零距離で会いましょう

ロセ

第1話

 夏の盛りだ。世話になった人がこの暑さに倒れそのまま亡くなったと聞いたので、お焼香をあげに行った。

 大きな家だった。庭に池までつき、家の後ろにでんと構えている山やここ一帯の土地も持ち物らしい。世間一般で言う所の金持ちだ。けれども故人は最後までそのこと認めようとはせず、銭勘定に五月蝿く質素倹約を信条とした主だった。

 喪主は故人の息子と娘が執り行っているようだが、ちょっと暇が出来てお互いに顔を見合わせると、遺産がどうのこうのと野暮ったい話を何回にも切り分けて話し合っているのだった。金が絡むとこうも人間は醜くなっちまうのか、と遠巻きに眺め終わると、故人の写真が小菊の中に埋められた部屋に通された。中に入ると、性別や年齢こそ違えども着ている服は黒一色となんとも気が滅入る光景が飛び込んできた。多少面食らうも部屋を見渡して、空いている座布団を探し出しさっと座りこむ。後は、坊主が来るのを待つだけだ。

 そう思っていると、ひそりと誰かが呟いた。それにしても惜しい人を亡くしましたね、と。その声に眉を潜め、よもやそれだけで話が終わるまいと聞き耳を立てる。

――惜しい人でした、実に惜しい。まだまだ閻魔様みたいに、色んなトコに睨みを利かせていて欲しかったのに。

――閻魔様、ですか。

――ええ、そうですよ。あの方はね、閻魔様みたいでした。耳がいいっていうだけなら、聖徳太子さんでしょうが。あの人の場合は聞くよりも、見る方なんです。よく仰ってましたよ。そいつの顔さえ見ればたちどころに判かっちまうって。

――有能か、どうか?

――そんなのは二の次でしたね、あの人は。じゃあ、判るっていうのは。

――それを教える訳には参りません。

――また、どうして。

――だってあなた、……ああ、しょうがないな。ヒントをあげましょう。これっていうのはね、つまりで……。

 場がぐっと張り詰めた。それを感じ取ってか、語り手がほくそえんでいるような気がする。

――遺産相続に直結する話なのですよ。

 その時だ、足音を鳴らして坊主が部屋に入って来た。坊主がぽくぽくと木魚を叩いている間、さっきの井戸端会議に感化され俺は故人の遺産について考えていた。腹黒い話を聞いちまえば、こちらも余計な詮索をしたくなるってもんだ。

 断定してもいいが、遺産はたんまりとあるはずだ。問題は、それが誰に渡されるのかという話で。固定の方法に倣って兄妹の人数分に分けられている可能性もあるにはあるが、十中八九貰う側は納得がいかないだろう。世の中、平和よりも自分の損得が大事ときているから。

 したり顔で頷いていると、坊主の読経が止んだ。式に参列していた人々が思い思いに腰を上げ、故人の棺前に列をなして焼香を上げていく。辛気臭い図だ。昔、外国の映画で葬式の場面があったが、こうも辛気臭くはなかった。鯨幕がいけないのか、はたまたあちらでは明るい花と風船で家を飾っていたからそう感じれただけなのか。正しい理由は分からない。分かっていることと言えば、いまさら葬式の様相に文句を吐いても、俺はこちらに慣れてしまっていて外国の葬式じゃ違和感しか感じられないだろうということだ。

 溜息を吐き、やっとのことで座布団から立ち上がる。列の最後尾に並び、自分の番が来るのを大人しく待っていると、座布団に座り不安そうにあちこちを見ているセーラー服を着たおかっぱ頭の少女がいた。焼香の手順を知らないんだろうか。しかも周囲の連中は脇を通り過ぎていくばかりで、手を貸そうという主はいないらしい。……親はどうしたんだ、親は。

 悪態をつくと、列から離れ少女の隣へ行く。と少女はゆっくりと顔を上げ、

「誰、ですか」

 と一言。「葬式客の一人だよ」俺はその場に腰を下ろしながら、少女に言う。

「お前は?」

「私……、私はお爺ちゃんの……」

 お爺ちゃん。ああ、じゃあ孫かと一人納得して、「焼香の手順が分かんないのか」と尋ねる。少女は表情を変えず、「お焼香をしているんですか」と驚いた声を上げる。俺は首を傾げた。

