7.

 毎朝の散歩で彼女と会うようになってから何日かした金曜日。僕はとても懐かしい人物と再会した。

 金曜日のその日のレッスンのひとつは、チェロを習い始めて数か月の小学生から中学生までのクラスで、すぐに寝たり遊んだりしてしまう中々に大変な生徒たちだった。一番年上の中学生の男の子が特に厄介で、年下の子たちをけしかけて僕に悪戯をしかけてくる。今日もレッスン開始時刻になり生徒たちが揃ったのでみんなで準備をしよう、と優しく呼びかけ、僕も準備をするため弓用の松脂のケースを開けたのだが、中を覗くとどこで手に入れたか分からないそれはそれは可愛らしいアマガエルがちょこんと鎮座していた。カエルは助けてくれてありがとう、お礼のキスをしてあげるわ、と言わんばかりに勢いよく僕の顔に向かってダイブし、それを見ていた生徒たちは大笑いで転げまわり辺りを散らかし回したため、レッスン開始は大幅に遅れた。この仕事の一番の、そして唯一の欠点はこの金曜日の生徒たちだった。開始の一件以降はどうにか処理し、レッスンを終わらせた。彼らの興味を失わせず、かつ悪さをしないようレッスンをこなすのは本当に骨が折れる。

こんな日の仕事終わりは酒でも飲むに限る。そう思い立ち、僕は職場から直行で近所の酒屋へ向かうことにした。飲みたいときには近くのバーへ赴いたりもするが、家で飲む場合はコンビニでラガーを買って済ませるのが大概だ。けれど気まぐれで、たまには酒屋で買ってみるのもいいかと思い、酒屋で買うことにした。

五分ほど歩き目的の酒屋へ到着する。目的の酒屋は壁材が剥がれ今にでも倒壊するのではないかと不安になるような造りだ。いままで店の前を何度も行き来してきた経験はあるが、この店に入ったことはないし人の出入りも見たことがない。

入り口の手動ドアを横に開け、店内に入る。外観とは違い店内はきれいだった。日本酒や焼酎、何百本のビンがラベルをきちんと前面に向けて、店内の棚に所狭と並べられている。ワインやラム酒の類も充実しているようで紙にカテゴリーを書いて整然してある。ビール類は冷蔵スペースに収容されているようでこれもまたビン、缶と国内外様々な銘柄が陳列されていた。お目当てのビールにこれだけ種類があるとは知らず、普段、麒麟一筋の僕にはそれぞれにどんな違いがあるのかまったく分からない。店の人に聞いてみるのが得策という結論にすぐに至った。

棚の間を通り抜け店の奥のレジへ向かうと、ボロボロの酒屋には似つかわしくない剣山のように尖った金髪の男性がいた。両耳にこれでもかというほどピアッシングが施してあり、一瞬どこの違法クラブへ迷い込んだのかと考えてしまうほどだった。秘密の売買をここで受け持っているのだろうか、僕はこれまでタバコを常習してきたことはないし、麻薬やコカインなんて目にしたことはない。酒の銘柄が薬の通名になっていたらどうしようか。ラガービールを頼んだらヘロインが出てくるなんてオチもあり得る。

僕が店員の場違いな雰囲気にたじろいでいると、驚いたことに向こうから声をかけてきた。

「久しぶりだな。どうした」気さくな態度に僕は益々混乱してしまった。今まで一発もキメたことはないし、この店に来るのも初めてだ。

硬直する僕をよそに店員はとても嬉しそうだった。

「同じ市内でも生活圏が違うと会わないものだな」

その一言はさらに僕は驚かせた。彼が僕の知り合いだという絶対にありえない選択肢は端から吹き飛んでいたためだ。考えてみると、久しぶりという言葉は知り合いでないと出てこないか。彼のような知り合いは僕の記憶に一人もいない。申し訳ないが僕は素直に尋ねてみることにした。

