2.
イルカたちが泳ぎ疲れ海が静まりかえった後、僕は毎朝の日課である散歩に出かけることにした。深緑のカーゴパンツとモノクロチェックのネルシャツに着替え、その上に紺色のピーコートを重ねた。忘れ物がないかポケットを確認し(別に持っていくものはない、ただの癖だ)玄関で靴を履き、扉を開けた。
意外にも外は雪が積もっていた。意外にも、と言うのは、僕の住むこの街は年に一回雪が降るかどうかという気候であるということと、先程ベッドの上から外を眺めていた時に気がつかなかったということからだ。すでに雪は止み溶け始め、シャーベット状になっているが、久々の積雪に僕は少し嬉しくなった。厚さは一センチほどだろうか。大抵は雪が降ったとしても、積もることなくアスファルトに吸い込まれるように消えていく。ザクザクと音を立て踏みしめる雪の感触はとても気持ちが良かった。
いつもの散歩コースは真っ白に染まり、味気のなくなりつつある道程に新鮮さを加味してくれた。折り返し地点の湖までは上りであるため何度も転びそうになった。
なんとか転ばずに折り返し地点にたどりつくと湖も真っ白に染まっていた。ここへ来たら後は戻るだけなのだけれどいつもと違う景色なのだから少し趣向を変えてみるのもいいかと思った。普段は通らない小さな赤い橋を渡り、湖を一周することにした。人がぎりぎり二人通れる橋には、釣人が一人不味そうに煙草をくわえながら釣糸を水面に垂らしている。目があったので僕は軽く会釈し、橋を渡り切った。湖を周るにはおおよそ十分ほどの道程だ。普段は木の根っこだらけの獣道は、今日は真っ白に染まり足が引っ掛からないという面では歩きやすかった。湖の方を見ると手漕ぎボートが二隻ほど退屈そうに体を休めていた。おそらくヘラブナが獲物だろう。それ以外思い浮かばないのだけれど。
視界を過ぎていく木々と右側にある湖を眺めていたら、先程の予想通り、僕は湖を十分で歩き切りスタート地点に戻ってきた。なんとなく水中の様子が気になったので、湖を囲んでいる柵まで近づいてみた。腰辺りまでしかない柵に手を掛け湖の中を覗き込んでみたが、水は濁って碌に見えないことを忘れていた。第一、近くの看板にこの湖で観察できる魚が紹介されていたが、その中の一匹も僕は見たことがない。
深く溜息をつき、代わりに向こう岸の方を眺めていると足元から猫の鳴き声が聞こえた。下を見ると、真っ白な猫が賢そうに座って僕のことを見つめていた。餌が欲しいのかと思い、僕も猫の声真似をして尋ねてみた。すると猫は口を開けずに鳴いた。
猫とテレパシーをできる能力を手に入れたのかと僕がびっくりしていると、鳴き声は猫から女の子の笑い声に変わった。
「どうしたんですか?そんなに慌てて?」
ひとりの見知らぬ女の子が僕を見ながら、可笑しそうに笑っていた。彼女は真っ白のダウンコートを着てしゃがみ込んでいた。瞬時にぼくの頭にはことの全容が整理され、顔から火が出そうだった。
「あー……、この猫は僕の友人でね、近頃の悩みを聞いてあげていたんだ。だけどこの雪降りだから、うっかり姿を見失ってしまってね」僕はしゃがみ込み猫の眉間のあたりを撫でながら、猫と顔を見合わせた。この猫と会うのは今日が初めてではなかった。飼い猫なのかノラ猫なのか分からないけど、湖に来る釣り人たちに気に入られ、時々、餌をもらっているようだ。
「それは、それは……、そのご友人はどのような悩みの種をお持ちで?」彼女は今にも吹きだしそうなのを堪えながら、僕を見て尋ねた。
「今年のバレンタインは愛しの彼女に何をあげようか、と」
「それは素敵な悩みですね。どのようなアドバイスを?」
「今年は蟹が大漁らしいよって」
そう言った途端、彼女は遂に吹きだしてしまった。片方の手で口を押さえ反対の手でお腹を抱えながら彼女は笑っていた。けれど、彼女の笑い方には馬鹿にしたような含みはなく、純粋に笑っているようだった。段々、僕も可笑しくなって一緒に笑い出してしまった。猫は不思議そうに僕らの顔を見て、体をそれぞれに擦りつけながら歩き回っていた。
「蟹なんかあげたら嬉しすぎて、腰が抜けちゃいますよ?」笑いで息を詰まらせながら彼女は言った。
彼女の笑顔をずっと見ていたい、と僕は思った。顔は幼く、声は少女のようにどこまでも響き、楽しげだった。首の下まで素直に伸びる真っ黒の髪が彼女の幼い顔に垂れて魅力的だ。しばらくして僕らは笑い疲れてしまった。最初は気付かなかったが、僕は彼女の顔を見たことがある気がした。その微かな記憶を明らかにしたのが彼女の声だった。
「……君」人違いだろうかと考えながら僕は尋ねてみた。
「あれ、私のこと分かるんですね」彼女は意外そうに僕を見た。「私のことなんて知っている人は少ないと思っていたんですけど」
確かに普通の人が彼女を見てすぐに気がつくということはないかもしれない。しかし、たびたびニュースで取り上げられているからそれなりの認知度はあると思う。僕の場合、理由はそれだけでないのだけれど。
「僕、音大出身なんだ。君が通っている学校の」
「なるほど、そういうことですか」彼女は理解したことを伝えるためか何度か首を縦に振った。
「公演を聴きに行ったこともあるよ。すごく良かった」僕がそう言うと「本当ですか?ありがとうございます」と、彼女はさっきとはまた違った笑顔を見せた。
彼女はプロの声楽家だ。プロと言っても弱冠二十歳で、音楽大学に通い続けている。彼女は高校在学中に国内の学生コンクールで一位を取り、去年、大学一年生で海外のコンクールで三位を取った末、華々しく声楽家としてデビューした。彼女ほどの実力ならば留学資金を受け、海外の音楽学校で勉強できるだろうに何故か国内の音楽大学に通っているというのが、マスコミの間で話題になった。その訳を知りたくないと言えば嘘になるが踏み込んだ事情を尋ねるような無粋な真似は出来なかった。
彼女は僕が抱いていたイメージとは違い、快活でとても朗らかな性格だった。
「今日は釣りをしに?」
「まさか。ただの散歩だよ」
「釣道具、持ってませんもんね」
「僕が熊だったら、道具がなくてもひょいひょいと獲物を捕まえられるんだけどね。生憎、僕は熊じゃないし、彼らほど毛深くないから入水した途端にカチンコチンに凍っちゃうよ」
フフッ、と彼女は笑った。
僕たちは学校の先生の癖や最近はどんな曲に取り組んでいるのか、彼女も最近この湖に遊びに来るということなどを話した。そして猫が餌をもらえないことを悟りねぐらへ戻っていった後、僕たちは別れた。
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