「読経は終わったからな」

「……そうなんですか。すみません、ありがとうございます」

 ぺたぺたと地面を触って、それからゆっくりと立ち上がる少女に俺はなんとなく合点が行った。この子、目が悪いんじゃないか。中腰のまま、「手、貸してやろうか」と俺。少女は俺を見下げて、「宜しいんですか」と尋ねる。

「宜しいも何も、手間かかっちまうだろ」

 少女はじいっと俺を見て、「そうじゃありません」と消え入りそうな声で答えた。そうじゃないんです。少女は頭を振って、危ない足取りで部屋から出て行ってしまった。……なんだったんだ。少女の存在が気がかりだったが、焼香も済ませてしまったしさあ帰ろうかと玄関へ足を向けたところで、同じく葬式に参列していた狸腹の親爺に止められた。

「まだ帰っちゃいけませんよ」

「何故です?」

「何故ってあなた、まだ結果が出ていないじゃありませんか」

「結果って……」

 遺産のですか、と問おうとして止める。さすがに失礼だ。そうこうしている内に、その親爺に参列客たちが密集した部屋へと引っ張って連れて行かれた。そこでは喪主たちが寿司や刺身、煮物に酒などを振舞っている。俺は不味い顔をして、早々に席に座る世話焼き親爺に耳打ちする。

「あの、俺はさすがに……」

 世話になったとはいえ、深いとは言えない。それに普段からの付き合いや仕事上での物でもないから余計に居心地が悪い。だが、親爺はいいのいいのとビールが注がれたコップを煽りながら言う。

「僕もね、そんなに故人と関わりあいはないんだ。ここにいるほとんどの人たちはそういう人たちだから、気にしなくっていいんだよ」

「はあ……。あの、ところでさっき言っていた結果ってなんでしょう?」

「おや、聞いてないんですか」

 狸腹をこちらに向けて、親爺はこう話し出す。

「失礼ですが、故人のことはどれくらい?」

「どれくらい、と言われましても……。そうですね。言葉が悪いですが、金持ちであったということは」

「そうなんですよ。故人はお金持ちでいらした。ここら辺一帯の土地であったり、後ろの山だったりとか。それを相場に換算してみると、ものすごい額だそうです」

 そりゃァな。自分でビールを注いで一口飲みながら、そう心に零す。

「問題は誰にその膨大な遺産が行くか、ですが……」

 親爺は周囲の様子をちらりと伺う。

「お迎えが来るその時にも誰が継ぐのかは言わなかったそうです。ただ遺言は残されていたそうで、それを弁護士の先生に渡してあるから今日、読み上げてもらいなさいと」

「へえ」

 サトイモを口に放り込み飲み込んで、

「でも、それがただの参列客の俺たちにどう関係が?」

 待っていましたと言わんばかりの喜色満面で親爺は答える。

「あるんですよ。その遺産の一割が貰えるんです」

「一割、ですか。そりゃ太っ腹だ」

「そうなんです。まあ、これにもちぃとばかり条件があるんですけどね」

「条件っつうと?」

 尋ねると親爺は取り分けられた寿司を一つ咀嚼し、こう説明する。

「このお家には、二人のお子さんがいらっしゃるんですよ。で、そのお二方どちらかの党を支持するんですね。もし自分が支持した方が遺産の相続人に選ばれたンなら、相続額の一割、それを支持した人間の人数分で割った額がもらえる訳です。いや、とんだ儲け話ですよ」

 聞きながら、裏がありそうな話だと思いよく喋る藪を突付いてみる。

「しかし、たとえ一割と言っても相続額をあげる訳ですよね? お子さんたちは何を思ってそうしたんでしょうか」

「おそらくより多く、そして強い後見人を探してらっしゃるんじゃないんですかねぇ」

「後見人、とはまた」

 そういえば、あの爺は会社も興していたっけか。そちらも軌道に乗っているとなれば、この遺産相続は俺が考えているよりも遥かに大きな額、いいやそれこそ一世代は思うままに遊べるくらいの額なのかもしれない。そらぁ、ああ何回も話しあうわな。