「どちらさまですか?」

僕の言葉を受け彼は目を見開くと、すぐさま大声で笑いだした。

「ああ、わかんないか! そうだよな! どおりで保健所の犬みたいな顔になっているのかと思った」彼は言葉をつかえながら笑っていた。

「タカヤだよ」僕の頭に一瞬で記憶が蘇った。たしかにこれはタカヤだ。髪型とその他の装飾で気を取られていたが、整った顔はタカヤのままだった。タカヤは高校時代の僕のクラスメイトで休み時間には互いの音楽の話で盛り上がった。

「分からなかった」

「ひどいな。変わったとは思わないけどな」本人としては一貫したポリシーがあるのかもしれないが、変わっていないというのは無理がある。タカヤは高校時代、軽音楽部に所属しギタリストだった。生粋のパンクロッカーで口癖のように「俺はパンクで食っていく」と公言し憚らなかった。僕はそういった気性の激しい音楽を時々聞くにしろ、今も昔も詳しくはない。当時も周りから話を聞いたのだが、彼の実力は校内だけではなく県内の高校生バンドマンの間で知らない者はいなかったほどらしい。彼のライブは聴衆のあまりの熱狂ぶりに、血を見ることは避けられなかったという。

僕とタカヤでは住む垣根が違うため交流することはないように思えるが、彼は易々とその垣根を乗り越えてきた。高校二年生の最初の授業、自己紹介の時間が設けられ、僕はあいさつ代わりにチェロを習っていることを言った。他のクラスメイトたちは僕のあいさつを何気なく聞き、まばらな拍手を送ったのだが、彼だけスタンディングオベーションで割れんばかりの大きな拍手を送ってきた。演奏したわけでもないのに。

なぜ彼がそこまで僕のあいさつに感銘を受けたのかはその後すぐに判明した。いや、判明というほどきっぱり理解できる理由ではないのだが、彼がそう言うのだからしょうがない。タカヤは小学生の時から父親の影響によりパンク一色で育ってきたらしい。その反動で彼にとってクラシックというのはまったく異様で一種の憧れにも似た存在になっており、クラシックピアノを習っている子はいたけれど、大勢いたし普通でつまらないように思えた。けれどクラシック、中でもバイオリンやチェロなどのオーケストラの弦部隊に加わる楽器は違ったそうだ。そうして、タカヤの人生で彼のイメージするクラシック的楽器を習っている、栄えある第一号が僕だった。完全に先入観に捉えわれた価値観に思うが、そんな理由でタカヤは僕に興味を持った。今考えてもよく分からないが、タカヤの価値観からすると僕の存在は相当にパンクなものだったらしい。

「こんなところで何しているの」僕は当然の疑問として聞いた。

「見たらわかるだろ。酒屋の店員」

「いや、まぁ、そうだろうけど」

「親戚がここの酒屋やってんだ。知らなかったか?ここだけの話、実家を追い出されてな。しょうがねぇからここで働かせてもらってんだ」

「あぁ、なるほど。タカヤの実家は一駅向こうだもんね」

「今はここの裏の家に暮らしてんだ。この酒屋、めったに客は来ねぇから儲かんねぇけど、酒瓶運んでレジ打って、これで金もらえんだから割と気に入ってんだ。たまに来る客も変わったおっさんばっかりで面白いしな。こないだなんかさ」

 話を聞き様子を見る分では、タカヤは元気そうだった。しかし、タカヤがパンクで食べていく夢を諦め、こんな酒屋のバイトに収まってしまおうと考えているなら、僕はとてもみじめな気持ちになった。最後の悪あがきで風貌だけでも変えたのだろうか。

僕は彼をとても尊敬していたし、必ず成功できる器量を持っていると確信していた。彼は高校という小さな世界だろうと僕らのスーパースターだった。素人目からだとパンクという傍若無人な人種に分類されるように思うが、高校時代のタカヤは黒髪で校則にも引っかからない、一般人から見れば真っ当な格好をしていた。それは彼のポリシーだったはずだ。

「……お前の言いたいことはわかるよ。変わってないって」タカヤは軽く笑いながら言った。「これはただのバイトだ。今もいろんな箱を回って活動している。自主製作だけど、CDだって結構売れるんだぜ。そうだ。新譜が上がったからついでに買ってくれよ、ほら、一枚五百円だ。このジャケット、結構いいだろ?」そう言ってレジの下から一枚のCDケースを取り出した。ジャケットは漆黒を背景に墓標の真ん中へギターを突き刺したデザインが描かれていた。タカヤの描くパンクらしいデザインだと思う。B級映画の広告ポップに似たチープなおどろおどろしさがよく出ている。これは貶しているのでなく褒めている。

