8.
どうしてそうなったのか詳しく知らないのだが、僕の周囲の人たちは栞さんと僕は付き合っているという認識をしている。その認識はカップルで構わないし、古臭くアベックと言ってもらっても構わない。周囲と言ったが、主に先輩と職場の受付の女性たちだ。先輩は勤め先の楽器メーカーでは営業を担当しており僕の職場は彼の縄張りのひとつになっている。先輩は色恋沙汰には首を突っ込まなくてはいられない性分で道端の痴話喧嘩にもお構いなく割り込むし、しまいには無理やり突っ込む空間を創造する荒業を度々してみせる。けれど今回の件に関しては、先輩が僕の職場の受付の女の子たちを口説き、お近きすための打ってつけの話題として、僕と栞さんの有りもしないスキャンダルをでっち上げたのだと僕は睨んでいる。
もう半年ほど前の話だ。いつものように出勤すると受付の女の子が僕を見た途端、そわそわと落ち着かない様子で、普段とは違う雰囲気の中、僕を出迎えた。彼女は奥の事務室へ引っ込み、何人かの受付の女の子を連れて僕のもとへやってきた。今まで出勤時に受付の女の子数人から歓迎を受けるという待遇を経験したことはなかったので、得心がいかないものの僕はなんだか嬉しくなってしまった。しかし、そんな僕を尻目に彼女たちが次に放った言葉は「栞さんとお付き合いしているんですよね」というまったく身に覚えのない事実確認だった。きゃー!聞いちゃった、聞いちゃった、と騒ぐ彼女たちを呆然と眺めていると事務室から先輩が顔をのぞかせ、可愛らしくペロリと舌を出しながら両手のひらを胸の前で合わせていた。
それからというものの、僕は職場へ行くたび受付の女性から励ましているのか、からかっているのかよく分からない言葉を貰うようになった。「栞さんは可愛らしいけどお嬢様っぽくて中々手が出せないですよね。けど、ああいうタイプは一歩踏み込めばすぐに進展しますよ」「栞さんかぁー、うんうん、お似合いかも」などなど。男性の絶対数が少ない職種なので、めったにお目にかかれない職場の恋愛模様を彼女たちはそれぞれ楽しんでいるようだった。その様子をみるに彼女たちの恋愛対象の枠に僕は少しもかすっていない。
今日は昼過ぎから栞さんと公演に向けての練習がある。本番はそろそろ三週間を切るまでに近づいてきていた。
練習のため職場へ向かう道中、今日の朝も例の声楽家の彼女に会ったことを思い出す。彼女はすっかりあの白猫と打ち解けたようで、毎朝お喋りを楽しんでいるようだった。彼女の猫語はあまり上手ではないようで、猫はきょとんした顔でその滑らかな白い体を彼女の足に擦り付け続けていた。どうして彼女があの湖に遊びに来るようになったか、気になってはいるが未だ聞けていない。しかし、僕自身に明確な理由があって湖へ散歩しているのではないので、聴いても困らせるだけだろうと自粛している。さすが声楽家というべきか、彼女も僕の喉の異変に気づいていたようで、色々とアドバイスをしてくれた。どこのメーカーの加湿器が良いとか、寝る前に出来る簡単な喉のストレッチだとか。
自動ドアを潜ると暖かな空気が僕を迎え入れてくれた。外の気温はマイナスに行くか行かないかまで下がり、ここら一帯の人々を苦しめている。春はまだ遠い。
「おはようございます」受付にはこの間と同じ女性が入っていた。
「おはようございます」
「栞さん、もう部屋でお待ちしていますよ」またか。いつになったら、違うという僕の意見を聞いてくれるのか。「何度も言いますが、栞さんと僕はお付き合いなんてしていませんよ」
「またまた」この調子だ。
「鍵はお二人でしっかり施錠してくださいね」それはどのような意味なのか。段々、ジョークがエスカレートしてきている気がする。僕の深読みだろうか。
チェロを倉庫から持ち出し、レッスン室の前まで向かうとピアノの音が聞こえてきた。栞さんだろうか。それしかありえないか。
