油断



 「ねぇ、君」

 「え?」

芙美は突然聞こえた声に、思わず振り返る。素早く口元に何かがあてがわれた。薬品の臭いが鼻を抜ける。「やばい」と心に思った頃には、芙美の意識は既になかった。激しい雨音は、いつの間にかなくなった。





次に芙美が目を開けると、車の中だった。男の声がする。まだ朦朧とする頭を必死に起こして、芙美は状況を把握しようとした。男は3人。芙美のいる後部座席の隙間から、男が1人、その向こうに2人の頭が見える。何を話しているのか、聞き取れない。芙美は自分の体が、自分のものでは無いような、そんな感覚がしていた。どれだけ葛藤をしていただろう?徐々に意識が、夢ではなく現実のものになっていった。雨に濡れた体は、寒さを思い出し小刻みに震えだした。それに、1人の男が気付いた。

 「・・・震えてるじゃねえか」

 「目ぇ覚めたのか?」

 「みたいだな、うっすら目開けてやがる」

 「まぁまだ、体は自由が利かないさ。放っておけ」

助手席にいる男が言った通り、芙美の体は自由が利かなかった。全身がしびれているようで、体勢を変えることすらできなかった。震えも止まらない。芙美は心の中で、何度も叫んだ。「だれ?」「だれか、だれかたすけて」と、震える手で座席を掴もうと手を動かす。しかし、力の入らない手では座席を引っ掻くことしかできない。どれくらいの間、そうして居ただろう。どれほどの間、車は走っていただろう。途中から気が付くと、男たちはマスクをしていて芙美の横たわる後部座席をカメラに収めていた。しびれはなくなったが、震えは依然として止まらない。芙美にようやく出来たことは、捲れ上がった制服のスカートを直すことくらいだ。「怖くない、怖くない、怖くない」と心の中で、芙美は呪文のように何度も繰り返していた。

 「さぁ、着いたぜ」

 「楽しませてくれよ」

車は急ブレーキで止まり、芙美は座席の下に転がり落ちた。反射的に体を起こすと、スライドドアが開かれた。雨は激しさを増しており、生臭く温かい空気が芙美の頬に触れた。

 「降りろ」

動けずに固まっていると、足を引っ張り引きずり降ろされた。泥水が顔に跳ねる。その男の右手にきらりと光るものが見えた。その瞬間、芙美の太ももがチクリと痛んだ。わずかに鼻を掠める鉄の臭い。男は再び右手を振り上げた。その奥に、ビデオカメラを回す男。芙美は、暗い闇に向かって走り出した。「殺される」そう思ったのだ。木の根や、草のツルに引っかかり転びながらも、芙美は必死で逃げた。男たちは懐中電灯でこちらを照らしているのが分かる。雨の線が何度も目に焼き付いたから。

―――ザーッ、という雨の雑音が耳のすぐ横で聞こえる。痛みと、恐怖で芙美はどうにかなりそうだった。

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