5.

 いない。

 ここにもいない。

 どれほど探しただろうか。

 日は既に落ち、視界は今にも闇で閉ざされそうだ。

 僕は走る。彼女の白い影を求めてひたすら走る。両脚は夜への恐怖と疲労でガタガタと震えている。しかし、体には若さゆえの底のない気力の塊がみなぎっていた。そう、若い、子どもの体。僕は小さな手足を懸命に振り、踏み込み、当てもなく走り回っている。

 呼吸は乱れ、白い吐息が目の前を何度もぼやかす。寒い。凍り付いた薄いガラスを、一枚一枚全身をぶつけ砕いて行く。きっと、手足の先まで霜焼けになっている。熱い。体の中から蒸気が膨れているようだ。額も首筋もベッタリと汗が覆って、くっつく髪が気持ち悪い。ガラスを破る。寒い。汗が滲む。熱い。

夜は怖い。とても、怖い。理由も答えもない。あるのは怖いという感覚だけだ。ここで恐怖にめげてはいけない。彼女もきっとこの闇夜と一人で戦っているのだ。そう、僕がめげてはいけない。

アスファルトをがむしゃらに駆ける。深い闇に吸い込まれていく。奈落の底へ続いているような坂道を下っていく。一段と闇は濃くなる。怖い。涙は瞼の下であふれる時を待っている。泣いたら駄目だ。泣いたらもう帰れない。きっと足がすくんで動けなくなってしまう。堪えるんだ。自分に言い聞かす。

重力に身を任せ下り坂を走る。一歩一歩を踏み込む衝撃が弱った両脚を突き抜ける。空回りしないよう意識を集中させ、両腕を振り上げる。走る時は脚じゃなくて腕を使うんだって先生が言っていた。右腕を後ろへ流し、グッと左腕を突き上げる。そして、しっかりと左腕を引き戻し、素早く右腕を突き上げる。大丈夫だ。両腕は僕の意識通りに動いてくれる。

湖へ辿り着く。ここで見つからなかったら、きっと彼女はどこにもいない。

湖は全貌を闇の中に封じられていた。水面の境界線は曖昧で、どこまでが湖なのか分からない。足元まで水が迫っているかもしれない。

ここへはもう何度来ただろう。現実ではない。夢の中で、だ。

姿の見えない柵に走り寄る。胸の辺りに柵が突然現れ、ぶつかる。

いない。

彼女の名前を呼び、駐車場を探す。

いない。

彼女の名前。そうだ。彼女の名前だ。思い出せない。けれど、僕は呼ぶ。

いない。

僕は声を限りに叫ぶ。思い出せない彼女の名前をひたすら呼び続ける。僕の呼びかけはむなしく湖に吸い込まれていってしまう。

橋に辿り着く。両側には果てのない黒が僕を飲み込もうと待ち構えている。怖い。彼女がここにいないのなら橋の向こうも探さなくてはならない。森へ続く橋の先はすべてが闇に溶かされていた。溢れそうな涙を腕で拭い去り、覚悟を決めて歩みだす。鉄の橋を踏むと心もとない足音が響く。

コン。コン。コン。鈍く軽い音だ。今にもガラリと崩れ落ちてしまいそうな僕の心を揺さぶる音。駄目だ。恐怖が耳元から僕に近づいてくる。頼むから、僕を飲み込まないでくれ。彼女を探さなくてはいけないんだ。呼ぶ。思い出せない。彼女の名前を呼ぶ。

いない。どこにもいない。

叫ぶ。声が消えないように何度も叫ぶ。

駄目だ。

いない。

涙がこみ上げる。

叫ぶ。

あふれ出す。

恐怖が僕を飲み込んでいく。

僕は泣きじゃくりながら叫ぶ。

思い出せない彼女の名前をひたすら、叫ぶ。


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