9.

栞さんとの練習があった次の日、僕は先輩にメールで呼び出され、いつもと同じ喫茶店に来た。店内に入ると定席に先輩の姿はなく、珍しく僕の先乗りだった。腕時計を見るとあと三分で約束の十三時を迎えるところだった。先に注文を済ましても罰は当たらないだろう。ウェイターを呼び、アメリカンを注文しようとしたところで先輩がドアベルを鳴らし店内へ入ってきた。

「ブレンドをひとつ」

「なんともタイミングのいいことで」

「待たせたな。会社から出るのが遅れちまって」

「全然待ってないよ。ちょうどだ」腕時計を見るとピッタリ一時だった。「で、今日は何の用?」

「ん?ああ……、別段用はない。一緒に昼飯を食べようと思ってな」

「ああ、そう」随分勝手な用で呼び出されたようだ。

先輩は黒いトレンチコートとマフラーを脱ぎながらいつもの席へと腰を下ろす。僕も同じメーカーのコートを持っているのだが、先輩が持っているとまったく違うものに感じる。なにかタネがあるのならご教授いただきたい。

「練習は詰めに入ってきたか」

「うん。大体ね」

「順調でよかった」

「伴奏の栞さんが何も言わずと合わしてくれるからね。すいすい進んでいくよ」

「あの子、半端なく上手いからな」

「知ってるの?」意外な言葉が飛び出し僕は驚いてしまった。

「あっ……、うん。そうなんだ。言ってなかったか?」

「聞いてないよ。初耳だ」

先輩は少し落ち着かない様子だった。

「黙っていたわけじゃない。俺の妹が大学で栞ちゃんと同級生だったんだ」

「へぇ、知らなかった。妹がいることすら初耳だよ」

「そうだったか?まぁ言う必要もなかったからな」

先輩はどこか言い訳がましく、取り繕っている、そんな風に見えた。顔付きがいつもよりこわばっている。

「そういえば、お前の公演のチケットまだ貰ってない」

「そうなの?ちょうど持ってるよ」僕は財布から残り二枚の内の一枚を先輩に渡した。

「サンキュー。目を光らせて聴いてやるから覚悟しておけよ」

「はいはい」

「待てよ。この場合、目を光らせるのは変か。演奏は聴くものだしな。でも耳は光らないから」

「別に目を光らせて聴いても大丈夫じゃない?注意深く聴く意味合いなら」

「だよな。問題ないよな」

「実際、目も光らない」

「たしかに。発光は出来ないよな」

 人間の両目がチカチカと発光してコンサート会場にいるのを想像してみる。不気味だ。

「目が光ってくれれば資料読むのも楽なんだが。最近、視力が落ちてさ」

「眼鏡にしたら? 栞さんも楽譜を読むとき眼鏡かけるよ」

「へぇ。眼鏡かけるなら、俺はコンタクトの方がいいな」

栞さんの名前が出ると、先輩は再び、一瞬困ったような妙な表情を見せた。

もう少し栞さんと先輩の関係を掘り下げようかと僕が話題を探していると「失礼いたします。お待たせしました」の言葉とともにウェイターが注文したコーヒーを運んできた。

「ブレントは俺ね」ウェイターの登場に救われたのか、先輩は表情を和らげた。

ウェイターはそれぞれのカップを先輩と僕の前に置いて戻っていった。

「やっぱり香りが違うな、この店は」先輩はカップを手に取り、顔を近づけコーヒーの香りを味わっている。「お前、ブラック派だっけ?」

「いや、特に。気分によるかな。ミルクと砂糖を入れる時もある」先輩はブラック専門だ。さて、今日はどうしようか。テーブルの端に置いてあるブラウンシュガーの袋とカップと一緒に運ばれてきたミルクを交互に見る。

「お前さ、百万回生きたねこ、って知っているか?」

「なに、急に」今日も唐突に話題を振ってくる。「知っているよ。絵本でしょ」

主人公の猫は百万回生まれ変わり、様々な飼い主に飼われるのだが、毎度毎度ぽっくりと死んでしまう。その度に、猫の飼い主はひどく悲しむのだが、猫はまったく悲しくなかった。猫はどの飼い主も好きではなかったからだ。ある時、主人公は誰にも飼われていない野良猫だった。猫は百万回生きたことを周りの猫たちに自慢して暮らし、メス猫たちは猫の恋人や友達になろうとした。しかし、一匹の雌の白猫だけは主人公の猫に興味を示さなかった。猫はどうにかして白猫に興味を引かせようとするうちに、白猫と一緒にいたいと思うようになった。そして、猫は白猫にプロポーズをし、白猫もそれを受け入れた。二匹には子供もできた。二匹はともに年を老いていき、ある日、白猫は動かなくなってしまった。猫は初めて悲しくなった。朝も昼も夜も、百万回泣いた。そして、とうとう猫も白猫の隣で動かなくなり、生き返ることもなかった。たしか、そういう話だったように思う。

「それがどうしたの?」

「俺、あの話が大好きなんだ」

「うん」

「どうして、猫は百万回も生き返ったんだろうな」

そんなことは簡単だ。と思ったのだが、言葉にしようと思うとすぐにはできなかった。はっきりと答えを分かっている気がするのに、どこかへ隠れてしまう。

「どうしてだろうね」

「あんな風に生きられたらいいのにな」

やはり、最近の先輩は様子がおかしい。この間同様、歯切れも悪い。栞さんの件もある。先輩はいくつか秘密を抱えているように見えた。しかし、とり急いで聴取する必要はないだろうし、直入に聴くずうずうしさも僕は持っていなかった。第一、緊急の用件ならば打ち明けるのに躊躇う余裕はないはずだ。時間をかけても別段支障はない問題なのだろう。今は遠回しに尋ねることしかできない。

「何かあったの?」

「……いや、何でもない。白けさせたな。悪い」どうやら詳しくは話してくれないらしい。

いつの間にか先輩のカップは空になっていた。

「そういえば、まだ食べるもの注文してなかったな」先輩はそう言うと、近くにいたウェイターに声をかけた。

「クラブハウスサンドをふたつ」

僕の食べるものも決まっているらしい。

「それと」

そこはいつもの先輩のままだ。

「ブレンドをもうひとつ」

 

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