10.

例にならって、僕は先輩が喫茶店を出て、再び職場へ戻るのに十分な時間を見計らってから店を後にした。先輩は、今回はしっかりお代を払ったようで、会計は僕の分だけで済んだ。

 外へ出ると、渇き切った冬の外気が僕を震え上がらせた。呼吸をするたびに口の中が古びたピンボール台になったようだった。空気は口腔をバンパーに弾かれるように飛び回り、喉の奥のポケットにすぽすぽと収まっていく。冬は僕らへの攻撃の手を緩める気はないらしい。朝のニュースは視聴者にアイスバーンへの注意を呼び掛け、各地で最低気温の新記録を叩きだしていると伝えていた。今年は北風小僧たちのオリンピックイヤーなのだろうか、いやに張り切っている。

 本日日曜日は、チェロ講師の仕事は休みで一件もレッスンは入っていなかった。先輩に呼び出されていなかったら一日中手持無沙汰だっただろう。しかし、これからの時間も別段、予定はない。散歩にでも出ようか。今朝はいつも通り湖まで散歩をして、例の彼女に会った。しかし、もう一度、湖まで行くのは面倒くさい。駅前の本屋に、雑誌の立ち読みでもすることにしよう。

 すれ違っていく通行者は皆、しっかりと防寒に力を入れながらもファッショナブルな装いに見える。悲しいことに僕の感性にはファッションのセンスは数パーセントもインストールされていない。他人が着ている服を見て素敵な服装だという感想を抱くことはできるのだが、自分をコーディネートするとなると思い通りにいかないのだ。先輩という完璧なファッションリーダーがあだなのか、着用するどの服装も間違いのような気がしてしまう。そのため、この紺色のコートの下は、灰色のカーディガンに白のワイシャツの組み合わせのこじんまりした無難な仕上がりになっている。あまり読んだことはないが、本屋へ着いたらファッション雑誌にも目を通した方がいいのかもしれない。

 本屋へ向かっていると、向井さんに出会った。向井さんは水曜日のレッスンの中年女性たちの一人でリーダー格の人物だった。両手を様々な指輪で飾り、首には金色に輝くネックレスをいつも身に着けている。レッスンにもその格好でやってくるので、僕は指輪を嵌めていると演奏に支障が出ますよ、と注意している。向井さんは注意を受けると「あら、いやだ」と言って笑いながら見せびらかすように外すだが、次のレッスン時にはまた両手は貴金属店の商品ケースのようになっていた。次第に僕も注意する気が失せていき、向井さんは重い両手を巧みに駆使しながら演奏をしている。正直、すごいと思う。

「あら、先生。こんにちは。外で会うなんて、ねぇ、珍しいですねぇ」

「こんにちは。そうですね。どこかへお出かけですか?」

「そうなのよ。ちょっと買い物に、ねぇ」

「なるほど」

「それより、ねぇ、先生、この間の演奏すばらしかったわよ。わたし、感動しちゃった。なんて言えばいいのかしら、ねぇ、響きっていうのかしら、生で聴くと、ねぇ、あんなに、ねぇ、違うものなのかしらねぇ」おそらくこの間の栞さんとの練習について言っているのだろう。

 向井さんは一息の中に何回も〝ねぇ〟という言葉を挟み込む。どうも本人は無自覚らしいのだが、聞いている側からすると鬱陶しいことこの上ない。おそらく独特のリズムを作って円滑なトークを繰り広げているのだと思う。癖というのは厄介だ。悪い人ではないことは確かだが、会うだけでその日の疲労が倍になる気がする。

 一度、向井さんの〝ねぇ〟のリズムを無くすためにわざと不自然なところで相槌を打ってみたのだが、話の尺が二倍になって僕を襲った。それ以来、僕は大人しく彼女の話を聞くようにしている。

「そうですね。生で聴くと違うかもしれませんね」

「やっぱり、そうよねぇ。CDで聴くのと、ねぇ、まったく違うんだもの。わたしもね、色々な演奏家のCDを聴いてみるのだけど、ねぇ、近くで聴くと、ねぇ、あんなにも違うとは、ねぇ、知らなかったわ」

「ありがとうございます」

「ううん。いいの。わたし、すっごい、ねぇ、いつも以上に、ねぇ、楽しみになったわ。先生の公演。毎回、とっても素敵な、ねぇ、演奏ですけれど、あんなにすばらしい、ねぇ、演奏を聞いたら、ねぇ、期待で胸がいっぱいだわ」向井さんたち生徒には僕のチケットはすでに配っていた。

