4.

先輩との打ち合わせを終え、僕は職場へ向かった。

僕は全国に展開する大手の音楽教室でチェロの講師をして収入を得ている。この仕事をそれなりに楽しいと思えるからきっと相応な仕事なのだろう。この仕事に慣れてしまうとデスクワークや営業回りで苦闘している自分を想像するのはとても難しかった。

本日、水曜日の生徒は主に五十代半ばの中年女性たちだ。初老と言ってもいい年齢だろうけど彼女たちのプライドのためにあくまで中年と言っておく。どちらにせよ彼女たちの耳に入ったら怒られてしまいそうだが。彼女たちがどういった理由でチェロを習いに来たのかを僕は亭主の定年が近づき余生の過ごし方を考えた末、音楽へ辿り着いたのだと推測している。音楽に辿り着いた理由を適当に付けたものの、中年女性が数ある楽器の中からなぜチェロを選んだのかまでは考えが及ばない。それも一度に数人。他の曜日にも五十半ばほどの女性が在籍するクラスがあるが、今日はすべて中年女性だ。最初は癖のある人ばかりなのだろうと考えていたけれど、僕の杞憂でレッスンは真面目に受けてくれている。僕の想像以上に生徒たちはアドバイスを素直に聞き入れ、課題を家に持ち帰り、次のレッスンにはそれなりに形にして持ってきてくれる。だから僕は彼女らの努力に朱を入れるように手助けしてあげるだけでいい。

喫茶店から五分ほど歩いて僕は仕事場へ着いた。正面玄関の周りはガラスで覆われていてモデルルームの展示場のようだ。自動ドアを潜ると受付の女性がいつものように挨拶をしてくれた。白のブラウスに薄黄色のカーディガンを羽織っている。

「こんにちは」落ち着いた声だ。年は僕とあまり変わらないだろう。

この音楽教室の受付はどの店舗へ行っても皆、プライベートと仕事の中間のような声音でとても話しやすい。

「こんにちは」

「栞先生は今、三〇一号室でレッスンしていますよ」受付の女性は少しからかい口調に言った。

「どうもありがとう」僕はその情報を与えてくれたことに一応の感謝を示した。

「あと十分ほどで栞先生のレッスンは終わります」僕が彼女の声から受ける印象とは違い、彼女は割と人に関わりたがる性格だということが最近分かってきた。

「お待ちになられては?」

「いや、いいよ。部屋でレッスンの準備をしたいんだ」

「では栞先生がいらしたら先生は部屋に向かわれましたと伝えておきますね」

「どうも」

受付の女性と別れた後、倉庫にあるレッスン用のチェロを持ちだしレッスン室へ向かった。五人ほどならチェロを構えても余裕がある大きさだ。荷物を置いた後、ケースからチェロを取り出し弓に松脂を塗る。この作業は割と好きだ。中学生の頃、家庭科の先生が編み物をすると雑念が取り払われると言っていたが似たようなものかもしれない。

レッスン用の楽譜を取り出し、内容を振り返ってみる。曲はエーデルワイスをチェロ用にアレンジしたものだ。今日のレッスンは皆、二年ほど習っている。実力を言えばおおよそ中級レベルだ。この曲を弾きこなせるぐらいの技術は身に着けている。

曲の冒頭を弾いてみる。歌唱版ならエーデルワイス、と歌い出す前の導入部分は少し難しいかもしれない。デュエット曲の構成になっており、出だしは互いに一音ずつハーモニーを作り弾かなければならない。大人になってからチェロを始めるとどうにも調音の感覚が鈍い。彼女らはどこまで弾けるだろうか。

譜面を眺めているとドアがノックされた。

「はい。どうぞ」

「失礼します」

ドアの隙間から栞さんが顔をそっと覗かせた。そのまま身体を滑らせるように部屋の中に入り後ろ手にドアを閉める。

「こんにちは」

「やあ、こんにちは」

栞さんは白いブラウスに黒のロングスカートという僕がいつも見る服装と大して変わらない格好をしていた。毎日微かに細部の装飾が変わっているのだが、ならまったく同じ種類の服にすればいいだろうと僕は思う。黒髪のロングで両耳の上の当たりを三つ網にし、それらを頭の後ろで結っている。音大に通っていない人は音大のお嬢様というと彼女みたいな人を想像するのだろう。僕の見立てだと年齢は二十五、六くらいだ。本人に尋ねたことがないので詳しくは知らない。

「公演の準備の具合はいかがですか?」栞さんは胸の前に楽譜を抱えていた。

「おかげさまで順調だよ」

栞さんはこの音楽教室のピアノ講師で、一か月後の僕の公演の伴奏者でもある。

僕は今までにもチェロの公演を小さいながらも何度か開催してきた。これは先輩の助力があってのもので、僕の公演を開こうと提案をしたのも先輩だった。後援にはここの音楽教室が入ってくれている。多くの聴衆の前で演奏をする機会など滅多にないので僕は喜んで先輩の提案に乗った。今までの公演では、別の人が伴奏者だったのだが、この店を寿退社で辞め、遠くへ引っ越してしまったので頼めなくなってしまった。四か月前、新たな伴奏者の当てもなく困っている僕に栞さんが自ら伴奏者に立候補してくれた。同じ店の講師同士なのでお互い顔は知っていたがそれまで会話をしたことはほとんどなかった。けれど、そろそろ次の公演を決める時期という切羽詰まった状態だったので僕は栞さんの申し出を快諾した。肝心の栞さんの伴奏はすばらしかった。いつでも僕の演奏に寄り添っていてくれるし、主張する時にはしっかりと前に出てくれる。

