16.
公演の前日になった。僕はいつものように喉の痛みで目を覚ました。いくらか調子は良くなってきたようだが寝起きの痛さは相変わらずだ。床の冷たさで意識を覚醒へと導き、歯磨きや朝食など起き掛けの諸々の習慣を済まし、散歩へ出かけることにする。
湖までの道のりに当然ながら雪はすっかりなくなっていた。あの日から雪が降ることはなかったが肌をかすめる空気は一向に冷たいまま変わらない。雪が降った散歩道の表情をしばらく見ていなかったせいか、雪化粧を見た後のスッピンは酷く味気がなかった。
湖には先客がいた。それはヘラブナの釣り人でも、あの白猫でもなかった。
こういう時、人にかける言葉を僕は持ち合わせていなかった。小さなその背中に近づいていき僕は何度も口をパクパクと動かしてみるが、最適な言葉は出てこない。
「おはよう」結局、最初に出てきた言葉は無難な挨拶だった。しかし考えてみると、これが一日のファーストコンタクトの声掛けとして最適解だと気付く。
振り返った彼女の表情は酷く疲弊しているように見えた。
「おはようございます」
「久しぶりだね」
「そうですね。ずっと忙しかったから」
毎朝の散歩で二週間ほど顔を合わしたほどの関係なのに久しぶりと言うのは少し傲慢な気がする。
「ご愁傷さまです」
「ご存知ですか」
「ニュースになっているからね」
彼女は寂しそうに笑った。彼女のあの素敵な笑い声は、今は聞こえない。
声楽家の崎川静子は彼女の母親だ。肉親で、恩師でもある人物を亡くす悲しみを僕は知らない。
「ここ二週間ほど、ずっとドタバタしていました。もう本当に大忙し」彼女はため息をつくように言った。「何度、連絡しても反応がないのを不審に思った母のマネージャーが都内の自宅に赴き、倒れているのを発見したそうです。すぐに救急車と警察へ連絡。検査の結果、発見した時には既に亡くなっていました。それからお通夜にお葬式。引っ切り無しに母の関係者が家にやってくるし。ようやく悲しむ時間が出来たと思ったらすぐにまた電話がかかってきて、泣く暇もなかったです」
クラシックの世界で生きている人で崎川静子の名を知らない人はいない。業界にとっては大きな痛手であろうし、しばらく暗い影を落とすのは避けられない。ニュースは連日、崎川母娘の華々しい経歴や音楽的才能、親子愛などを写真や関係者へのインタビューを使いその訃報を繰り返し報道していた。
「お母さんの実家はこの市内だったんだね」
「はい。祖母がここの人です」
ニュースで分かったのだが、彼女の祖母の家は僕の住まいとは反対のここから十五分ほど歩いた所らしい。
「私、この湖が好きなんです。小さい頃からお祖母ちゃんの家に遊びに行くと母とここへよく来ました」
「そうなんだ」
「最近は一緒に来ることはありませんでしたけどね」
「忙しいだろうからね」
「ええ。うちは母子家庭でしたから、忙しくてもお互いに顔を見せるようにしていました。海外で学ばない理由を聞かれますが、単純に母から離れたくないだけです」
「お母さん思いだね」
「甘えん坊なだけです」これ恥ずかしいから内緒ですよ、と彼女は目を赤く濡らしたまま照れくさそうに言った。
「……僕もこの湖には思い出があるんだ」
「良い思い出?」
「いいや。良い思い出じゃない」
僕がそう言うと彼女は暗い面持ちのまま次に出てくる僕の言葉を待っていた。
「……止めておこう。どんな思い出か忘れちゃった」
「切ない思い出なんですね」
湖はどこまでも静かだった。深緑に染まった水面は波紋の影もなく深く沈黙している。
「喉の調子は相変わらずですか?」
「教えてもらった対策をしているおかげか良くなってはきているけど、やっぱり朝は痛いね」
「大きく息を吸うといいですよ」
「喉が痛いのに?」
「はい。歌を歌うように大きく息を吸ってください。それに短い呼吸は喉を乾燥させますからね」
「……やってみるよ」
「明日の公演、頑張ってください」零れかけの涙を拭うと彼女は小さく微笑んだ。それが今できる彼女の精一杯の笑顔なのだろう。
「ありがとう」
彼女は踵を返すと木々の覆うアスファルトの坂道を上っていった。
明日、聴きに来てくれるかと、尋ねられるはずはなかった。
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