第28話

 次の日。私は少し濡れた手で、教室の扉を開けた。扉を開けた手の袖口も、若干濡れていた。大丈夫……私なら大丈夫。挨拶できる。よし。

 深呼吸し、一息ついてから声を出す。

「お、おはよう!」

 何人かのクラスメイトが反応してくれて、私に視線を向けながら「おはよう」と返してくれた。


 私はほっと安堵する。


 良かった……今日も挨拶を返してくれた。前だったら誰も返事してくれる人なんていなかった。でも今は少しでも挨拶を返してくれる人がいるだけで、こんなにも嬉しいだなんて……。

 私は目伏せしてフッと笑みをこぼした。


 ――これもみんな、あの二人のおかげだね。


 頭の中に春也と鈴蘭の顔を思い浮かべる。あの時の光景を忘れることはないだろう。あの二人がいなければ確実に母と和解できなかったし、もし家族だけで話し合っていたら母は人の話は聞かずに決めつけていたと思う。秋夜の事だって、無理やり勉強押し付けたままになっていたはず。そう考えたら、あの二人には感謝しても感謝しきれないほどの恩がある。


 再び教室に視線を戻し、春也をちら見する。今度は私が春也の力になるんだ。そのためにも、今は春也にきちんと挨拶出来るようにならなきゃ。

 私は教室の中へと一歩を踏み出すと、静かに扉を閉めた。そのまま、春也の席へ直行。息を吸って、呼吸を整えてから言った。


「春也、おっ……おはよう!」


 ど、どうかな。前より自然にできたと思うんだけど……緊張しながら春也の返答を待った。

 春也は私に視線を向けてくれたけど、すぐ戻してしまう。暗い声色で「あぁ、おはよう……」と、呟くだけ。


 春也……。


 ため息を吐いた後、がっくりとうなだれた。一応、話しかけることには成功したけど、相変わらず落ち込んだまま。日付が変わったら元に戻っているんじゃないかと淡い期待を寄せてはみたものの、割れたガラスのように一瞬で砕かれた。

 私はトボトボ歩き、仕方がないので自分の席に着く。机の上に鞄を置いて、鞄のチャックを開けた。中から教科書やノート、筆箱等を取り出し、次々と机の中にしまう。全て出し終えると、鞄のチャックを閉じて机の横にかけた。

 椅子に座ってからため息をこぼす。


 昨日と何も変わらないなんて……何があったの、春也。今度は私が春也の力になりたいのに。そんなに頼りないのかな、私って。

 誰かが、私の右肩を軽く叩いた。急いで顔を上げたら、心配そうに私を見つめる梨子だった。

「麻奈、おはようございます」

「おはよう、梨子」

 苦笑いを浮かべる私に、梨子は不思議そうに首を傾げていた。

「今日はテンション低いですね。朝からため息を吐いたりして……何かありましたか?」


 言おうか悩んだけど、隠していても仕方がないので先程の件を話すことにした。

「うん、さっき春也に『おはよう』って挨拶してみたんだけど昨日と変わらなかったの。駄目だったというか、素っ気なかったんだよね」


 何が言いたいか理解してくれたのか、「なるほど」と呟きながら頷く梨子。

「そういう事でしたか……」

 私は机に突っ伏すと、ため息を吐く。

「もう一回話しかけてみたいって思ったけど……」

 梨子は考えるような動作をした後、教室にかけられている壁掛け時計を一瞬だけ見る。

「もう一度話しかけてみてはいかがです? 担任の逆川さかがわ先生が来るまでまだ少し時間が残っていますし」


 私は姿勢を整え、両腕を組む。

「うーん。でも、今話しかけたとしてもまともに相手して貰えないし、嫌われたらどうしよう……って考えちゃって」

 今度は梨子がため息を吐いていた。あれ、どうしたの?

「麻奈、やってみなきゃ分からないって昨日も言いましたよね?」


 梨子の言葉に、ギクリと嫌な汗が流れる。あ、これはやばい。

 ギロリと眼鏡の奥から光る眼光に、私は「しまった」と気づいた。時すでに遅し。こういう時は梨子の説教が始まる合図だ。


「うん、それは……その…………はい、聞きました」

「だったらやる前から諦めようとしてどうするんです?」

「それは分かってます」

「やってみないとわからないと言ったはずですが……これで何度目でしょうね」

「うぅ……耳が痛いです」

「それで結局、麻奈の本音はどうなんですか? このままでいいんですか?」

 ハッと顔を上げると、にっこり微笑む梨子と目が合った。

「梨子……!」

 このままでいいのかと問いかけられたら、このままでいいはずがない。中途半端な気持ちのまま放って置けなかった。知りたい気持ちと知るのが怖い気持ち、それでも力になりたい思いが複雑にこんがらがっている私に。

「自分にできることはとことんやってみればいいんです。麻奈なら大丈夫」

 と、励ましの言葉をかけてくれた親友の梨子。

「そうだよね、諦めちゃ駄目だよね。私、もう一回話しかけてみるよ」

「えぇ、それでこそ麻奈です」

「よし、今度こそは」

 私は勢いよく椅子から立ち上がった。同時に教室の扉が開き、出席簿を持った担任が中に入ってくる。

「ホームルームを始めるわよ。皆、自分の席についてね」

 そう言いながら、教壇の前に立って、教壇の上に出席簿を置く先生。

 先生の登場に、私と梨子は気まずそうに見合う。

「ひとまず……席に着いた方がよさそうですね」

 苦笑いする梨子に、私は頷く。

「そうだね……」

 私を含め、教室内で生徒達が慌ただしく自分の席に着く。




 担任の逆川先生が生徒の名前を読み上げていき、最後の一人が元気よく返事する。見開きに開けていた出席簿を閉じた逆川先生。

「出席確認は以上となります。では、今日の連絡事項を伝えます」


 今日の連絡事項は何だろう。内容はいつもと変わらないと思ってた。

 そう、この時までは。


 逆川先生が誰かを探す仕草をしながら、誰かに目をつける。

「一つ目は……日高君。前に来てもらえるかしら?」

「……はい」

 えっ、春也? 前に来てってどういうこと?


 先生に名前を呼ばれた春也は、椅子から立ち上がる。前に進み、無言で教壇の前に立つ。

 逆川先生は一呼吸ついてから口を開いた。

「えー、この度、日高春也君が二週間後、神崎市から他県に引っ越すことになりました。ご両親のお仕事の都合だそうです」

 逆川先生の言葉に、教室内に生徒のどよめきが響く。


「おい、春也! 引っ越すって本当かよ!?」

「聞いてねえぞ、春也!」

「嫌〜〜!! 春也君が引っ越すなんて、嫌ぁ〜〜!!」

「そうよ! 春也君が引っ越してしまったら私……何を楽しみに生きていけばいいの〜〜!?」

 他にも様々な声が飛び交うが、殆どが寂しがったり、悲しんでいる生徒ばかり。


「日高君が引っ越すまでまだ二週間あります。皆、悔いのないように日高君との学校生活を送ってください」


 頭の中が真っ白になって、生徒の声が通り抜けていくような感覚が走る。私は目を見開いたまま動けなくなった。

 そんな……!! じゃあ、春也が昨日から落ち込んでいた理由って引っ越すことだったの!?

 呆然と、遠くに立っている春也を見つめながら、両手に握り拳を作った。


 なんで、なんで言ってくれなかったの……春也の馬鹿。


 その後の先生の話が頭に入ってくることはなく、連絡事項を聞き流していることに気が付かなかった。


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