ストーリー5 敗北感からの前日
第12話
日付が変わり、次の日。七時三十分、私は階段を駆け下りる。
玄関先に置かれている通学用のローファーを中央に持ってくると、いつものように履き始める。背後からスリッパが床を擦る音が聞こえてきた。この歩き方からすると母親だろう。
「麻奈、今日帰ってきたら買い物を頼みたいんだけど、いいかしら?」
「別に……いいけど…………」
「ありがとう、助かるわぁ〜」
母親の足音が遠ざかっていく。振り向いたけど、後ろ姿しか見えない。母親は私を見送ることに興味はないのか、リビングへと入っていった。相変わらず弟にしか関心がないみたい。
「見送ることはしないのね」
私は前を向くと、ゆっくり立ち上がった。
「……いってきます」
私の声が届くはずもなく、玄関に虚しく響いただけ。せめて「いってらっしゃい」くらい言ってくれたっていいじゃない。
などと思いながら、私は急いでドアノブを回す。扉を開けた瞬間、家から離れたい一心で、勢い良く外に飛び出した。
外を出てみれば、昨日と同じく快晴で、清々しい朝だった。住宅街はにぎやかで、談笑するおばさんや、通勤するサラリーマン、楽しそうにおしゃべりしながら走っていく小学生達で溢れていた。
私は学校目指して、通い慣れた道を歩き始める。日に日に、憂鬱な気分になっていく私の心。昨日は昨日でとんでもないことに巻き込まれてしまった。いや、正確にはとんでもないことを言ってしまった。
――私、春也君のことが好きですの。ですから、貴方と私は恋のライバル……ということですわ。
――ええええぇぇぇぇ!?
――それと、春也君を賭けて勝負しませんこと? バレンタインに貴方と私でそれぞれチョコを作り、二人同時に告白をする。貴方のチョコを受け取ったら麻奈さんの勝ち。私のチョコを受け取ったら、私の勝ち。いかがかしら?
――私はそんな賭け……
――自身がない、とはおっしゃいませんわよね?
――なっ、そんな訳ないでしょ!?
――もし断った場合、麻奈さんの負けとなりますが……それでもよろしいのでしょうか?
――良くない! わかったわよ、やってやろうじゃないの! 私だってやる時はやるんだから!
――ありがとうございます。ではバレンタイン当日、楽しみにしておりますわ。
春也と鈴蘭が恋人じゃないと分かった矢先に、まさかの恋敵宣言されるなんて。しかも勝負の約束まで交わしてしまった。どうしよう……また噂になったら。春也のファンだけじゃなく、今度は鈴蘭のファンからも敵視されそうで恐ろしい。勝負するって知ったらみんな鈴蘭を応援するだろう。私を応援しようなんてするはずがない。
――私、春也君のことが好きですの。
鈴蘭の自信に満ちた顔と言葉が、頭の中で何度も繰り返し再生される。止めようとしても、勝手に再生されていく。
考えすぎなのかな……私。重い足取りで歩道を歩き続けた。
*
私は歩き疲れたので、一度、校門前で立ち止まった。体力的な疲れもあるけど、精神的な疲れが圧倒的に勝っていた。
立ち尽くす私の両側を、すんなり通り過ぎていく生徒達。なんで校門で立ったまま動かないんだろう。そんな顔をしながら、校門を通っていった。他の生徒には不思議に見えるだろう。あの三河麻奈がこんなところで立ち止まって、何をしているんだろう、と。
だって、この門を通った先には嫌な噂地獄が待っているから。あることないこと言われて、女子から嫌われて……素直になれない私にどうしろと言うんだ。
決めた。今日は下駄箱まで全速力疾走しよう。噂なんて気にしない。うん。よし。
私はうつむきながら全力で走りだした。前を見ないで走るなんて非常識にもほどがあるけど、他の生徒の姿を見て歩くくらいだったらこの方がまだマシだ。
地面と向き合っていたら、誰かの運動靴が見えた。ぶつかる、と思ったときには遅かった。正面の人物を衝突した勢いで身体がよろけ、地面に尻もちをついた。
「あいたたた……ご、ごめんなさい。前を見ないで走ってしまって……」
「いたた……こっちもごめんなさい。私も考え事を……って、この声はマナなの??」
声の主に視線を移す。同じように尻もちをついてへたりこむ、花梨の姿があった。
「あ、花梨!?」
花梨は私を見つめながらニッコリと微笑む。
「なんだ〜、マナか〜。良かった!」
いつもの可愛らしい笑顔に、私はホッと安堵した。
「私も花梨で良かった……他の人だったら……」
合わせる顔がない。そういう意味では花梨で助かった。こんなこと本人の前では言えないけど。
「珍しいね〜、マナが前を見ないで走るなんて。いつもはないよね」
花梨の指摘に、私はギクリとする。
