6.
自分でもとても不思議に思っている。もしかしたらそれは僕にとっては奇妙でけったいな代物であり、僕を観察している人がいるのならそれは至極真っ当でわかりやすい感情なのかもしれない。心というのはひどく不透明で目的をいつもタンスの裏側に隠して引き出しだけを探させる。あれやこれやと引っ張り出すうちに辺りはめちゃくちゃに散らかってしまい最初の目的はどこか彼方に追いやられている。思い付きのままに動ける人はきっとこのタンスがとても簡素な作りになっているに違いないだろう。もしかしたら背後に隠すことのできないほどの小さな鉛筆立てみたく単純にできているのかもしれない。
これは変わりない毎朝の日課の散歩だ。日の入りすぐの薄ぼんやりとした空気を体にまとわせ、着替えをして我が家のドアを開き出かける。なんらいつもと変わりない。それなのに、僕はなんだかよく分からない期待を胸に抱きながら再び湖畔へと向かう。今や雪は道端にちらほらと残っているだけで散歩道はほとんど元通りのいつもの姿へと戻っていた。いや、そんなことはどうでもいい。僕はいつもと同じようでまったく違う道のりを、気持ちの高ぶりを抑え歩いていく。
十五分ほど歩き、湖の入り口近くへ到着する。ひびだらけの湿ったアスファルトの坂を慎重に下っていく。湖に近づくにつれ深くなっていく木々は、雨降り後の独特な湿度に覆われていた。地表に溜まった重たい気体が足にゆったりと絡みつき、冷ややかな風が爽やかに僕の頬を撫でていく。雪も雨も止んでいるというのにどこからか、しとしとと聞こえてきそうな空気だった。
坂を下りきると、湖はいつものように深緑の体を森の真ん中に横たえていた。珍しく釣り人は一人も見当たらない。小さな木製のボートたちは桟橋の近くの棒にすべて結び付けられていた。
一歩。また一歩。音を立てないように慎重に歩く。モネのジヴェルニーの冬を頭のキャンパスに思い浮かべながら、緻密な毛筆の跡を崩さないよう、足を踏み出す。何故だか分からないけどそんな風に歩いていた。
モネを考えるとクロードの名の繋がりでドビュッシーを思い出す。絵画と音楽、ジャンルの違う二人は同じ時期にフランスに現れた印象派に分類される芸術家だ。話に聞くとクロードの名はフランス語圏ではよくある名らしい。今度の公演ではドビュッシーの曲も演目に入っている。自宅のCDラックに収められている演奏者や作曲者の名は知らないが、自分が演奏する曲については勉強するし、音大に通っていたおかげでクラシックの知識は少なからずある。散歩が終わったら少し調べなおそうか。
彼女は橋の左右反対側に佇んでいた。対岸の方を見つめ、ぼんやりと風景を楽しんでいるようだった。なぜだか分からないけれど、彼女は僕に似ているのだと思う。そんな都合のいい考えに至ってしまうのは誰だって経験あることだろう。それぐらい考えることは許してほしい。
「おはよう、今日も来たんだね」彼女に向けて声をかける。
彼女は驚いたようでパッ、と素早く顔をこちらに向けた。
「わっ……」彼女は何度か瞼を瞬かせた。よっぽどびっくりしたようで両手が行方を失い空中を握ったり放したりしている。今日は真っ白なピーコートを着てぴったりとボタンを留めていた。そのせいで彼女の体のラインが際立っていた。花の茎のように細い華奢なこの体から声を出しているなんてとても想像がつかない。
僕の姿を確認すると合点がいったように表情が変わっていった。
「昨日より喉の調子がいいみたいですね」
彼女は僕の喉の異変に気づいていたようだ。
「もしかしたら、地声かと思って昨日は言えなかったんですけど」
「昨日はとても酷かったんだ。ここ最近一気に気温が下がって、乾燥したせいかな」
彼女は眉を寄せて「分かります」と頷いた。その後、僕の後ろの方をきょろきょろと見回す。
「今日は、ご友人はどちらへ?」彼女はからかい口調で尋ねた。
「それが僕にも分からなくてね……。もしかしたら、ベーリング海へちょっと船を出しにいったのかもしれない」いやに格好つけたような言い回しで自分に嫌気がさす。昨日もそうだったけど、彼女と話すと調子がおかしい。
そんな僕の不安を洗い流すように彼女は笑顔を見せた。
「良いご友人をお持ちですね」
「そうかな」なんだか照れてしまう。別に僕の友人が褒められたからではない。
「たくさんとれるといいですね。私の分もとってきてくれるかな」
「きっととってきてくれるよ。彼、友人に優しいから。ああ見えて男前なんだよ」こんな冗談を言っているとあの猫が昔からの友人のように思えてしまう。不思議な気分だ。
彼女はさっき僕が声をかけた時よりも驚いた顔でパチクリと目を瞬かせた。
「そうかな」
「うん。きっとね」
彼女は優しく微笑んだ。
「動物は飼われていますか?」
「いや。子供の時は飼っていたんだけどね、あの猫みたいな白猫を」
「へぇ、偶然ですね」
「そうなんだ。とても頭の良いメスの老猫でね、お手をするんだ」
「お手? 本当ですか?」
「本当さ。気品あふれるスマートな見た目でね、バレリーナの腕のようにしなやかに手を差し出すんだ。お手なんて無粋な言葉は彼女の品位を下げるから言わない。僕が手を伸ばす。すると彼女は柔らかな純白の手をスッと差し出すんだ。まるで一国の王子とお姫様のように、僕らは手を合わせた」
「ロマンチックですね」
「うん。とてもロマンチックで大切なひと時だった。そう。本当にひと時だったんだ。僕の家にやってきた彼女と僕が過ごしたのは、たった一か月だったから。それでも、彼女がいなくなった時はひどく悲しかったよ。」
彼女はある日突然僕の家の前に現れた。両親は何も言わずとも彼女を家の中に上げることを許してくれた。とても綺麗な白猫だったがヒゲが所々抜け落ち、年を取っていることが目に見えて分かった。彼女は毎朝、背筋を伸ばして玄関の前に座り、ドアを開けてもらうのを待っていた。小学校へ向かう僕と共に外出し、僕が帰ってくる頃に、玄関の外で僕の帰宅を待っていた。そんな毎日が続いて一か月ほど経った日の夕方、彼女は帰ってこなかった。一晩中、家の近所や通学路、湖の近くを探し回った当時のことを覚えている
「案外、どこかで元気にしているかもしれませんよ」彼女は慰めるようにそう言った。
「ごめん。暗い話だったね」
「素敵なラブストーリーでした」
彼女が屈託なく言うせいで、とても恥ずかしい話をしていたように思えてくる。
「そうかな」
「はい」
その日から湖に散歩に行くと毎朝、彼女に会った。猫はその日以外いつも湖にいた。どうやら蟹のためにベーリング海へ赴くほど彼はアグレッシブではなかったらしい。僕は友人失格だ。
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