20.

勇壮に、軽快に、ピアノの音色が静寂を打ち抜く。石畳を駆ける騎馬のような力強いそのリズムは一瞬で聴く者を惹きつける。

弦を引き抜く。題名の通り早く情熱的なパッセージを持つこの『アレグロ・アパッショナート』はカミーユ・サン=サーンスのチェロ曲だ。緊迫感を孕むマイナーが下降音階によって甘く情熱を奏でる。

『アレグロ・アパッショナート』の名が付く曲は二つ存在する。一つはチェロによって弾かれることの多いこの作品四十三であり、もう一つはピアノ独奏、または管弦楽を伴い演奏される作品七十の二曲だ。二つの曲に関連はないが、シンプル且つ明確で印象的な主題はどちらにもアレグロ・アパッショナートのタイトルが相応しい。今回は、メロディアスで聴衆受けの良いと思われる作品四十三を一曲目の演奏に選んだ。

天文学や絵画、詩などの様々な領域において才能を発揮したサン=サーンスは、あらゆる楽器の技法や表現方法を一曲の中にふんだんに取り込みながらも、親しみやすく印象的な旋律を描く。正に天才の業だ。

冒頭の第一主題より更に甘美な第二主題へ入っていく。色彩で例えるなら第一主題は情熱の赤で第二主題は扇情のピンクだ。チェロの重音で始まるこのパッセージは少しの光彩の明るさが見える。揺らめき見え隠れするピアノとチェロの旋律。絶頂の昂ぶりへ駆け上がり、上り詰め、せめぎ合う色彩の中、再びの胸を打ち震わせる第一主題。

 少し刺激の強すぎる曲のため、後の演奏曲が退屈に思えるかもしれないがオープニングはこれぐらい強めの曲が良い。

 再び第二主題を巡り、最後の第一主題。終盤。音階の上昇と下降。ゆったりと髪を撫でるように。次第に色は混濁し、大きくダイナミックに渦を描き、フィニッシュ。

 すぐに拍手がホールを包み込む。栞さんと僕は立ち上がり深く頭を下げた。しばらく拍手の中に埋もれていたいが、まだ一曲目だ。二曲目に入らなくては。

 湖の彼女と先輩、タカヤが来ているかどうかだけは知りたい。彼らの席は中央辺りに近い席だったはずだ。しかし、まだ目が明るさで眩み、そこまで視野は届かない。前方に向井さん率いる中年女性のグループと金曜日レッスンのいたずら小僧たちが座っているのは認識できた。皆、思い思いに聴いているようだ。

 向井さんがこちらに手を振っているのを横目に、僕は栞さんに視線を送った。次の曲へ行こう。きっと三人とも来ているはずだ。

 

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