「じゃあ、またレッスンでお会いしましょう、ねぇ」そう言って向井さんは僕の来た道を歩いて行った。今日は道端のせいもあるのか向井さんの話は短かった。向井さんの姿が見えなくなるまで僕は彼女を見送った。ほんの数分の会話だったが今日一日のハイライトは向井さんで埋め尽くされそうだ。

 本来、道を彩るはずの街路樹は葉を失いどこかうら寂しさを感じさせた。どれもコブシの木で、早春には白い花を枝いっぱいに咲かせてくれる。

生活圏内にある植物なら大体、名前と詳細を言うことができる。植物が好きで詳しくなったわけではなく、小学生の時、夏休みの自由研究として私の身近な植物と題したレポートを提出したからだった。駅前の通りには百日紅、小学校の並木はコブシ、家の前の道にはソメイヨシノ、といった具合に、エリアによって違う植物が植えられていることがわかった。他にも近くの緑道や、あの湖の周りの植物たちも調べた。述べ約百種。その研究の成果もあって、僕はカブトムシのよく取れるケヤキやナラの場所を知った甲虫博士として小学校で活躍し、クラスの人気を得た。小学生男子にとって大きなカブトムシ持つことはステータスであり、羨望の的である。もしかすると、あの頃の僕が一番輝いていた時かもしれない。

僕が過去の栄光に浸り、コブシとはどんな字だったのだろうかと考えながら本屋まで歩いていると突然声をかけられた。

「こんにちは」

考えながら歩いていたため反応するのが少し遅れてしまった。声がした方を見ると、湖の彼女が笑いながらこちらを見ていた。

「あっ、こんにちは」不意を突いた挨拶で反応がぎこちなくなってしまう。彼女も意図して不意を突いたのではないのだろうけど。

「どうしたんですか?考え事ですか?」

「あー、うん。そんなところかな」

彼女は最初に会った時と同じ白いダウンジャケットを羽織っていた。下は短めのデニムパンツに黒いストッキングを履いている。淡い栗毛色のロングブーツがとても暖かそうだった。

「偶然だね」

「またお散歩ですか?」ふふふ、と彼女は悪戯っ子みたいに笑った。違うよ、と言おうとしたが、あながち間違いでもないので何と返答しようか迷ってしまう。

「良い散歩と悪い散歩の違いについての考察を、論証を重ねながら散歩してたんだ」

「なんですか、それ」彼女はまた嬉しそうに笑った。「でも気になりますね。良い散歩はどうしたらクリアできますか?」

「当然の疑問だね。うん。実に良い質問だ」僕はわざとらしく、うむ、うむ、と頷いた。

「良い散歩は、良い足音から生まれる。良い足音には三つの条件がある」

「ふむふむ」

「第一の条件として、歩行者はアレグロ・マ・ノン・トロッポでコン・ブリオに歩かねばならない。これは心地よい足音を刻むためである」

「ほう」彼女はそうきたか、というような表情で楽しそうにしていた。

「第二に、街路樹ごとの幅は六歩ずつ歩くのが望ましい。最高でも十二歩までとする。街路樹が存在しない道の場合は電信柱でも構わない。それらは楽譜における小節の役割を担っており、適切な足音を作るために必須だからである」

「わあ」彼女は嬉しそうにパチパチと少し拍手をした。

「そして、第三の条件」

ゴクリと彼女が喉を鳴らすのが聞こえた。そこまで真剣にならなくてもいいだろう。

「靴底が抜けていないことが必須である」

 そう言うと彼女は吹き出して、笑い出した。我ながら良いオチをつけられたと自賛してしまう。うむ。実にすばらしい。

「以上」僕は満足気に言った。

「すばらしい考察です」彼女はまだ笑っていた。綺麗な笑い声が辺りに響いている。「どうしたらそんなことが思い浮かびますか?」

「良い散歩をすれば、ぽんぽん出てくるよ」

 相変わらず彼女と話すのはとても楽しかった。スラスラと言葉が出てくるのは良い散歩のおかげではなく、彼女の力だと思う。

ふと、僕の胸にもっと彼女と話していたいという想いが浮かんだ。

「よかったら、これから食事にでも行かないかな?良いお店を知ってるんだ」

そう言うと彼女はとても嬉しそうに顔を綻ばせた。

「本当ですか? ぜひ、ご一緒したいです」

 よかった。断られたらどうしようかと少し不安だったけれど、彼女の表情を見ると誘って正解だったようだ。

「それじゃあ行こうか」

「はい」

 二人で冬の街路樹を歩いていく。

「まずはアレグロ・マ・ノン・トロッポでコン・ブリオだからね」

 

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