11.

木製のドアを開けると軽快なトランペットの音色がスピーカーの向こうから僕たちを歓迎してくれた。僕の行きつけのバーで、五階立てビルの地下で営業している。バーテンは僕らを見ると、こちらへどうぞ、とカウンター席へ案内してくれた。フロアのテーブルを掃除していた背の高いウェイターが僕らのコートを預かってくれた。

「私、バーって初めてです」彼女は椅子に腰を下ろすと、きょろきょろと辺りを見渡した。開店時刻を過ぎたばかりだったので、僕たち以外に客はいなかった。

壁に設置された木製の簡素な棚にビンがずらりと並べられている。デュベルやヒューガルデンホワイト、アンカーリバティエールなどラベルの文字を読むことは出来るのだが、それらが一体どのような酒なのかは分からなかった。あのペケ四つのラベルはなんと読むのだろう。

「そうだよね。二十歳ならまだ、お酒に触れる機会も少ないか」

「お酒は大好きですよ。甘いのばっかりですけど」彼女は恥ずかしそうに言った。

「甘いのか。何がいいかな。この店のモヒートはおすすめだよ。強めでも平気?」僕は目の前にあったメニューを開いて彼女に見せた。

「カクテルってこんなにいっぱい種類があるんですね」メニューの羅列を見て彼女は興奮したように言った。

「それぞれ元のお酒、ベースによってこの店のメニューは分けられているんだけど、好きなお酒あるかな。ジンとか、ラムとか」

「聞いたことはあるけど……、ぜんぜん分かりません」彼女の視線はメニューの上下左右をさまよい歩いている。

 カウンターの向こうではバーテンがカチャカチヤと心地よい音で食器を拭いていた。BGMはララバイ・オブ・バードランドへ変わっている。

 正直に言うと女性と二人で出かけるのはあまりに久しいことのため、幾らかの気恥ずかしさと不安で胸がいっぱいだった。必死にエスコートをしているつもりだし、年上の男性としての気遣いを精一杯働かせているのだが、どれも日頃の僕には慣れない技術で的を射ずに徒労で終わっている気がする。先輩の口頭伝承(ただの自慢話だ)による女性との接し方をこれまで何度も聴いてきたがやはり先輩のようなヴィルトゥオーソだから出来る業なのだろう。

「あっ、私これが飲んでみたいです」

「どれ?」

「ブルームーン」

ピタリとバーテンの動きが止まる。彼は苦笑の表情で僕を一瞥した。そんなはずはないだろう。彼女は、バーは初めてだと言っていたし、カクテルに詳しそうでなかった。いや、もしかしたら酒に無知な女性を装っていたのかもしれない。彼女の真意を測りかねる。

「ブルームーン?」

「はい。とっても素敵な名前のカクテルだと思って」

「意味は知ってる?」

彼女は不思議そうな顔をしていた。

「青い月?」

どうやら演技ではないらしい。僕の深読みだったようだ。考えてみればそうだろう。何をそんな遠回りをして否定の意思を表すのだ。

「あれ? 違いますか?」

「いや、合ってるよ。大正解だ」僕は安心して笑って見せた。

「ただ、カクテルのブルームーンには違う意味もあってね」

「違う意味?」

「うん。完全なる愛っていう意味もあるんだけど、ほとんどの場合は相手に出来ない相談とか、叶わぬ恋とか、少し否定的な意味を暗に伝えるために使われるんだ」

「あっ、すみません。そういうお酒だとは知らず、うっかり失礼を」彼女は慌てて頭を下げた。

「大丈夫、大丈夫。だから、女性がブルームーンを頼むと、あなたとはお付き合いできません、っていう意味になるらしいよ」

 バーテンは僕らの様子を微笑ましそうに見ていた。

「へぇ、……じゃあ、ブルームーンを下さい」と彼女は冗談っぽく言った。

「傷つくな」

「だってブルームーンって素敵な名前じゃないですか。どんなお酒か気になっちゃって」

「それじゃあ、僕はモヒートを」

バーテンは注文を受けるとすぐにシェイカーを用意してカクテルを作り始めた。コッ、コッ、コッと氷が金属の容器にぶつかる小気味いい音が店内に響く。すぐに彼女のブルームーンが出来上がった。

「綺麗。青いのかと思ってましたけど、紫っぽいんですね」

「そうだね。菫のリキュールを使っているらしいから」

彼女はグラスを手に取り、口をつけた。

「あっ。強い。これ結構強いです」彼女は口を開け、手で仰いで見せた。

「強いんだ。ブルームーンの存在は知ってたけど、飲んだことはなくてね。美味しい?」

「うーん。美味しい……かも。不思議な風味で、うん、菫の香りもします」彼女はグラスを横から見つめ、カクテルを構成している原子を確認するように眺めていた。

「女性のご注文ということで、少し甘みを強めに出させていただきました」とバーテンが言った。「こちら、モヒートでございます」

「ありがとう」グラスにミントがゆらゆらと漂い、炭酸の気泡がシュワシュワと弾ける見た目が気持ちよかった。口をつけると、すぐに爽やかな風味が口を抜けて、甘い液体が喉を抜けていった。

