おやすみダーリン

涙墨りぜ

おやすみダーリン

 満月の夜。寝転んで窓の外をぼんやり見ていた青年は、やがてゆっくり起き上がると眼鏡をかけた。

 そして引き出しから取り出した日記帳にペンを走らせ、「今夜は満月。僕には月が六つに見えた」と書いて、そっと閉じる。

 そのとき、コンコン、と玄関のドアのノッカーを打つ音が青年の耳に飛び込んだ。

 時間は夜の十二時を少し過ぎている。非常識な来訪者に怒りを表すでもなく、青年は「来たか」とだけ呟いた。

 そして日記帳を机の上に放ったまま、ガウンを羽織って玄関へ歩き出した。


「こんばんは」


 ドアの向こうにいたのは、十四、五に見える少女だった。ピアノの発表会で着るような黒いワンピースドレスを着た金髪の少女が立っていた。

「やあ百合根、今日は遅かったね」

 声をかける青年を、どこかうつろな目で見上げる少女。 

「ごめんなさい、こんな時間に」

「構わないよ。とりあえず、中にお入り」

 青年は少女を居間に案内した。

「外は寒かったろう」

「よく、わからない……」

「そうかい。誰にも見られていないね?」

「ええ」


 青年は少女にお茶も何も出さなかった。ソファーに腰掛けた少女は不満そうな顔もせず、ただぼんやりした顔で額縁の風景画を見ていた。

「蜜蝋さん」

「ん?」

 少女の視線の先にある絵になんとなく目をやっていた青年は、少女に名前を呼ばれ向き直った。

「怖い夢を見たのよ」

「ふむ、どんな?」

 少女はうつむいて、「笑わないでね」と前置きして話しだした。

「おうちの屋根に登って、そのまま飛び降りるの。馬鹿みたいでしょ。でもすごく、現実っぽいの。なんて言ったらいいかわからないけど……。それで、はっと目が覚めて」

「うん、続けて」

 青年は真剣な表情で頷いた。

「そしたら墓地にいたの。お棺の中よ。でも、釘は打ってなかったのかしら、押したら簡単に開いたわ。そのまま出てきて……急に蜜蝋さんが頭に浮かんだの」

「僕が?」

「怖い夢を見たら、蜜蝋さんのところに行けばいいって。それで、森を抜けたら蜜蝋さんのおうちがあって、私……」

 少女はそこまで話すと、「怖い」と泣き出した。

 自分を抱きしめながら嗚咽を漏らす少女。だが、その目からは涙は出てこない。

「蜜蝋さんのおうちに来るまでね、ずっと思い出そうとしたの。パパのこともママのことも思い出せない。誰も思い出せないの」

 青年は黙って少女の髪に触れた。

「私、どうなってるの? 蜜蝋さんは私のこと知ってるでしょ?」

 縋るような視線を向けられ、青年はやっと口を開いた。

「知ってるよ。君は百合根、僕の……友達だよ」

「うん」

 ぽんぽんと少女の頭を撫で、ぎこちなく微笑む青年。

「大丈夫、怖い夢を見て頭がぼうっとしてるだけさ。それに、これも夢かもしれないし」

「これも夢?」

 青年は頷く。

「夢。起きたら全部、思い出せる」

「そうなのかしら」

「うん、だから、まずはおやすみ。僕のベッドを貸すよ」

 少女は反論せず、黙って青年の顔を見ていたが、やがて儚げに笑むと、「ありがとう」と言った。


 少女が眠ってしまうと、青年は少女をそっと抱きかかえ、ランプを片手に下げて外に出た。

 誰かとすれ違ったりしないよう、細心の注意を払いながら、向かう先は墓地。

 その外れの森の中に、蓋が開けっ放しの棺桶があった。


「ごめんね、百合根」


 そう呟くと、青年は少女をそっと棺桶に横たえて蓋を閉めた。






 百合根は街で一番の金持ちが、妾とのあいだに作った娘だった。

 正妻には子供がいなかったため、その家で育てられてはいたものの、周囲は冷たく意地悪だった。

 唯一味方と呼べる存在は、墓地のそばの小さな家に住み一人で画家を営む青年、蜜蝋だった。

 蜜蝋は百合根に恋をしていたが、貧乏画家の蜜蝋にはとても百合根に想いを打ち明けることは出来なかった。

 そんな思いを知ってか知らずか、ある日、百合根は屋敷の屋根から飛び降りた。

「僕が百合根にちゃんと告白をしていればこんなことにはならなかったかもしれない」

 年齢の差や、身分の差がなんだったというのだろう。死んでしまっては、どうしようもないじゃないか。

 蜜蝋はひどく悲しみ、日に何度も彼女の墓を訪れた。

 他に誰も、花を供えるものはいなかった。


 ある日、深夜に想いが募って百合根の墓を訪れた蜜蝋は、ガリガリと引っ掻く音が地面の下から聞こえるのに気づいた。

 さまざまな恐ろしい想像が頭をよぎったが、耳を澄ましてみると、微かに声が聞こえた。

「誰かいませんか、誰か、ねえ、出して」

 泣きじゃくるような声は百合根のものだった。蜜蝋は走って家に帰り、スコップを持って墓を掘った。

 一緒に持ってきた鉄挺で釘が打ち付けられた棺桶をこじ開けると、凄まじい死臭とともに百合根が抱きついてきた。

「蜜蝋さん! 蜜蝋さんだわ、よかった、助けてくれたのね」

「静かに」

 人に見られて、アンデッドの処理部隊に通報されては事だ。

 蜜蝋は人差し指を唇に当て、しっと息を吐いた。

 百合根はきょとんとした顔で首を傾げる。

「? ねえ、私、どうして」

 蜜蝋は百合根が、自分が死んでいるのに気づいていないことを瞬時に悟り、言い聞かせた。