 狸腹の親爺は口の周りについたビールの泡を舐め取り、聞いてもいない話をし始める。

「私もね小さいんですが、これでも会社の経営者なんですよ。このご時世、必要なのは品格と技術、それから伝手です」

「伝手、ですか」

「ええ。会社を経営するには注連縄みたいに太いパイプがなきゃいけない。でもそういうパイプを築く為には、それこそ年単位でかかってしまうでしょう」

「相手の信頼を掴んだり、どれだけ自分の会社が相手の会社にとって有益かを示して行く為にもですね」

「そう、そうなんですよ!」

 パン、と親爺は膝を景気良く叩く。

「昭和時代の学生みたいに、やきもきする方法でしかパイプなんて築けないんです。これが実にまどろっこしい! そうこうする間に、会社は窮地に立たされるかもしれないし、どれだけ相手と付き合っていってもあっちが倒れてしまっちゃ付き合う意味がない」

 ですからね、と親爺は身を乗り出して言う。

「同盟なんですよ。我々経営者は遺産と機動に乗った経営者さんたちとパイプを持てる。お子さんたちは将来、強い後見人となる我々に前金として遺産の一割を渡す代わりに、強い後見人とそのパイプを得るわけです。万々歳としか言いようがありませんな」

「…………もし、負けてしまったら?」

 かんっ。空になったコップが膳に叩きつけられた。

「どんなに自分の会社から見て魅力的な会社さんがいるとしても、もう一人のお子さんと同盟を結んでいらっしゃったら私たちはその会社と一生取引できません。まァ、こうも太いパイプを貰おうってんです。それくらいの損がなければ、私たちばかりが得をしてますからね」

 しかしそう語る親爺の口調は雄弁としている。余裕があると見るべきか。

「後は結果を待つだけということで?」

「そういうことです。しかしね、私は今回の賭け、特に心配もしていないんですよ」

 口元に近づけていたコップを遠ざけ、「それはどうして?」と問う。親爺はむすうと息を吸い込む。

「そりゃあなた、決まっています。私が同盟を結ばせて頂いたお相手、長男の飛龍ヒロンさんはお若いですが既にご自分の会社をいくつも設立されているだけでなく、そのどれもがノリにノっている会社のお人ですから」

 頼んでもいないのに、親爺はその飛龍が経営者の肩書きを置く会社名を挙げた。新聞で騒いでいる若手の経営主というのは、ここの息子だったか。「それであなた……、ええと」とろれつが回らなくなりつつある口調の親爺に、俺は名前を告げる。

光遊コウユです」

「光遊、光遊さんね。あなた、察するにこの話を知らなかったんでしょう」

「ええ、まあ」

 そもそも、経営主でもない。思った一言をビールと一緒に飲み込む。「どうです? どちらのお子さんと同盟を結ばれますか」と親爺は人の気も知らずに、しつこく尋ねて来る。話は聞き終えたし、これ以上酒臭い狸の相手などご免被りたい所なんだが。視線をうろつかせていると、あの少女が出入り口のところで立ち往生していた。「失礼」と狸腹親爺に一言断りを入れて、恐々と部屋を見渡す少女に声をかける。

「どうした、中に入らないのか」

「え、……あの」

 不思議なことに少女は迷わず、そして正確に俺が立っている方へ体を向けたが、誰だろうかと言わん風に首は傾げている。

「さっき、手ェ貸そうかって声かけた野郎だよ」

 あっと少女は思い出した様子で短い声を上げる。

「何か、問題でもありましたでしょうか」

「問題? いいや、そうじゃない。ここに入るのも一苦労かと思ったんだ」

 少女はなんとも言いがたい表情を浮かべて、そうですかと言ったきり喋らなくなった。考え事か? 名前を呼ぼうにも、少女の名前を知らない。部屋に入るか否かよりも、自己紹介が先か。一人ごちつつ、障子に寄りかかって言う。

