15.

僕と先輩が出会ったのは、大学に入学してから半年ほど経った十月半ばの時だった。師事していた大学のチェロの先生が是非とも室内楽を組んで学ぶといいと勧めたので知り合いのバイオリンの二人の生徒に掛け合い、その伝手で先輩と出会った。最初に対面した時、僕は先輩に対して奇妙な人という印象を抱いた。大学近くの喫茶店でバイオリン専攻の二人と先輩が到着するのを待っていると、ブランド物のスーツを着こなすギリシャ彫刻のような人物が目の前に現れた。当然、先輩その人である。先輩は僕の対席にストンと座りチーズケーキだけを注文すると、持っていた革製の黒いブリーフケースから細めのピンクの魔法瓶を取り出したのだ。チーズケーキがテーブルへ運ばれてくると自己紹介もままならない中、先輩は美味しそうにフォークでチーズケーキを口に運び、魔法瓶のコーヒーを何口か飲んだ。その様子が映画『ティファニーで朝食を』の冒頭シーン――オードリー・ヘップバーン扮するホリー・ゴライトリーがティファニーのショーウィンドーの前で颯爽とバゲットをくわえているシーンを僕に連想させたことを未だに覚えている。映画のワンシーンのような優雅な振舞なのだがそこにピンクの安っぽい魔法瓶が入り込む風景はとても奇妙だった。フォークで均等にケーキを切り分け、魔法瓶の蓋のコップでコーヒーを飲む。そのカットを呆然と見ていると先輩はおもむろに顔を上げ、「コーヒーは好きか?」と僕に尋ねた。僕が「嫌いじゃない」と答えると先輩は満足そうに頷いた。先輩が一通りチーズケーキを食べるとそれぞれの簡単な自己紹介の後、ようやく四人の話し合いは始まった。話し合いの末、僕らは学内のコンクールを目標とし、ダリウス・ミヨーの弦楽四重奏曲第一番を演奏することになった。

それぞれ四重奏の経験は皆無だったり少なかったりしたのだが、いざ取り組むとなると次々に演奏してみたい曲が出てきた。ラヴェルが唯一書いた四重奏曲や弦楽四重奏の父と讃えられるハイドンの弦楽四重奏曲第七十七番『皇帝』などが挙げられた。あれやこれやとトライしてみたい曲が提示され、演奏する曲が決まらない中、先輩は「ミヨーがいい」と一刀両断に言った。途端に議論は中止され、僕を含む三人の頭には聞き覚えのない作曲家の名がふわふわと漂った。そんな僕らを見て、用意のいい先輩はあらかじめダビングしてあったCDと音楽プレイヤーを取り出し、一人ずつに聴かせていった。颯爽と奏でられる弦楽の洗練されたメロディーは僕らの心を虜にさせ、行き詰っていた議論に終止符を打った。その後、演奏曲が決まると学内コンクールへの出場やレッスン室の予約などは先輩が済ませてくれた。なんというか先輩は昔から自分のやりたいように物事を進めるのが得意な人だった。


僕は先輩と出会った時を思い出しながら母校の大学へと赴いている。今度の公演の練習のためかつてのチェロの恩師に演奏を見てもらうためだ。無論、僕にカルテットを勧めたのは彼である。

構内に入り、コンクリート造りの建物の入り口を潜る。この大学の建物は新設されたばかりの公民館を大きくしたような雰囲気だ。日差しがよく入り、壁材の木も綺麗なのだが、どこか無機質に感じさせる。四年間通っていたが、久しぶりに建物の中に入ると息がつまりそうだった。階段を上り足早に目当ての部屋へ向かう。

先生はレッスン室の中央にある二つのピアノ椅子の片方に座って僕を迎えてくれた。先生が手で座るように促してくれたので背負っていたチェロケースを床に置き、隣に腰を下ろす。部屋にある机には楽譜のほかに大手ドーナツチェーンの箱が置いてあった。先生は大の甘党で、現在もそうらしい。

「ひさしぶりだね」

「先生もお元気そうでよかったです」

「どうだい?公演が近いんだろう?」

「まずまずですね」

「君がそう言うということは順調に進んでいるようだね」先生は口元にシワをつくるとニッコリと笑った。

先生は六十過ぎの銀色の丸眼鏡をかけた白髪の男性で、ハスキーボイスの愛嬌ある笑い方をするのが特徴だ。

「お忙しいところすみません」

「いやいや、演奏を聴かせてくれるほど嬉しいことはない。この年まで音楽に関わっていると、音楽以外楽しみがこれっぽっちもなくてね。音楽の講師なんぞしていなければ他に趣味のひとつも楽しみも見つけられたのかもしれないが、これ以外なくてな。二年前に家内も亡くなるわ、もうそろそろ隠居でもするべきなのかね。申し訳ないが君の公演日は用事があって行けないんだ」