これはつい最近聴いたばかりの曲だ。いや、違う。これは最近聴いたばかりのテーマだ。リストのパガニーニによる超絶技巧練習曲第六番『主題と変奏』。曲は中盤から佳境へと差し掛かっていく。すぐに僕の頭の中に二匹のイルカたちが泳ぎだす。大波と小波の押し寄せる重層。海水の流れを地層から操っているかのような低音部。途切れることなく湧き上がる高音の水飛沫。心の分子が蒸発しそうに震え上がりながらも静かに抑え込む、冷静で情熱的な演奏。
僕は栞さんの実力を見誤っていたらしい。彼女は高い技術力を持った伴奏者ではない。本物のピアニストだ。本来なら僕が飼い慣らせないほどの表現力を栞さんは持ち合わせている。簡単に言えばプロとしての演奏力。思わずドアの前で聴き入ってしまう。これほどまでの演奏を可能とするのに、なぜ彼女はピアノ講師という枠に収まっているのだろう。
演奏は次第に混迷を極める最終章へ突入していく。テーマの一片を感じさせる大胆な変奏。十指が鍵盤を横断、駆け巡るアルペジオ。ラストへ向けて唸りをあげるトリル。そして、スフォルツァンド。両手の和音で締めくくられる。
演奏が終わり少し間を空けて、僕はドアを開き、拍手をしながら部屋の中へ入った。栞さんは拍手をする僕を見ると照れくさそうに微笑みながら、ちょこん、とお辞儀をした。ピアノの上に楽譜は見当たらない。どうやら暗譜で弾き切っていたようだ。
「おはようございます」栞さんはいつも通り白のブラウスに黒のフロアスカートを着用している。ピアノ椅子に背筋を伸ばし、足を揃えて座り、膝の上にそっと両手を乗せている。
いざ、栞さんと対面すると本当にこの人がさっきのリストを弾いていたのか疑念が湧いてくる。鍵盤への激情に身を任せる瀬戸際の抑制力。どこにそのエネルギーを秘めているのか表面には微塵も顔を出さない。彼女の才能と振舞の齟齬が僕にはとても不穏でそこはかとなく気味悪く感じられた。
「僕が今まで聴いてきた中で最高のリストだったよ」
「そんな、大袈裟な」栞さんは顔の前で両手を振り、かぶりを振ってみせた。「この曲、大好きなんです。とても格好いいです」はにかみながら言う。
「この曲って荒波を表現しているように感じるんです。重厚な波の層、それがとても気持ちよくて」
栞さんの感想は僕が抱くイメージと似ていた。だから、これほどまでに栞さんの演奏に共感するのだろうか。
「ああ……、確かにね」栞さんの演奏力と振舞いの齟齬が腑に落ちないまま、僕は栞さんの意見を肯定した。
「僕もこの曲を聴くと、イルカたちが遊んでいる様子を思い浮かべるよ」僕は『主題と変奏』に以前から抱いている感覚を栞さんにそのまま伝えた。
「可愛らしいですね、それ。とっても分かりやすいイメージかも」栞さんは僕の意見を気に入ったようだ。ピアノの上に乗っていたペンを持つと楽譜にスラスラと何かを記入していた。近寄って見てみると、二匹のイルカが音符の周りを泳いでいるイラストがカラフルに描かれていく。
「こんなイメージかな」栞さんはペンをしまいながら言った。「では公演曲の練習、始めましょうか」
僕と栞さんが付き合っているという根も葉もない噂を栞さんもきっと耳にしているだろう。受付の女の子たちは僕だけじゃなく栞さんにもしつこく聞いているに違いない。栞さんはそんなことがあったような素振りをまったく見せない。だから実際のところ、受付の女の子たちは栞さんには聞いていないのかもしれない。そんなこと、僕には知る由もない。わざわざ、栞さんや受付の女の子たちに確認をとるつもりも皆目ない。そんな義理は僕にはないからだ。ただひとつ、僕が断言できることは、栞さんと僕が付き合う可能性はひとつもない。
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