「俺は光遊っつうんだが、お前は?」

 少女はゆるゆると顔をこちらに向けて、「ヤツガ」と呟いた。「どう書くんだ?」と続けて尋ねると、少女――ヤツガは顔を俯け、あまり楽しくなさそうに話す。

「数字の八に片仮名のツ、それに……虫の蛾で、八ツ蛾」

 八ツ蛾の説明に、俺は破顔する。蛾、ってあれだろ。光にパタパタと群がっている蝶よりも翅がいくらか大きくて、その翅の模様がまた薄気味悪い虫。地方によっちゃ、手のひらくらいはあろうかというような大きい種までいる。可憐というには明るさが足りない気がするが、蛾の一字を与えられるほど恐ろしい顔立ちもしていない。「蛾って、なんでまた」と思わず、俺は思ったことを口に出してしまった。俺のぶしつけな言葉に八ツ蛾はむっとすらせず言う。

「蛾は、月の光を頼りに飛ぶから」

「単純に光じゃなくってか?」

 八ツ蛾は首を横に振って、こう続ける。

「元は、月の光だけです。蛾は自分の体を月と同じ位置に見ながらじゃないと真っ直ぐに飛べない、そういう生き物なんです」

 一つ賢くなったなと暢気なことを思いながら、問い返す。

「講釈は助かるけど、俺が聞きたいのはお前の親がどうして蛾なんて一文字を入れたかってことだ。当てるにせよ、もっとマシなのがあるだろ」

「私は……、あっていると思います」

「一体どこが?」

 八ツ蛾は俺をまじまじと見ながら、「一人ではまともに歩けもしないところが」と誰でもない八ツ蛾自身に冷たい一言を放った。まずったかもしれない。苦い顔を浮かべる俺に、八ツ蛾は言う。

「いつも真っ暗です。何にも当てになりません。前にお爺ちゃんが目がわるい人は耳で代わりをするって教えてくれましたけど、そうじゃないんです」

「そうじゃないって?」

 最後に、ヒステリックに泣かれてしまわないだろうかと冷や冷やしながら、八ツ蛾に聞き返す。と、八ツ蛾は顔を上げ、……きちんと俺の目を見て話すのだ。

「私の目は、蛾のそれと同じなんです。光遊さん」

 八ツ蛾がそう言い切ると、同時に「八ツ蛾!」と打つ様に強い口調で彼女の名が呼ばれた。八ツ蛾は声がどこから来たのか探しているらしく、首がぐるぐると回される。俺の方が先に声の主を見つけるのは当たり前だった。

 力士のように恰幅がよく黒い和装に身を包む三十か、四十くらいの女性が廊下の向こうからやって来る。遺産がどうの、と争っていた一人だ。狸腹親爺が話していた、爺のもう一人の子供、か。女性は厳しい目つきで八ツ蛾を見やり、すぐ隣にいた俺の存在に気付いてか頭を下げたが、俺の頭からつま先をじろじろと眺めるその視線は疑惑でいっぱいだった。女性はすすっ、と八ツ蛾の側へ寄ったかと思うと、その手を掴んでヤクザじみた口調で囁くのだ。

「先生がいらしたよ。あんたも並びな」

 八ツ蛾が返答をする前に、女性は彼女の手首を掴んでいつの間にだか静まり返っていた部屋に入って行く。その時、八ツ蛾がちらりとこちらを見た。その視線がまるで助けを求めるみたいに感じられ、遺産がどちらの子どもの手に渡ろうと知ったことじゃなかったが、つい部屋に足を踏み入れてしまった。立ち止まって、俺はふと首を捻る。

 …………、見えているじゃないか。


  ・

  ・

 

 上座に、礼服に身を包み襟の部分に弁護士バッジをつけた初老の男――弁護士が座っている。弁護士の男は細面の顔にハンカチをやり、「えー……」と言葉を濁す。

「それではこれより、梓小路 慶アズサコウジ キョウ翁よりお預かりしておりました遺言を読み上げたいと思います。申し訳ございませんが、ご家族の方は今一歩前へお出になられて頂けますか」

 弁護士が言うと、塊となった集団の前へ、背丈の高い男と先ほど八ツ蛾を連れて行った女性、そして八ツ蛾が横に並んだ。似てはいないが、あの女性が八ツ蛾の母だろうか。

 弁護士は目の前に並んだ数名をちらりと見て、「お名前を宜しいですか」と尋ねる。最初に応じたのは背丈の高い男で、頭を僅かに下げ体を捻り、後ろにいる集団を右手に弁護士を左手にとどちらからの声も聞けるような体勢を取った。