「出来たらご指導もお願いしたいのですが」

「おお。演奏が聴ける上に、指導もできるなんて嬉しくて涙がでるよ」

「すみません」

「冗談だよ」先生はさっきよりも深くシワをつくってみせた。「では、さっそく聴かせてもらおうかな」

「はい」

 ケースからチェロを取り出し必要な準備を始める。

「……彼は元気かな?」

「彼?」

「ほら、君が四重奏を組んでいた生徒で、女生徒に評判だった一つ上の」

「ああ、先輩ですか?」

「そうそう、君がいつもそう呼んでいたせいで名前を覚えられなくてね。どうだい、元気かい?」

「元気だと思いますけど、どうしてです」

「君たち、あの学内コンクールで銀賞を獲っただろう」

「はい」

「彼、とても面白い人だったな」

「そうですね。面白いし、変わってます」

 なぜ、先輩の話が出てくるのだろう。コンクールへの練習の際、先生にみてもらったが二回ほどの対面だったし、専攻が違うので先生が先輩を担当したことはありえなかったはずだ。

「いやね、今でも気にかけているんだ。君も、その先輩も」

「はあ、ありがとうございます」

 不思議そうに見る僕をみかねてか先生は咳き込む犬のような笑いをもらした。演奏の準備はすでに終わっていた。

「似ているんだよ。君たち二人」

「僕と先輩ですか?」

「ああ。部分的にね、とても似ている」

「どういったところでしょう?」

 先生は僕の質問を受け、机にあったドーナツに手を伸ばした。それは真ん中に丸のあるオーソドックスなドーナツで、先生はパクリと半分を一口で食べた。

「知ってるかな?ドーナツは半分になってもおいしい」

「……どういうことですか?」

 僕が尋ねると、先生は横に置いてあった自分のチェロを構えた。僕のより茶色が強くチョコレートのようなそのチェロはとても甘く香ばしい音を放つ。それは楽器の力か先生の力かはわからない。

「君の演奏の前に、少し一緒にデュエットでも弾かないかい?」

「いいですけど……、クンマーですか?」

「そうだ」

 先生はそう言うと弦の上に弓を置き、おおきく深呼吸した。僕は慌てて弓を構えた。ふぅっ、と息が吐きだされるタイミングで弓を弾く。チェロ同士が共鳴する豊かな倍音が部屋の中に満ちる。楽譜がなくうろ覚えだが出だしは間違っていなかった。あとは大丈夫だろう。

クンマーのチェロの二重奏曲作品二十二の一第一楽章。これは先生のためにある曲だと僕は思う。二台のチェロのメロディーは包容力あふれ、甘く溶けあう。クンマーという作曲家について僕はほとんど知識を持たない。おそらく音大生でも知っている人は多くはないだろう。この曲は大学在学中、先生が課題の合間に楽譜を持ってきて、初見で弾かされ散々な演奏だったためあまり良い思い出での曲ではない。その時も今回と同じく先生主導で唐突に演奏が開始された。分かりやすく素朴な曲なので苦労するはずはないのだがうまく演奏できず、悔しかった僕は次のレッスンまでにきちんと形にさせて再びレッスンに臨んだ。しかし、僕の努力もむなしく先生は「ああ、あれ?もうやらないよ」と言い、その後一切演奏することはなかった。一連の出来事は今でもよく覚えているため、クンマーの名は忘れずにいる。

「ふう」一楽章を弾き終わると先生は天井を仰ぎ、一息ついた。「前回よりはうまくいったかな」

「……そうですね」

 満足のいく演奏ではなかった。先生の言葉を肯定はしたが、おそらく先生も満足できたとは思っていないだろう。以前の練習のおかげか楽譜通りに弾くことはできたはずだが、僕と先生の演奏の間には薄白色の靄がうっすらと、しかしはっきりとかかっていた。

「君の演奏はすばらしいよ。そしてあの時、コンクールでの君たちの演奏もすばらしかった。しかしね、私と君とではまったく合わない」

「……はい」

 思わず、すみません、と謝りかけたが先生は怒っているようではなかった。どちらかというと、口元にシワをつくり笑っているように見える。

「今日はもう終わりにしよう。きっと君の演奏は完璧だ。上達もしているよ」

 先生はピアノ椅子から立ち上がるとチェロを片付け始めた。何も言えない僕は淡々とチェロを片付け、今の演奏について考えた。ミスはなかったし、フレージングは体が覚えていた。細やかな楽想記号まで覚えているとは言わないが、おおよその輪郭は捉えられていたはずだ。それでもクンマーの二重奏は本来の二重奏の形にはならなかった。

「今日はありがとうございました」ドアに近づき、先生に向き直り挨拶をする。

「いいや、こちらこそありがとう」先生は眼鏡を外してレンズを拭きながら、僕の方を向きニッコリと笑った。「最後にひとつ質問をしていいかい?」

「……なんでしょう?」

「自分の演奏は好きかい?」

 僕は考え続けたが、結局何も言えなかった。


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