やさしく殺して…~ある令嬢の恋語り~
碧い鉄馬883
第1話
お兄様を異性として意識し始めたのはいつのことだったでしょうか。
今私の目の前に広がる庭園。かつて走り遊ばれるお兄様の後を、小さな足で懸命に付いてまわっていた私。もうすでに、その時分には恋をしていたと記憶しております。
今にして思えば、それは至福の時でございました。
「わたくし、お兄様と結婚するの」と無邪気に微笑む私に、お兄様も「よしわかった。イシュトリアは僕が生涯守ってやる」などと胸を張っていたものでございます。
私にとってそれは騎士(ナイト)よりも頼もしく、そして凛として咲く百合よりも美しい。まさに私だけの王子様でございました。
あれから十余年の時が過ぎゆき、夢とは儚いもの。愚かな私でもそれを理解するまでに成長いたしました。
世には変わるものと、変わらないものとがございます。
繊細でビロードのような少女の夢など、容易く壊れ、変わることが当たり前とは存じております。
しかしお恥ずかしながら、私のお兄様への慕情はいささかも変わることなく、むしろ深く熱く燃え上がる一方でございます。
恥知らずな娘だとお笑いください。
穢らわしく畜生にも劣る痴れ者だとお咎めください。
しかしながら私の心の奥底にくすぶり続ける真っ黒な炎は、もはや私自身でもどうすることも叶わないのでございます。
「イシュトリアお嬢様、風が吹いてまいりました。風邪でもひこうものなら明日の式に差し障ります」
「ありがとうエリアータ。もういいのよ」
バルコニーで涼む私を心配しに来てくれたのでしょう。
確かに少し肌寒くなってまいりました。緑豊かな庭園もチラチラと落葉を始め、風に揺らぐ木々が少し寂しそうに見えます。
乳母であり教師でもあるエリアータは、心配そうに私を見つめるのですが、その気持ちはとても嬉しく思います。
お兄様の次に大切なエリアータ。
誰にも言えない、私の二つの秘密を知っているエリアータ。
お兄様を愛していること。
そして……。
「ですがそろそろヘルムート侯爵様がお見えになります。明日の式のご挨拶とのことでございます。エルサラム様も既に公務からお戻りでごさいますれば……」
「お兄様はもう戻っていらっしゃったのね。明日の私の婚礼の儀、楽しみにしてらっしゃったから……」
選帝侯でもあらせられる、ヘルムート侯爵様との婚約が成立した時のお兄様の喜びよう。思い返すとどうしようもなく胸が痛みます。
鈍く脈動する痛みの原因は分かりきっております。
ひとつは、嫉妬心をお母様のお腹へ忘れて生まれてこられたようなお兄様の笑顔に。
ひとつは、三年前奥方様に先立たれてしまわれた、お兄様のお気持ちを察するに。
僅かばかりでもヘルムート侯爵様への嫉妬の色を、せめて私だけにでもお見せくだされば本望でございました。
そう、私がお兄様の奥方様へ嫉妬の炎を燃やしていたように。
「遅くなりまして申し訳ございませんヘルムート様。ずいぶんお待たせしてしまったご様子で……」
「お、おお気にすることはない。婦女子のたしなみは、いくら時があっても足りぬと聞く。ときにフロイライン・イシュトリア。いや、もうイシュトリアと呼ばせていただいてよろしいかな?」
貴賓室には既にヘルムート侯爵様とお兄様、父上と母上も揃われており、随分とお待たせしてしまったご様子。
ヘルムート公爵様のティーカップは底が見えるほどになっております。
「はい。ヘルムート様。明日には妻となる身でございますれば、いかようにもお呼びください」
そっとエリアータに目配せすれば、さすが長年当家に仕えてくれた身。すぐさまヘルムート侯爵様へ熱いお茶をお持ちする。
「そうか、そうか。ありがたい。突然の訪問許していただきたい。情けないことに、どうにも明日が待ち遠しくてな」
私の歳の倍はあろう壮年のヘルムート侯爵様は、まるで子供のようにお笑いになる。
優しそうな目元に、威厳のある眼差し。武勇と公正に拠って立つ、と言われるお人柄をよく表しておいででございます。
「身に余るお言葉でございます。私も同じ想いでございます」
嘘ではございません。もしお兄様がいらっしゃらなければ、この歳の離れた、しかし無邪気に私にお笑いになられるヘルムート侯爵様をお慕いしたことでしょう。
「イシュトリアは幸せものだぞ。先の大戦での英雄、ヘルムート卿に見初められるなど、世の女子たちからすれば奇跡だ」
「英雄などと大層なものではござらんよ。いい歳をして、初めて妻を娶ることに浮かれておる道化師といったところ。それもこの様な美しい……。あぁいや、失礼」
「その様に想っていただけるイシュトリアは、帝国一の果報者だ」
そう言ってお笑いになる父上とお兄様。
お兄様の薄いけれど形の良い唇の奥から漏れる笑いは、心からの祝福でございますか?