「そういえば青いバラってご存知ですか?」

「青いバラ?」

「はい、どこかの会社が作ったそうです」

「見たことあるの?」

「ありますよ。公演のプレゼントの花束に混ざっていて。すごく濃いブルーのとか、このカクテルみたいに紫っぽいのとか」

「へぇ、見てみたいな。青いバラね」

「実際見てみると、中々に不気味ですよ。本当に青一色で、少し異様」

「そうなの?」

「なんか食欲をそそらない色というか、あっ、食べないですよ。でも分かりません?」

「いまいち、ピンとこないな」赤いバラを見ると彼女は食べたくなるのだろうか。美味しそうに赤いバラを頬張る彼女を想像してしまう。

「お花屋さんに行けば置いてあるかも」確かに。今度、探してみようか。

気が付くと店内のテーブルには客が数人着いていた。男女ペアの客や、女性のグループ客。それぞれ話題に花を咲かせているようだった。前に見たことある客もいた。

 彼女がとても気さくなおかげで、僕たちの会話も想像していた以上に弾んでいた。湖で会う時は、天気の話だとか、湖のあの白猫の話だとか話題が見つかりにくかった。彼女との話が上手くいっているのは、良い散歩のおかげかもしれない。

「歌はいつから始めたの?」

「いつからかな……。気付いた時には」

「筋金入りだね」

「小さい頃から音楽に囲まれて育ったので。一時期嫌いになりましたけどね。歌うこと」

「小さい時って練習するより、やっぱり友だちと遊びたいよね」

「そうなんです。母が歌の先生だったんですけど、練習したくない、友だちと遊びたいってごねてました」

「うん」

「でも、先生に言われたんです。歌うことは生きることと同じなんだって。呼吸をしなければあなたは生きていけないし、歌えないでしょ?深く、深く、お腹を大きく膨らませて息を吸いなさい。そうしたら同じように、深く、深く、お腹を凹ませて息を吐き出しなさい。ゆっくり呼吸を繰り返せば自然に歌はあなたを生かしてくれるわ、って。それで気付いたんです、私は歌わなきゃいけないんだって」

「へぇ。小学生の時でしょ?」

「どうしてかな。分かったんです。私は歌っていくんだって」

 彼女の話を聞いて僕は自分が恥ずかしくなってしまった。彼女はまったく僕と反対の生き方を選んできた。お腹を大きく膨らませる呼吸で彼女は歌い、生きてきた。チェロだって、歌わずとも大きく息を使って弾かなければいけない。低く響くバスの歌手のように弦を震わせなければいけない。僕は浅く短く呼吸をしてきた。色々な人に演奏を褒められたけれど器用に誤魔化して弾いてきただけなのかもしれない。彼女が若くも声楽家として活動をしている理由が少し分かった気がした。

 もし彼女に演奏を聴いてもらえたなら、僕のチェロは少しくらい変わるのだろうか。

「……よかったら、今度、僕の公演に来てくれないかな」彼女に僕の演奏を聴いてもらいたかった。「あと二週間後なんだけど」僕は財布を取り出し、最後のチケットを彼女に手渡した。

「え?本当だ」彼女は受け取ったチケットの文字を読んでいる。「あっ、ブラームスのチェロソナタやるんですね。いいなぁ」

「他に用事があったら無理しなくていいから。大した演奏じゃないんだけど」

「ううん。大丈夫ですよ。喜んで」最初に彼女に会った時と同じような気持ちの良い素敵な笑顔だった。

「よかった」僕は安堵し、ふぅ、と一息ついてしまった。

それから、僕らは何杯かカクテルを注文し、会話を弾ませた。驚いたことに彼女はべらぼうにアルコールに強かった。彼女は僕のペースを余裕で上回り、マティーニやギムレットと、次々とグラスを空にしていった。どうやら辛口のカクテルの味を覚えてしまったようで、ゴクゴクと喉を鳴らしながら美味しそうに胃に収めていった。声楽家なのだから、もう少し抑えたほうがいいのではないだろうか。アルコールは喉に良くないというのは一般常識であるから、彼女も知らないはずもない。これもこのバーの成せる業なのだろうか。

でも、まぁいいだろう。僕も柄にもなく小洒落たカクテルを数杯注文した。たまにはこんな風に飲むのも悪くはない。心配など今は無用だ。

僕はドク、ドクと血液が体を駆け巡る鼓動を感じながら、明日は喉の痛みだけではないと確信した。


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