「長男の飛龍でございます。本日は皆さま、こちらまで足をお運び頂き梓小路が第一子としてお礼を申し上げます」

 そこで背丈の高い男――飛龍は深く頭を下げる。弁護士は飛龍が頭を上げてから、隣に座っている女性に目配せをした。女性は振り返らず姿勢を正した。その様たるや、まるで武者だ。

「梓小路 永鴎エイオウです」と言って、体をぐるりと反転させ、「こんなに大勢の方に来て頂いて、父もきっとあちらで嬉し涙を零していると思います……」

 どこからか、恰幅のいい女性――永鴎はハンカチを取り出し目元に当てている。ありゃ、真に泣いてないな。しかし目元を甲で拭う人や「負けんな、エイ公」と一声かける人がいるのだから、上手く場を騙せているのだろう。永鴎が前を向き、さあいよいよ遺言が読み上げられるかと思っていると弁護士は八ツ蛾に視線を寄越して言う。

「お嬢さん、お名前は」

 八ツ蛾は面をゆっくりと上げ、「はい」と答える。

「梓小路 八ツ蛾です」

 八ツ蛾はそれだけ言うと、黙った。ぽかんと開いていた口を手で隠しながら、狸腹親爺に毒づいた。何が、お子さんは二人だ。三人じゃないか。いらいらとしながら、周囲も俺と似た心持になっているのかと思ったが周りにいる誰一人として驚いている表情を浮かべていない。……となると、八ツ蛾の存在は周知の事実か。にしてもあの親爺は八ツ蛾を勘定に入れなかったんだと頭を捻って、八ツ蛾自身が言ったそれを思い出した。

――私の目は、蛾のそれと同じなんです。

 ……そういう事か。八ツ蛾が自分の症状をどこまで周囲(この場合は、家族)に話しているかは判らないが、爺があえて蛾の一字を入れるくらいだ。おそらく、家族には知れ渡っていると見るべきだろう。そして同盟を結ぶに当たって、八ツ蛾の存在が出てくる。飛龍と永鴎が彼女の目のことを同盟相手たちに話さないわけがない。自分のことで手一杯の娘にどうして経営が出来よう。それで、二人か。

「確認が終わりましたので、遺言を読ませて頂きます」

 弁護士はあまたの視線をふいっと逸らして、極めて事務的に告げた。

「俺が遺産として残している全ては、八ツ蛾にやる。以上。梓小路 慶」

 場が、一気に沸き立った。

「一寸待ってくださいな! それをお貸し下さい」

 永鴎が弁護士に詰め寄り、無理やり亡き父が残した文を奪い取る。弁護士が読み上げたまったく同じ内容が書かれてあったのか、彼女は目を点にしながらも事態への収拾を試みようとしている。取り乱した妹の手から飛龍は遺言を抜き取って、わずかに眉を寄せた。それから身じろぐこともせず、置物のように振舞っている八ツ蛾に声をかけた。

「八ツ蛾、どうやらお前が親爺の遺産を手にしたようだぞ」

 八ツ蛾は声の主を探しながら、「どなたですか」と問うた。

「飛龍だ。知らないか、知らないだろうな。お前とは三十近く年が離れているし、まともに顔をあわせたのも今日が初めてだから」

 飛龍は腰を屈め、八ツ蛾が何も言い返さないのをいいことに言葉を続ける。

「どうだ。八ツ蛾、俺と同盟を結ばないか」

「同盟?」

 悪魔めいた囁きに、永鴎は実兄を食い殺しそうな目でみやり、きゃんきゃんと喚いた。

「八ツ蛾、その男の甘言に乗せられちゃいけないよッ。そいつはね、いつもうまい汁だけ啜って行くことが得意な野郎なんだから」

「騙すことにかけちゃ、天下一品だと親爺にすら言わしめたくせに。どの面を下げてそう言うんだ、なあ永鴎?」

「うるっさいよ! さあ、どっちにつくんだい八ツ蛾」

「え」

 怒りの矛先が、八ツ蛾に向けられる。

「え、じゃないよ。このすっとこどっこい。まだ自分が置かれている状況が判ってないのかい」

「あの、私」

「お父さんが残した会社の経営に、ご懇意にして貰っている企業さんとの会合、この家の相続に土地の管理。いいかい、お父さんはねアンタ一人っきりじゃどうにもならないような代物をくれてやったんだ。普通の娘ならいざ知らず……、」

