青い月は君に笑う

@philip-K

1.

涙目の起床となった。

布団の隙間から入り込む冷気は舐めるように僕の体を這っていく。暖冬と騒がれる今年の冬では一番の冷え込みに感じられた。

スペースキャプテンと暗黒星雲を巡る宇宙の旅から無事に帰還した僕は、喉のビリビリとした痛みに気付き目を覚ました。おそらく乾燥が原因で起こるこの喉の痛みは、毎年、冬の恒例行事のようにやってきて二週間ほど僕を悩まし、知らないうちにどこかへ行ってしまう。今年は対策を練り最新の加湿器を買ったのだが、三日前突如狂ったように赤いランプを点滅させた後、動かなくなってしまった。取扱説明書をいくら読んでも僕の使用方法に間違いは見当たらず、メーカーに問い合わせようかとあれこれ悩んでいるうちに喉の痛みがやって来てしまった。

頭の中にはまだぼんやりと宇宙空間が広がり、夢の余韻が部屋中を覆っている気がした。あんなにも必死に数々の死線を掻い潜ってきたのに、冷静になると夢というのは本当に馬鹿らしい。なんせヒロインの女の子は幼稚園の時の初恋の先生で、スペースキャプテンは中学時代の教頭だったからだ。無茶苦茶だ。

幾分か憂鬱な気分のまま上半身を起こした。カーテンの隙間からはインディゴブルーの空が東へと見事なグラデーションを描き出していた。しばらく眺めていると、ぼやけた輪郭の太陽が顔を出し、今度は西へと淡いオレンジのグラデーションを描いていく。冷え切った部屋に暖かな光が差し込んでも然して気温は変わらない。その証拠に、深く溜息をつくと白い吐息がぐるぐると回りながら僕の乾いた口から出ていった。日が暮れるまで太陽の行方を追っていきたかったが、いつまでもベッドの上で呆けている訳にもいかず、僕は意を決し、床に足を下ろした。

階段を降り洗面所で顔を洗ってから、僕は誰もいないリビングへと向かった。テーブルの上には昨晩使ったコーヒーカップとポットが置いたままだった。もったいなかったのでポットの中の冷え切ったコーヒーをカップに注ぎ、レンジで温め飲むことにした。冷凍庫にはピザトーストがあったのでトースターで焼き、コーヒーと一緒にそれを朝御飯にすることにした。


トースターが過熱完了のベルを鳴らしても誰も起きてくることはない。両親は僕が大学二年生の時に、父の転勤で引っ越してしまった。大学を編入してまで両親に付いていきたい訳ではないので、僕だけこの家に留まることになった。せっかくローンを組んで買ったのだから使わないともったいない。それから十年。兄弟のいない僕はそういう理由でこの家のリビングで一人、コーヒーを飲んでいる。

家の中も外もあまりに静かだったためBGMに朝のニュース番組でも聞き流そうかとテレビのリモコンを探したのだが、どこにも見当たらなかった。リモコンを探すためだけに朝の一時を使うは億劫だ。何日かしたらこっそり出てきてくれるだろう。リモコンというのはそういうものだ。僕は真っ黒な画面を映し出すテレビの前を通り過ぎ、CDラックの方へ向かった。

普通の人が何枚ぐらいのCDを持っているのか知らないが、僕のコレクションは相当な数だと思う。僕は気が向くと行きつけのCDショップへ行き、入口の前に置いてある安売りのワゴンから適当に数枚選び出し買っている。カントリーやヘヴィメタル、テクノなどジャンルは様々で、誰が演奏し歌っているのかは知らない。ようは音楽であればいいのだ。しばらく聴いて、飽きたら新しいのを買う。そんな習慣を続け気付いたら、二メートル四方のCDラックが埋め尽くされていた。その中から僕は買う時と同じように適当に一枚を選び取り出した。ジャケットの中央には年配の男性の顔写真がプリントされ、その上に『セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ』と『パガニーニの主題による狂詩曲』という文字が英語で綴られてあった。ラフマニノフ姓は十五世紀まで遡り、王家の血筋を持つ彼の祖先ワシリーという人物が、愛想のよい客好きな人の意味のラフマニンとあだ名で呼ばれていたのが由来らしい。記憶にあるラフマニノフの表情はどれも不愛想で寡黙なイメージがあるし、目の前にあるジャケットの肖像写真も好ましい印象を与えてはくれない。どう足掻いても愛想のよい客好きな人にはまったく見えなかった。事実、同じくロシアの作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーからは六フィート半のしかめ面と言われていたそうだ。まさしくその通りだと思う。

僕のCDラックの大半はクラシックで埋められている。僕には好みがあまり無いというのはさっきの通りで、単純にクラシックの方が安売りされていることが多いのだ。好みで偏っているわけではない。

ケースからCDを取り出し、オーディオに入れ再生ボタンを押す。CDが回転し擦れる音がした後すぐに、弦部隊が颯爽とメロディーを奏で、銅鑼の音の様なピアノが流れだした。オーケストラが主旋律を描き出した後、目まぐるしくピアノとオーケストラが絡み合う。それが僕には二匹のイルカが大時化の海で戯れているように感じられた。イルカは決して自力で泳がずに波に弄ばれることを楽しみ、時々息を吸うため海面に跳ね上がるのだ。

悪魔に魂を売った引き換えに比類なき技巧を手に入れたニコロ・パガニーニ。この狂詩曲の原型であるパガニーニの二十四の奇想曲(カプリース)は、元々バイオリンの独奏曲であり、今でも世界中のバイオリニストを悩ませる屈指の難曲だ。この曲に感化された後世の作曲家たちは様々な構成で彼の超絶技巧を再現しようとした。フランツ・リストもまた、その一人だった。僕はリストのパガニーニによる超絶技巧練習曲第六番『主題と変装』をラフマニノフの狂詩曲の前に聴いたのだけれど、やはり荒れ狂った海のように感じた。一小節毎に迫るアルペジオの波が可憐な音の飛沫を描き出し、僕を震わせた。

リストより後の時代に現れたラフマニノフは、幾人もの作曲家たちが取り組んだこのパガニーニの主題に二十四の変奏曲という形で二匹のイルカを泳がせ僕の中にさらに物語を描き出した。どのようなイメージで彼がこの曲を作ったのか分からないが、僕のイメージはあながち間違っていないように思う。


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