私に向けられる新月のような目は、本当に笑ってらっしゃいますか?
もしそうであるなら、なんと酷いお人でしょう。
「や、夜も更けてきた。明日我が妻になるとはいえ、未婚の令嬢の屋敷に入り浸っては御家に由無(よしな)い噂も立とう。私はこれで失礼いたす」
ヘルムート侯爵様は優しく微笑むと私の頬にキスをされ、少し照れ臭そうにそそくさと馬車に乗り込まれました。
かわいいお方。
そして本当にごめんなさい。
求婚をお断りすることができましたなら、ご迷惑をお掛けすることもなく良かったのでございますが……。
私が貴方様の妻になることは、きっとないでしょう。私がなそうとしていることが完遂しましたなら、妻になるどころか、父上からも母上からも親不孝ものと罵られ、唾を吐きかけられることは目に見えてございます。
その時は狂った女だと思い、私のことはどうぞお忘れくださいませ。
ヘルムート侯爵様をお見送りし、夜とも思えぬ光明に気づき夜空を見上げてみますと、降るような星々。
「お兄様、昔一緒に流れ星を見たことを覚えておいでですか?」
「そんなことがあったかな?」
「ええ、ございましたわ」
幼き頃以来のお兄様との星空は、いつもよりキラキラと宝石を散りばめたようでございます。
「二人して流れ星に願いを込めたものです」
「ほう、ではイシュトリアはどんな願いを込めたんだい?」
まぁ、そんな事をお聞きになるなんてお人が悪い。わかってらっしゃるでしょうに。
「秘密です」
私は悪戯っ子のように微笑むと、庭園へと足を運びます。
「お兄様、夜のお散歩はいかがですか?」
「一緒に行こう。どこぞの痴れ者に襲われた、亡き妻クラシュナのようなこともある。敷地内とはいえ用心に越したことはない」
「そう……でございますね」
足元に気をつけよと、手を取って歩いてくださいます。
優しいお兄様。
私の心配をするにも奥方様のお名前を出される。
本当に女心に疎いお兄様。
それとも敢えてそうされているのでございますか?
「少し休もうか」
二人して噴水の淵に腰掛けると、ひやりとした岩が火照った身体を冷やしてくれます。
「私の気持ち、分かっておいでなのでしょう」と叫んでしまいたい気持ちを、少し安らかにしてくれるのです。
暫く無言で夜空を見上げれば、私とお兄様の髪の色と同じ銀色の月が、まるで私たちのために照らしてくれているようでございました。
「安心したよ」
息を吐きながらお兄様の口からついて出た言葉は、一瞬私には理解ができませんでした。
「何が……でございますか?」
「いや、なんといえば良いのか。あのような時とはいえ、今にして思えば……。イシュトリアには本当に申し訳なかったと思っている」
やめてくださいお兄様。その言葉は聞きとうございません。どうか……どうか……。
「まだ幼いイシュトリアにあのような汚らわしいことを……。イシュトリアの将来を考えれば、私は、私はどうすれば良いのかと……」
「私が望んでお兄様に抱いていただいたのです」
「とは言えだ。しかし、ヘルムート卿という高貴な方からの求婚……」
伏せられた瞳は、私を見てくださらないのですね。
その目はどこを向いているのでございますか。
それ以上は言ってくださらないで。
後生です。
「とても良い縁談だ。正直言うと、ホッとした」
ああ……お兄様は自分自身をご覧になってらっしゃる。
ご自身の精神のみを慈愛なさっておられる。
私のことなど露ほども見てはくださっていなかったのですね。
「本当にごめん」
謝らないで。
お願いだから謝らないでくださいませ。
私をこれ以上惨めにさせないでください。
「本当にごめん。幸せにおなり」
ハラハラと涙をこぼされるお兄様。
ああ……。分かりました。
今は、お兄様の望む妹でいましょう。
私はお兄様の頭をそっと抱き寄せます。小鳥の様に震えるかわいい、そして可哀想なお兄様。
さあイシュトリア。あなたの愛するお方の望む言葉を紡ぎなさい。
「ご心配なさらず。明日イシュトリアは幸せになります」
そっと腕を解くと、めいいっぱいの笑顔で私はお兄様の涙を拭いて差し上げました。
そう。今だけは。