「いいね、これ」僕はその素直な気持ちを伝えた。「この安っぽさが特に」そう言うとタカヤはとても嬉しそうだった。

「だろ? これ、俺がデザインしたんだぜ。夜なべでフォトショ使ってな。大変だったんだぜ?素材の写真を何百と撮ってさ。これじゃないあれじゃないってメンバーと喧嘩しながら大相談」

 高校の時、タカヤは「パンクっていうのはチープでこそ意味がある。綺麗に、お高くなったらダメだ」と僕によく言った。「なぜ?」と僕が聞くと、タカヤは「そういうものなんだ」と笑った。

「タカヤらしさが出ているよ」僕も笑って言った。

「他の奴らはなかなか賛成してくんねぇの。あと少しで殴り合いだったんだからな。俺以外全員大学生で年下なせいか、やっぱ感覚が違うんだ。高校から付き合っていた奴らは皆諦めて就職しちまった。しょうがねぇから、いろんなところでメンバー募集したり、転々とバンドを渡ってきた。今のバンドが一番しっくりきている。嗜好も似ているんだ。けどな、やっぱりどっか違う。……メンバーが反対しようと俺はこれなんだよ」タカヤはトントンと人差し指でジャケットを叩いた。

「もう少しなんだ」タカヤは呟いた。

 僕の心配とは裏腹に、タカヤの夢はずっと変わっていなかった。高校を卒業してからもずっと、パンクで食べていくというあの言葉を守ろうと努力してきたのだと分かった。おそらく、日の目を見ずにあがき続け、十年近くも。僕にはとても真似できない。タカヤを尊敬する気持ちは今でも変わらない。だけれど、僕には目の前にいる、金髪でピアスだらけの耳を携えたタカヤと高校時代のタカヤがちぐはぐに映り、ひどく滑稽に見えた。それは僕が今まで見たことのなかったタカヤの姿で、加えてこんな小さな酒屋のレジで店番をしているせいだろうか。ここがどこかのライブハウスで、そこでタカヤと再会したのなら違った感想を持ったのだろうか。きっとそのはずだ。今日ここではない、時と場所でタカヤと会ったのなら、こんなみじめな気持にならなかったはずだ。

「今度、僕の公演があるんだ」思い切って、僕はタカヤに伝えた。「あと三週間ぐらい後に」

タカヤは目を丸くさせた。

「お前プロになったの? チェロ、続けているんだな」

「少し違うかな。チェロを続けて、講師になったんだ。これはちょっとした余興だよ」そう伝えたが、タカヤはとても嬉しそうに目を輝かせた。

「俺、お前のチェロまた聞きたかったんだ。……行くよ」

「ありがとう」

「そうか……。続けているのか。えらいよ、お前は」褒められるようなことなんてしていない。他に取り柄もなく消去法で残ったのがチェロだった、それだけだ。そんな風に言われると居心地が悪い。諦めずにパンクを続けているタカヤの方がずっと輝かしくみえる。

「……タカヤなら大丈夫だと、僕は思っているよ」

チケットから顔を上げたタカヤの瞳は不思議な動きをしていた。感謝しているのか、謝っているのか、もしくは怯えているのか、すぐには汲み取れなかった。感情が瞳から零れ落ちるのを頑なに拒んでいるせいなのかもしれない。

この十年と少しの期間、タカヤがどのような苦労をしてきたのか僕は知らない。タカヤが目標としていたことは、誰もいない孤独な砂漠に落ちているかもしれない一粒のダイヤを探し続けるようなひどくつまらないものだろう。もしかしたら、これからも彼はその砂漠をひたすら歩き続けるのかもしれない。腰のベルトに付いた、救助用のトランシーバーに気がついているのに、彼は途方もない行進を続けることを選ぶのだろう。

だけど僕は信じている。僕らのスーパースターは、もうそこまで来ていると。

「ありがとう」タカヤはポツリと言った。

 

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