「よかった」

「栞さんの伴奏のおかげだよ」

「そんなことありません」栞さんは慌てて手を振った。

「何か用だった?」

「ブラームスのチェロソナタでお聞きしたいことがあって」

「いいよ、どこかな」

「ここの箇所なんですけど」

彼女は僕の前に楽譜を置いて開き、問題のチェロソナタ二番第一楽章の箇所をペンで指した。彼女が僕のほうへ近づいてくるとふわりと、花の香りがした。

そういえば、今回の公演のチケットがあと三枚、財布に残っていた。生徒たちには全員に配り終えた。どうやって消化しようか。


一通りの確認を終えた後、チェックのために演奏を合わした。栞さんが勢いよく始まりの分散和音を弾き始める。すぐに手を引かれ連れ出されるようにチェロが旋律を奏でる。くるくると野原の上、二人でループを刻むように二つの楽器が混ざり合う。高らかに。朗らかに。この曲を演奏したいと提案したのは栞さんだった。僕もこのブラームスのチェロソナタ第二番は好きな曲の一つだったので快諾した。

ブラームスはふたつのチェロソナタを残した。どちらも名高い曲だが今回演奏するチェロソナタ第二番は第一番より華やかで明るく、かつ力強い表情を見せる。ピアノ伴奏が難しいことで知られ、弾きこなすには高い技術力が求められる。この曲は栞さんにピッタリだと思う。そして栞さんはこの曲を支えきるほどの実力を持ち合わせている。栞さんの申し出を拒否する理由はなかったので演目に加えることにした。

次第に曲の雰囲気は最初の清々しい風景から曇天へと景色を変えていく。伴奏者の指は目まぐるしく鍵盤を駆け回り、そこに滑り込むようにチェロが溶け合っていく。そして束の間の静寂。灰色の雲の切れ間から光が差し込み、爽やかに第一楽章は終わる。

「どうだったかな?」演奏を終え、僕は栞さんに感想を求める。

「大丈夫です。先ほどの確認の通り、合わせることができました」尋ねると栞さんは嬉しそうにそう言った。

「栞さんがどこに疑問をもったのかよくわからないな。以前の演奏も別段気になるようなところはなかったし。今回の伴奏も、もちろん素晴らしかったよ。本番もよろしくお願いしますね」

「はい。こちらこそよろしくお願いします」ふふっ、と栞さんは微笑んだ。

また何かありましたら質問しに来ますね、そう言い残し栞さんは部屋から出ていった。それと入れ替わるように、がやがやとお喋りをしながら僕の愛すべき中年女性たちが入室してきた。


こんな一日の積み重ねで僕の生活は過ぎていく。結婚や将来設計はノープランだ。彼女はいない。けれども寂しいと感じることはない。過去には僕にも何人か彼女はいたし、人並みの甘酸っぱさを経験してきた。言わせてもらうと、僕の恋愛はよくあるレモンという形容よりもザクロという表現がお似合いだと思う。一粒、一粒は甘く瑞々しく美味しいのだが、全体を味わおうと試みるとなんだかぼんやりとして、輪郭を捉えるのは至極難しかった。近頃になっては思い出すことを止めていたせいで、最後にガールフレンドと遊びに出かけた記憶は砂漠のどこかに埋没した古代遺跡の水瓶みたいに渇き切ってしまっていた。

チェロ講師としての月々の給与は決して恵まれた金額ではないけれど、労働に見合った順当な額であるし、生活に困りはしないから文句は浮かばない。もし労働組合がその右手を上げるために手伝ってほしいと僕に協力を仰いでくることがあったら、会社に恨みはないけれど断る理由も見当たらないため、きっと僕は細いこの小指を軽く添えてあげるだろう。

潤滑な生活を犠牲にしてまで没頭する趣味もない。音大生時代、友人にタバコやスロットを勧められて何度か体験はした。どちらも続けるメリットがあるように思えなかったから、続けはしなかった。

毎晩のようにコンパや飲み会に勤しむ精神も僕には備わっていない。お酒を飲むときは缶ビールや出来合いの安いカクテルを買うし、時にはバーへ足を運んだりはする。多数と会話をするのは得意ではないけれど嫌いじゃない。ただ、それらを同時に、そして過剰に摂取する必要はないと思う。

いくつかの否定によって僕の生活が非生産的で、実りのない人生だと嘆いているように思えてしまうかもしれないが、今の生活は嫌いじゃない。小さいながらも僕の横にはいつも音楽が流れている。それだけで幸せだと、僕は思う。嫌いな食べ物はないから、口に入れれば何だって美味しい。桜の儚さを憐れみ、蝉の声に耳を傾け、夕焼けに胸を震わせることもできる。十分だ。実に十分じゃないか。肯定を数値化して足していくことができるのなら、すぐに百点満点を得られる自信がある。人はパンとワインだけで生きていけるように出来ているのだ。だから僕は一か月後のチェロ公演に向け練習をして、明日の喉の痛みだけを心配しながら、今日も深く眠りにつく。


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