「うっ、ま、まぁ、色々とあったからね……色々と」
「じー…………」
花梨は疑いの目で私を凝視し始めた。何かに気がついた顔で、しばらく私を見つめる。
こういう時どうしたらいいのかな……私が迷っていると。
「マナ、場所を変えて二人でお話ししよっ!」
花梨はそう言うなり、再び笑みをこぼし、私の右手を片手で掴む。突如、その状態で駆け出した。
「ちょっ、花梨!? 待っ……」
陸上競技している人としていない人じゃ違うんですけど〜〜〜〜。
心の声は届かないまま、花梨に引っ張られていった。
*
花梨の疾走により五分で到着した。場所は、昨日何かと騒ぎがあった中庭。花梨は知っているんだろうか。昨日、ここで私が春也ファンに呼び出されて、嫌がらせを受けたこと。
花梨は何かを探すような目つきで、校舎や中庭をくまなく見回していった。たぶん、人気がないかどうか確認しているんだと思う。
「うん、人気が少ないから今なら大丈夫だね!」
花梨の言葉で、改めて中庭を見た。中庭にいる生徒はまばらで、目に映る人数は二人くらい。校舎にも、廊下を歩く生徒達はいるけど、廊下で立ち話している生徒はいない。確かに、これならゆっくり話せるかも。
「マナ〜、あの木の下でお話ししよっ」
花梨は振り向き、一本の木を指差す。
「いいよ……ゆっくり休める場所ならどこでも」
二度の走りで体力が底をつき、右の横腹に痛みが起こっていた。まずは一休みしたい。それから呼吸を整えないと私の身が持たない。
花梨は私の手を握ったまま、数百メートル先の木まで歩いた。
「はぁ……やっと休める」
私はため息を吐きながら、木にもたれかかるようにしゃがみ込む。その瞬間、花梨の怒号が飛ぶ。
「マナッ!! そんなんじゃ、駄目でしょ!!」
思わず「えっ!?」と声を漏らしていた。花梨に怒られると思っていなかったから驚きの感情が勝った。
私は見上げて、横にいるはずの花梨を見た。立ったまま眉間にシワを寄せて私を睨んでいた。
「なんで頑張ろうとしないの!?」
というか、まさかのダメ出し!? いや、いや、いや!! テニス部の私と、陸上部の花梨。走りに違いがあるのは当然のこと。なのに、話し合いの中身がダメ出しだとは……私、どうすればいいんだろう。
私の内心をよそに、花梨はふくれっ面な顔でダメ出しを続けた。
「そんな顔じゃ、春也君、好きだって言ってくれないよ!!」
「あ……そっちね」
ダメ出しはダメ出しでも、走りじゃなくて恋愛のダメ出しだったのね。びっくりした。休憩したとたんに怒られたから、走りのダメ出しかと思ったよ。
「急にどうしたの? ダメダメなのは自分でもわかっているけどさ……」
「マナは、春也君と仲良くなりたいんじゃないの!?」
「なりたいけど……話しかけたら女子に睨まれるし、なかなか本音をぶつけられないし。しまいにはあることないこと噂されるし」
「そんなネガティブマナだから、いつまで経っても仲良くなれないんだよ!」
ど直球の説教に、私の心に深く突き刺さった。正論すぎて反論できない。
いろいろな出来事がありすぎて自分はどうしたいのか、春也と仲良くなれるのか、わからなくなってきた。やっぱり、私には無理なのよ。自分を変えるのは。
何も言えずに戸惑っていると、花梨が目線を合わせるかのように、ゆっくりと腰を下ろす。
「周りがなんだ、噂がなんだ、マナはマナだよ。少しずつ、いっこずつ、課題をクリアしていけばいいんだよ! それに噂だって時間が経てば、そのうち忘れられるよ。周りの反応を気にしすぎなんだよ、マナは」
花梨と、面と向かってこんな話をするなんて……思ってもいなかった。けど花梨の言葉が、私の固まっていた心をほぐしてくれた。
私は笑顔で花梨に言った。
「ありがとう、花梨。お陰で目が覚めたよ。そうだよね、気にしすぎなんだよね、私は私らしくでいいんだよね」
「そうだよ! マナはマナでいいんだよ! マナは笑顔でいる時が一番輝いているんだから、暗い顔しちゃ駄目だよ!」
花梨はそう言ってくれた。そうだ、暗い顔しちゃ負けなんだ。
私は勢い良く立ち上がり、空を見上げた。
「よーし、決めた! 私、春也と仲良くなって、素直に自分の気持ちを告白する! いや、してみせる!」
「うんうん、その調子だよ、マナ!」
「あ、そろそろホームルーム始まるかも。靴を履き替えたら教室に行こうか、花梨」
「そうだね、マナ」
花梨はゆっくりと立ち上がる。目が合った時、いつもの花梨に戻っていた。
この子と友達になれて良かった。私は花梨と二人で、教室を目指した。
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