幾分か時を刻み、すっかり重荷が取れた様な面持ちで立ち上がると、私に手を差し出されます。
それは本当に、司祭様へ告解(こっかい)なさった様な晴れ晴れした微笑みで。
「ずいぶん遅くなってしまった。明日は早い。さぁ屋敷に戻ろう」
「はい。ただお兄様、ひとつお願いがございます」
「なんだ? 私にできることなら良いのだが」
「どうか今日だけは添い寝してくださいませんか?」
僅かに緊張が走るお顔。
本当に分かりやすいお方。
「明日の婚礼の儀の事を思うと、心が張ってしまいます。嫁ぐ妹の最後のお願いでございます。お兄様がお近くにいてくださるだけで、私の心は緩やかになりますれば、どうか今日だけは……」
心の奥底に、私に対する負い目があるのを存じております。
きっとお断りにはならないはず。
しばし稚魚の様に泳ぐ瞳に、ついには諦めの色が灯ることを私は見抜いております。
「そ、そうだな。大事な妹の頼み。幼き頃のように頭を撫でて寝かしつけてあげよう」
「ありがとうございます。お兄様」
そう微笑みながら、凍える深淵の炎と冷えきってしまった指先を、差し出された手に預け、もはや見えぬ昏(くら)い星を見上げるのでございます。
互いに部屋へと戻り着替えを済ませますと、エリアータがお兄様を部屋へと案内してくれました。
「エリアータ。明日のためによく眠りたいの。暖かいミルクと、お兄様にお茶をお願いできるかしら?」
「かしこまりましたお嬢様」
一礼するエリアータと、はたと目が合います。
エリアータならきっと伝わるはず。
「おお。これが明日のドレスか。美しいな。これを着たイシュトリアはさぞかし麗しかろう」
私の気持ちもご理解なさらずに、よくもまあそのような事を。
窓際のトルソーに掛かったドレスを、近づいたり遠目でご覧になられるお兄様。浮ついたお声は、私が明日確かに嫁ぐ事への安心の現れなのでございましょうか。
ご自身の過去の過ちを消すように。
皮肉なものでございます。そのドレスを着た私は、明日貴方様のものとなるのでございますよ。
「お飲物をお持ちいたしました」
乾いたノックの音とともにエリアータの落ち着いた声が聞こえます。
「さあ、お兄様。お茶を飲んでお休みいたしましょう」
どうぞそのお茶をお飲みください。
きっと素敵な夢をご覧になれることでしょう。
最後の良き夢でございます。
月より流れる光の波がベッドまで流れ着き、お薬で眠りになったお兄様の姿をいっそう美しく映し出します。
白金よりも輝く絹糸のようなお御髪(みぐし)。
触れると清らかな冷たさが心地よい指触り。
薄く少し乾いた唇からは、健やかな寝息が漏れ、ここにお兄様が確かにいらっしゃることを私に告げます。
少し躊躇しながらもそっと唇を重ねると、えもいわれぬ快感が全身を痺れさせるのでございます。
逞しく鍛えられた胸は、つうっと指を這わすとまるで大理石のように滑らか。
細く長い指も、私の髪を触れるためだけにお使いいただけたなら……。
そんなお兄様のお身体は、しかし私のものではないのでございます。
あの日、今は亡き奥方様が亡くなられた日。
私を抱いてくださったあの日。私は分かりました。
私の中で果てるお兄様が口走ったあの女の名。
死んでしまえば、きっとお兄様は私のものとなると盲信していたのは、愚かな考えでございました。
死んでまでもお兄様はあの女のもの。
それを身体を重ねながら思い知った私の気持ち、お兄様にはお分かりになりますまい。
それからというもの、お兄様が優しく私の名を呼んでくださるたびに。
私の髪をその美しい指でお触れになるたびに。
翡翠のような瞳に私を映すたびに。
私はお兄様に……やさしく殺され続けてきたのでございます。
でももう終わります。明日終わりにいたします。
お兄様を私だけのものにするため、私はお兄様を殺し始めるのでございます。
「イシュトリアお嬢様。本当によろしいのでございますか?」
ドレスの着付けが終わると、まるで苦い虫でも噛み殺したような表情でエリアータが呟きます。
「ええ。これは私が望んだことだから」
朝日が昇り始め、私の純白のドレスはまるで光を放つようでございます。それに負けない笑顔を、私はエリアータに届けられているでしょうか。
