ」
二人のテンションの突沸具合に全然ついていけない。困ったのでテリーさんを横目で見るとテリーさんは注文の品を出すタイミング失って、シドロモドロしていた。明日花はそんなテリーさんに気づかず、「うーん……。でも、何したらいいんだろう?」と話を続ける。
明日花、テリーさんを無視しないであげて! あ、あぁ、テリーさんカウンターに戻ってっちゃったよ。
「何したらって、できることならなんでもしちゃえばいいんだよ!」
「……うん!そうだね! 真希ちゃん!」
私がテリーさんの行動を観察している間も、明日花と真希はテリーさんに一切の関心を払わないまま話を進めていく。
あぁ、テリーさん帽子とって頭拭きはじめちゃった!
今日はテリーさんにとっての厄日なんだろうな。散々な目にあってる気がする。
ほら、うつむいたまま頭抱えちゃった。すごい落ち込んでるわ。って、あれ? なにかひらめいたのか急に顔を上げたぞ? こっちむいた!
「おまえたち! こんな話、知ってるか?」
テリーさんがカウンターの向こうから声をかけてくる。また無視されるんじゃないかと、明日花と真希に顔を向けると、案の定聞いていない。私はちゃんとテリーさんをチェックしていたからね。たぶんこっちの二人はいつまでたってもテリーさんの話に食いつかないだろうから、私が代わりに食いついておく。
「な、なに? テリーさん!」
「……あ、ありがとう。石和ちゃん」
涙ぐむテリーさん。いい大人が涙ぐまなくても、と若干引いてしまったけれど、優しい私は話を聞いてあげる。
「そ、それで、何かなぁテリーさん」
「おう」と言ってから、テリーさんは鼻をすすって続けた。「おまえたちの学校にちょっとかたむいた校舎があるだろう?」
「旧校舎のこと?」
「あぁ。あそこのエントランスの靴箱のレイアウトが今使われている新校舎のエントランスと全く同じらしいんだ」
「へぇ……それで?」と、真希がやっと食いついてきた。しかし興味はさほどない様子。
「旧校舎の方のエントランスへ行って、実際に好きな人が使っている靴箱と同じ位置の靴箱にラブレターを入れる! すると想いが伝わって、両想いになれるらしい」
「へぇ……それで?」と全く同じ口調で畳みかける真希。
「妙案だろう!?」
「……はあ」
真希がため息をつく。私も同じタイミングでため息をつく。おまじないが妙案だなんて。あきれていると明日花が口を開いた。
「何かいい手はないかな?」
あくまでも、無視の姿勢を貫く明日花だった。
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