3.
「何か良いことでもあった?」先輩はコーヒーカップを片手で回しながら僕に尋ねた。
湖の彼女と別れ家に戻った後、今日は先輩との打ち合わせの日だということを思い出した。予定時刻まで暇を持て余した僕は、今朝と同じく適当にCDを取り出して聴き、ドリップで気長にコーヒーを淹れたりして時間を潰した。
昼の一時になり、金色のベルを響かせいつもの喫茶店に入ると、先輩は窓際の定席に座って僕を待っていた。店内は白と茶を基調にしたデザインで、昔からの喫茶店という雰囲気を気取っていた。この喫茶店は三年ほど前にオープンしたばかりだ。役目を失った水出しコーヒーが只のインテリアと化し恨めしそうに僕を見ている。対面に座っている先輩は品よく跳ねている天然パーマと同じ色の深いブラウンのこれまた品の良いジャケットを着て、コーヒーを大切そうに飲んでいた。先輩は僕の通っていた音大の先輩であり、今は楽器メーカーに勤めている。先輩はヴィオラ専攻で、学生時代はカルテットを組んだりした。
「お前の顔から吉相が出ているんだが」
「占いなんかできたんだ」
「何年の付き合いだと思っている。顔をみたらすぐ分かったよ」なるほど。
僕と先輩は歳も学年も一つ違いだけどタメ口で会話する。誰かがそう取り決めた訳ではなくいつの間にかそうなっていた。先輩はまったく気にしていないし、僕もこの方が話しやすい。
「どんなことがあったかは知らないが、今度の公演に影響するようなことはするなよ」先輩は口調を強くしながらも、目元が笑っていた。
「随分酷い声だな」何も言ってこないから気付いていないのかと思っていたら、僕の喉の異変に先輩はしっかり気付いていたらしい。
「あぁ……、やっぱり?」朝から時間が経っているのに酷い声だと言われるということは、湖ではもっと酷い声だったのだろうか。少し気が落ちてしまう。
「のど飴あるけど、舐めるか?」先輩はバッグから飴の包みを取り出した。
「いや、いいよ。食べながらだと話しにくい」
「そっか」先輩はバックの中へ飴を放り込んだ。
「取り敢えず」先輩は横に置いてある鞄から一枚のパンフレットを取り出した。「印刷が完了した。今度の公演はこのプログラムで変更は無いよな?」
「急遽変更になるなんてことはないよ。栞さんとの練習も順調」本番まではあと1ヵ月を切ったところだ。
「俺の好みではないけどな」先輩はフランシス・プーランクやジャルメール・タイユフェールら六人組がお気に入りだった。
「プーランクのチェロソナタとかどこに需要があるのか分からない」
僕が素っ気なく返事をした後、先輩は近くに居たウェイターに声を掛け追加のコーヒーを注文した。先輩は無類のコーヒー好きで学生時代から胃に穴が開くのではないかと僕が心配するほど愛飲している。淹れ方にも相当なこだわりがあるらしく、いかなる時も自宅で淹れたコーヒーを魔法瓶にいれ持ち運んでいる。おそらく今も先輩の横の鞄の中には熱々のコーヒーが魔法瓶の中に入っている。
ウェイターは注文を聞くとカウンターに行き、銀のポットを両手で取るとすぐにテーブルへ戻ってきて先輩のカップになみなみとコーヒーを注いだ。僕の空のコーヒーカップを見てウェイターは「いかがですか?」と尋ねたが生憎朝と昼に十分コーヒーを飲んでしまったので「大丈夫」と言って断った。
「コーヒーっていうのはどうしてこうもうまいんだろうな」先輩は注ぎたての一杯を口に運び喉を唸らせた。
「いや、うまいっていうのには語弊があるか。訂正。どうしてこうも味わい深いんだろうな」
「知らないよ、そんなこと」
時々先輩は、どうでもいい話題を持ち出す。その大半がどこに着地することなく、僕と先輩の上空を行き場もなく往復する。僕は先輩のどうでもいい話題は嫌いじゃない。好きだと言うつもりもないのだけれど。
「うまいと味わい深いに分けた意味が分からない」
「分からないか? この違い。旨いというにはひとつ足りない。しかし、魅了されてしまう味わいがある。お前もコーヒー飲みなら分かるだろ?」
「うまいと味わい深いっていうのは同じ土俵なの? うまいっていう感覚の中に味わい深いっていうのが含まれていたりするんだと思うけどな」とはいえ、味覚は人それぞれだ。セロリが好きな人だって中にはいるのだろう。僕の頭の中には懐かしい曲の一部が流れていた。
「そういえば」と前置きをして、僕は何気なく聞いてみた。
「最近は女性関係の方はどうなの?」
「ん? ……まぁ、それなりといったところだな」
先輩は学生時代から文字通り、取替え引換えに付き合う女性を変えていた。先輩のプレイボーイぶりは学内でも有名で、女子学生の間では先輩と付き合うことがステータスでもあった。実際、先輩はそんな風であるのがさも当たり前という顔立ちとスタイルで、先輩を妬んだりする輩は僕の知る限りいなかった。卒業し就職した後も彼の好色は衰えることなく、あちらこちらのバーやクラブで女性を口説き落としていた。その度に先輩はどんな顛末だったのかをわざわざ僕に懇切丁寧に教えてくれた。
だから今の歯切れの悪い先輩の返答に僕は少し驚いた。
「どうしたの?」
「珍しいな、お前が自分から俺に色恋の様子を聞いてくるなんて」先輩はあまり深入りして欲しくなさそうなバツの悪い顔をしていた。
「いや、別に。相変わらずなのかと思ってね」尋ねられたくないならそう言ってくれて構わない。こんなことは初めてだった。踏み込んでいけないのならわざわざ踏み入ることはない。
「まぁ、気を付けて」
「そりゃどうも」
「また連絡する」演奏会の打ち合わせを終えた後、先輩はそう言って足早に店の外へと出て行った。帰るタイミングを先輩に横取りされてしまった僕は、もう一杯コーヒーを飲んでから店を出ることにした。先輩は電車を使うから一緒に帰ってもすぐに別れるはずだけれど、なんとなく、タイミングをずらした方が良いように思えた。
僕は人付き合いが苦手だ。何かにつけて関心とか執着心とかそうというのをあまり持たないようにしている。今のように、人付き合いにも、趣味にも、諸々の事物にも。それが僕の三十余年の人生で学んできた呼吸法であり、処世術だ。おおきくお腹を膨らませ空気を味わう腹式呼吸ではなく、浅く短く息を繋ぐのが僕の呼吸法なのだ。取り組む姿勢というのは人それぞれだから他人の生き方にとやかく言ったりしない。それは、この僕の在り方が他人にもあって欲しいという願望の表れだということは分かっている。我儘ではないフリをしてその実、根っからの我儘なのだ。自分がそのような考えを持っていると意識したのはいつからだったか。それよりどうしてこんな考えに至ったのか。
しばらく息を止めていたのだろうか、ふと鼻腔を通り抜けるコーヒーの匂いが新鮮に感じられた。店の中に客らしき姿はなく、そろそろ帰るには潮時だった。僕はレジに向かい支払いを済ませた。払った額が普段の二倍だったことにはドアベルが鳴り終わってから気付いた。
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