「百合根。これは全部夢だよ。悪い夢だ。もう一度眠ればいつも通りさ。だから安心しておやすみ」

「そうなの? 眠れば大丈夫?」

「ああ。また怖い夢を見たら僕のうちにおいで。ほら、あの森を抜けたところの家だ、わかるかい?」

 それから約二週間の間、少女は毎晩、森を抜けて彼の家に通った。

 蜜蝋が目を閉じた彼女にそっと囁いた、「ほかのことはすべて、忘れておしまい」という言葉を頑なに守ったまま。

 蜜蝋はそっと百合根の棺を盗み、森の中に目立たぬよう横たえた。幸い誰も気づかず、百合根はいつも、釘の外された棺を開けて出てきた。




 夜が来る度に、全ての記憶が抜け落ちた状態でやってくる百合根。

 蜜蝋は、はやく百合根がこの悪夢から抜けだして、自分の家に来なくなればいいと思っていた。

 百合根が目を覚まさないことを期待して、あえて自分から迎えには行かない。

 それでも、夜になるといつもそわそわして、ノッカーの音を待ち焦がれている。

 こんな日々が続くわけがない。それは救いでもあり、絶望でもあった。







 ある夜のこと、いつまで待っても少女が訪ねて来ない。

 もしかしたらその魂は天に召されたのかもしれないと、青年は思った。

 墓地へ行くと、開いた棺のなかに座ってすすり泣く少女がいた。

「どうしたんだい」

 動いている。青年は落胆と、どこか安堵のようなものを覚えながら少女に近寄った。

「蜜蝋さん?」

 すがりついてきた少女の顔には、眼球が、なかった。

「目が見えないの、真っ暗で何も見えない! どうしよう、ねえここどこ? 蜜蝋さん、蜜蝋さん」

 少女の身体は日に日に腐敗が進んでおり、密閉されていない棺の中には蛆がいた。

 青年は呆然と少女を見ていたが、やがて首を振り、言った。

「とりあえず、僕のうちへ」



 青年の家についた少女は、いつものソファーであたりを見回していたが、諦めたように俯いた。

「だめだわ。何も見えない……ねえ蜜蝋さん、私の目、どうなってるの?」

 自分の目に触れてみようとする少女を制止しようと青年が口を開きかけたそのとき。


 玄関のノッカーを打つ音が、聞こえた。


「お客様かしら」

「百合根はここにいて」

 青年はドアのスコープから、銃を持った兵士数人を確認した。

「何ですかこんな夜中に」

「処理部隊です。アンデッドがあなたの家に向かっているところを見たと近隣住民から通報があった」

「来ていません」

 平静を装う青年。しばらく間があって、兵士はこう言った。

「わかりました。だが念のため調べさせてもらう。これは法律に基づくもので、あなたに拒否権はない」

「言いがかりだ!」

 青年の頭の中は、少女をどう逃すかでいっぱいだった。

 ドアに鍵はかかっている。今のうちになにか合図を送れば……いや、でも百合根は、目が。

「……少し、時間をくれ」


 青年は鍵を開けないまま、ドアから離れて少女の元に戻った。

「お客様、なんのご用だったの?」

「百合根」

「蜜蝋さん?」

 ドンドン、とドアを叩く音。兵士たちの呼びかけも聞こえる。

「蜜蝋さん、なにか聞こえるわ」

「いいんだ。……百合根、こんなときに何を、と思うかもしれないけど、聞いてくれ」

「?」

 青年は大きく息を吸い込んで、言った。

「僕は君が好きだよ」

「えっ?」

 少女は困ったように、ぽっかりと穴のあいた顔を青年に向けていたが、やがて手探りで青年の手を握り、言った。

「本当に?」

「本当だよ」

「それって、私のこと……蜜蝋さんの恋人に、してくれるってこと?」

「もちろん」

 少女は笑った。眼窩からぽたりと、小さな蛆が落ちる。

「ありがとう。私、どんなことがあっても生きていける」

 それを聞いた青年は顔を歪め、「ごめん」と言った。

「なんで謝るの? 私は大丈夫よ、大丈夫」

「遅くなって、ごめん。本当に」

 少女は首をかしげていたが、やがてあくびをひとつした。

「ねえ、なんだか私、眠くなっちゃった」

「そうかい」

 青年は寂しそうに笑った。

 その顔は少女には見えていないとわかっていたが、笑っていたいと青年は思った。

「ゆっくりおやすみ。もう夜中に起き出しちゃだめだよ」

「わかったわ。ねえ、眠る前に、キスして」

「いいよ」

 青年は少女をソファーに横たえ、最初で最後の、口づけを交わした。

「おやすみなさい」

「おやすみ」


 少女が眠ってしまったのを確認し、青年は玄関のドアを開けた。

「静かに、お願いします」

 家に上がってきた兵士たちは、眼球のないアンデッドが、まるで生きた人間の少女のように寝息を立てているのを見つけた。

「これか」

 青年は悲しげに少女を見つめ、口の中だけで「ごめん」と呟いた。

 兵士たちはしばらく視線を交わし合っていたが、やがて一人が無言で頷き、ソファーの前に歩み出た。

 そのまま銃を構え、少女の頭部に狙いを定める。

 青年は目を閉じ、十字を切った。

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おやすみダーリン 涙墨りぜ @dokuraz

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