「分かりました。もう何も言いません。しかし、どのような事になっても、どれだけ時が経とうとも、またお会いした時は、必ず再びイシュトリア様にお仕えいたします事をお約束いたします」
「ありがとう。エリアータ。貴女がいてくれて、私は幸せ者でした。また会う日まで……」
しばし私たちは抱き合い、身体を離すとふと合わさる瞳。しかし互いに何も口にする事なく、エリアータはゆっくりと一礼し部屋を後にしました。
「お兄様。朝でございますよ」
軽く身体を揺すると、可愛らしい声を漏らしながら目を擦られる。そして窓際に立つ私を見て、その手を止めると呆然となさいます。
「イシュトリア、そのドレス……。婚礼の儀で着るものであろう。何よりもヘルムート卿に一番にご覧に入れなければ、失礼にあたるというもの」
「何を仰います。今日は私とお兄様の誓いの日でございますよ」
そう言って私はバルコニーへと躍り出ます。くるくると回りながら、お兄様にドレスを着た私を見てもらうために。
声をあげて笑いながら。
くるくると。
くるくると。
「危ないぞ、イシュトリア! 階下へ落ちでもしたら命はないぞ!」
私の元へ駆け寄るお兄様へ、今まで心の奥底へと押しやっていた言葉を、ようやっと口にする事が叶います。
「お兄様! お慕い申し上げております。今日、お兄様は私のものへ、私はお兄様のものになるのでございます」
「な、何を言っている? 狂ったか!?」
「そのようで。私はとうに穢れた恋に狂っております!」
動揺されるお兄様の胸に、私は躊躇なく飛び込みました。しかしどの様に対処したら良いか分からないのか、ぶらりと両手を下げられたまま。
抱きしめてくださっても良いですのに。
では……これならいかがでございましょうか。
私はめいいっぱい背伸びし、お兄様の耳元へ唇を寄せます。そして、こう言うのでございます。
「お兄様。奥方様を殺めたのは、私でございます」
まるで稲妻が体内を駆け巡った様に、お兄様の全身が震え始めます。
「なんと……今なんと言った?」
震える声をようやっと絞り出されたお兄様。
ええ、何度でも告白いたしましょう。
「お兄様のお名前を使って、呼び出した奥方様を殺めたのは……私でございます」
叫びにならぬ叫びをお上げになると、私の首にお兄様の美しくも力強い指が食い込みます。
ああ……これでこの指は私のもの……。
「お前が! お前が!」
私を憎悪で罵る声と唇。
それはもう私だけのもの。
朝日に煌めく瞳に私の姿が映っております。
怒りにくらむ瞳は私だけを映す宝石。
うれしい……どんどんお兄様が私のものになってゆく。
ですがお優しいお兄様。
次第に指から力が抜けるではありませんか。
ダメですよ。そんな事では人は殺める事など出来ますまい。
私はたたらを踏みながらバルコニーの手摺りまで下がります。
ほら頭はもう手摺りの外。
もう少しでございます。
両手のふさがったお兄様のために、私もお手伝いいたしましょう。
両手を手摺りに置き、力一杯身体を外に押し出します。それと同時につま先で床を蹴り上げました。
ふわっと身体が軽くなった様でございます。
すると途端に視界が恐ろしく広がるのです。
ああ、秋の空とはこんなにも綺麗で澄んでいたのでございますね。
堕ちてゆく私。
次第に小さくなってゆくお兄様は朝日に照らされ、本当にお美しい。
これで私はお兄様のものに。
お兄様は私のものとなります。
綺麗な細指も、清流の様なお御髪も。少し高い可愛らしい声も。そして夢の中までも。全て全て私で埋め尽くされるのです。
私を殺める事で、生涯私で満たされるのです。
見えますかお兄様?
両手を差し出して微笑む私を、その手で殺めた私を瞳に焼き付けてください。
私が……
やさしく……
殺してあげる。
ああ、お兄様……
イシュトリアは……お兄様を永遠(とわ)にお慕い申し上げて
完
やさしく殺して…~ある令嬢の恋語り~ 碧い鉄馬883 @tetuuma883
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