 永鴎の視線は鋭い。それは八ツ蛾のような妹に負けた屈辱か、それとも八ツ蛾に対する侮蔑からか。

「何一つ満足に出来ない娘は、あたしらを頼るしかないのさ。サァ、どうすんだい。あたしか、兄さんか。はっきりお決め!」

 実の妹に対する言い方じゃないと思った。柄でもないし、家族間のことに口を出すのは憚られるが、その場にて声を上げる。

「おい待てよ、永鴎さん。その物言いはその子に対してあんまりだ」

 般若のような顔つきで永鴎がこちらを睨むが、俺に取っちゃ狛犬程度だ。

「他人がよそ様のことにああだこうだと口出ししないで欲しいね」

「そうもいかねえ。俺は、その子……八ツ蛾お嬢さんと同盟を結ばせてもらっているんでね」

 永鴎の真っ赤な顔が一瞬にして血色を失い、はあと呆けた声を上げ、その隣で飛龍も呆然としているがすぐさま八ツ蛾に問いただす。

「本当なのか、八ツ蛾」

 もう一芝居か。

「八ツ蛾お嬢さん、俺ですよ。光遊です」

 八ツ蛾は迷うことなく顔をこちらに向け、「はい」と頷いた。飛龍は頭を抱え溜息を零し、永鴎はお先真っ暗と言いたげな表情をしている。ほうら、と俺はこれみよがしに笑う。これからの展開がありありと想像できて、愉快だったのだ。

「梓小路翁から全てを譲り受ける権利は、八ツ蛾お嬢さんにしかないんです。あなたたちにではない。するとですよ。あなたがたが取れる姿っつうのは、八ツ蛾お嬢さんを虚仮にするでも傀儡のように操ることでもありません。ただ平身低頭、乞い願う。それに尽きるはずでは」

 永鴎は忌々しそうにこちらを見るが、俺の言葉に対する批判は出来なかったのか八ツ蛾を罵った。

「こんなヤクザ染みた野郎、どこで知り合ったんだい。え、八ツ蛾。お父さんも草葉の陰できっと泣いているよ」

 確かに背中に花は飛んでいるが、今はそれだけだ。縁は爺がすっぱりと切ってくれた。八ツ蛾が顔をちょっと上げたかと思うと、彼女はこう言った。

「会社はお二方に差し上げます」

 野次馬たちが色めき始める。永鴎が勝ち誇った笑みを浮べ、こちらを見た。

「煮えきらないね、はっきりどっちかって言ったらどうなんだい」

「……興味がないので」

「じゃあ、八ツ蛾。会社は俺か、永鴎で話し合って相続するということでいいね」

「はい。ですが、これには条件があります」

 条件、それは何かな。すっかり機嫌を良くした飛龍は口ずさむように問い返した。

「この家とこの家の土地に関わるものは私にお譲り下さい。それ以外にまだ残っているものはお二人に差し上げます」

 飛龍は口元を吊り上げながら、

「いいよ。お前にとってもその方がいいだろうね。新しい家を買うとしても慣れるのがたいへんだ。永鴎」

 これでいいな、と妹に目配せする。永鴎はふん、と鼻を鳴らし、「いいですよ、それっくらい」と潔く引き下がった。梓小路の子どもたちが静まったのを見て、弁護士は復唱した。

「それでは、家屋ならびに土地、それらに関わります全ての権利は八ツ蛾お嬢様に。それ以外につきましては、飛龍様、永鴎様のお二方が話し合いによって決めるということで、お間違えありませんか」

 数名はこくり、と頷いた。弁護士は場の行く末を息を殺して見守っていた俺たちへと、視線を投げる。

「こちらにお越しの方々、あなた様方も私と同じく本件に対する証人のお一人です。ゆめゆめ、謀ることのありませぬよう」

 弁護士はこれから手続きをしなくてはいけないと言って、この場を後にした。


  ・

  ・

 

 飛龍と永鴎も、各同盟人たちと今後の話し合いをするのか、足早に家を出て行った。残ったのは庭で煙草を吸っていると、「あの、光遊さん」と後ろから声を掛けられた。振り返ると、八ツ蛾が急須と来客用の湯飲みが乗った盆を持って立っている。どうやって湯を入れたんだろう。と思っていると、八ツ蛾は盆を縁側に置いて部屋の中へ消え、電気ポットを持って戻って来た。ああ、用意だけか。煙草を足元に落として火を踏み消し、声をかける。

「俺がやろう」

 八ツ蛾はすみませんと謝って、その場に座った。まず急須にポットの湯を注ぎ、しばし温める間、俺は疑問に思っていたことを尋ねた。

「八ツ蛾、お前はどうも俺のいる方だけは判るみたいだがそりゃどうしてだ?」

「特に、理屈はありません。もし何かあるとするなら、」

「するなら?」

 肺の中に残っていた煙をあっちを向いて、吐き出す。

「光遊さんが月だったと、そういう話なのかと」

 あっちを向いていた俺は八ツ蛾を見たが、なんら表情が変わった様子はない。男だったら相当女をたらしこめるな、こいつ。そんな感想を持ちながら、急須の蓋を取り中の湯を庭に捨てる。次いで、お茶っ葉を急須に入れまたお湯を注ぎ込み蒸す。

「その月ってのはあれか。蛾が光に集まる、っていう話の」

「はい」

 ふふ、と笑って、

「どうだい、お月様見つけた感想は。ちっとは明るいのかね」

「……ぴかぴかしてます」

「ぴかぴか、ね。そりゃ月とは言わない。星っていうんだ」

 湯飲みに出来上がった茶を注いで、「熱いから気をつけろよ」と断って手渡す。と、その瞬間だ。八ツ蛾が大きく目を見開いた。熱かったのだろうか。

「冷ますか?」

 八ツ蛾は瞬くだけで答えを寄越そうとしない。俺は首を傾げつつ、湯飲みを彼女の前に置く。八ツ蛾は自分の手のひらをしげしげと眺めていたかと思うと、

「先ほどは、助けていただいてありがとうございます」

 と頭を下げた。茶を啜りながら、手を左右に振る。

「別に気にしなくっていい。俺もお前の父親……、爺さんには世話になってたんでね」

「お知り合いだったんですか?」

「あの爺は犬っころ拾ったのと同じくらいの感覚だったんだろうと思うけどな。俺は、それなりに感謝しているよ。真っ当な方に返してもらえて。だから娘のお前を助けたのも、当然の理って訳だ」

 八ツ蛾の頭を荒く撫でるとまたも彼女は大きく目を開き、「……明るい」と呟く。そしてすくりと立ち上がると、「光遊さん、こちらに」とどこかへ移動しようと一歩を踏み始める。「待て、待て。手を貸してやるから、」と言いかけて、尋ねる。

「そういえばお前、どうして手を貸してやるって言ったら逃げたんだ?」

「……姉さんの同盟の人だったら、姉さんの機嫌を損ねてしまうかと思って」

 納得しながら、八ツ蛾の手を掴んでどこへ行きたいんだと聞く。八ツ蛾は間を置いて、「お爺ちゃんの棺がある部屋に」と言った。ああ、あすこか。

「分かった。行くぞ」

「はい」

 人気が無くなった廊下を歩く中で、こんな会話をした。

「いつもここにはどれくらい人がいるんだ」

「お爺ちゃんと私だけです。お爺ちゃんがご飯や洗濯をしてくれてました」

 あの爺が、と言いかけ飲み込むと、八ツ蛾は表情一つ変えず言う。

「これからは私一人です」

「家政婦は雇わないのか」

「雇う前に、いなくなりますから」

 誰が、と問おうとする前に、爺が眠っている部屋に辿り着いた。

「部屋、着いたぞ」

 八ツ蛾は部屋の中をきょろきょろと見渡し、指示を出す。

「お爺ちゃんの写真が飾ってある後ろ、」

 言われるがままに彼女をそちらに連れて行くと、写真が飾ってある奥には本来花瓶が置かれる場所となっている。

「お次は?」

 八ツ蛾は座り込み、板をぺたぺたと触っている。ぺた、ぺた、べたん、ぺた。音が違う。

「ここ、開けて貰えますか」

「ちょっと下がってな」

 彼女が後ろに下がったのを見て、八ツ蛾が指差した部分に爪の先をかけ持ち上げる。薄っぺらい板が上がり、その中を覗くと茶色の瓶が収まっている。両手を穴の中に伸ばし、瓶を引き上げる。何が起こったのか見えていないだろう八ツ蛾の手を取って、ほら、と瓶に触らせる。と、彼女は瓶の蓋を取って瓶を倒した。仕舞われていた物が吐き出される。何かの書類に判子、極めつけは自らぴかりと光を放つ金塊がごろりと出て来た。

「これは……」

「お爺ちゃんの遺産です。会社の株とここ一帯の土地の権利書、それから残っていた遺産で変えた金だそうです」

「て事は、なんだ。残っている権利ってのは、実際には会社の相続権だけか」

 八ツ蛾は何も答えず、金の塊の半分を俺の前に押した。

「どうぞ、光遊さん」

「は、」

「お礼です。助けて頂いた」

 鶴の恩返しじゃあるまいにと言い返したかったのに、目の前の金塊が言葉を失わせた。

「残りの半分もお渡ししたいのですが、この家はお爺ちゃんのものだからそれを保存する為にお金が必要で……。すみません」と、畳に額を当て謝る八ツ蛾。

「金の多い少ないは別にいい。それより、八ツ蛾、俺はこの金塊は受け取れない」

「どうしてですか?」

「単純明快だ。俺は、この金塊の金額に見合うことをしていないからだ。それに爺はお前の将来の為にこれを残してくれているんだろう。なら、これはお前のこれからの生活費に使わなきゃダメだ」

「でも、」

「でもも、かかしもない。さっきもそうだったが、知らない人間がこの家の敷居を跨ぐのが嫌なのか?」

 八ツ蛾は答えない。図星なのか、違うのか。

「行動を見られない訳だから、信用が出来ないってのもわかるが。それでも誰かは必要だ」

 ぐすり、と鼻を啜る音が聞こえ、ぎょっとして八ツ蛾を見やるとすっかり涙目になっていた。何がいけなかったのかと考えていると、「いっそ、蛾そのものだったら良かった」と少女は呟く。

「蛾だったら、月を前にして飛ぶだけでいい。でも人じゃ、まともに生きていくことすら出来ません。どんなにそれを願ったって、誰かが居てくれないと私は今日を生きることが出来るかも怪しくなってしまう」

 一生、自立出来ない。八ツ蛾はそう締めくくった。がけっぷちの縁に立たされている、と思った。かつての自分のように。八ツ蛾が立派に育って行ってくれれば、爺はきっと喜ぶだろう。赤の他人の俺ですら、真っ当になったことを泣いて喜んでくれたのだろうから。

「八ツ蛾、やっぱりこの金塊貰ってもいいか」

 口を開きかけた八ツ蛾を手で制す。

「ただで貰おうとは言わない。これは給料だ」

「給、料」

「そう。お前が立派に成長するまで、……そうだな。成人くらいにしよう。それまで父親に兄貴、出来そうな役は何でもこなすし、面倒臭そうなことはこっちでやってやる。必要なら、分かるまで説明もする。後見人として、爺の代役として振袖着ているところを拝んでやるよ。金塊は、それの給料だ」

 片手を差し出す。

「俺たちの同盟はそれでどうだい。八ツ蛾お嬢さん」

 八ツ蛾は涙を溜めて目を細め、恐る恐る手を取った。取られた手とは逆の手で泣く八ツ蛾の頭を撫でていると、少女は俺の目を見て呟いた。

「私の前からいなくならないでください」

 もしかすると八ツ蛾は今全部見えているのかもしれない。月と蛾の距離は零なのだから。

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