第40話 地獄の始まり

 人は利益の為ならどこまででも残酷になれる。


 もしそれが嘘であるなら資源を奪うために人を殺したり、戦争など起こらない。同族の人間ですらそうなのだから、もはや人間とは呼べない俺には……。


・・・


 背中からひんやりとした冷たさを感じる。頭が痛い。胸の辺りがなぜか熱く感じる。


「ぐっ……ううぅぅ……」


 まるで風邪をひいた日のような倦怠感を感じながら目を開けると、眼前には見たことのある光景が広がっている。薄暗い、埃っぽい部屋の中に檻が並び、その中には希望の光が少しも籠っていない眼球をただただ中空に向ける人間ではない異形の者たち。ただ檻の中からは何かと金属の擦れる音や静かに寝息を立てている音のみが聞こえてくる。


「なんで……生きて……」


 意識が無くなる前までに行っていた自傷行為を思い出し、胸の辺りを確認する。だが、胸に傷があるはずの場所には多少の肉の盛り上がりと凝固した血があるのみで、そこに傷らしいものは無い。


「どうして……?」


 何故、どうして自分が助かっているのか分からない。だが、現に俺は生きている。自害すら失敗してこのどうしようもない世界で生きている。


 檻の内側、入り口の側には再び新しい生肉と果物が無造作に置かれている。そして右隣の檻にいた生き物が3匹ともいなくなっている。


「俺は……どうなるんだ……?」

「あんた、何者だ?」


 呆然としていると、隣から声が聞こえる。声の方を振り向くと、一人のゴブリンが相変わらず壁を向きながら何か手を動かしている。


「俺は……人間だ」

「人間……ねぇ。そんな冗談が言えるなんて余裕だな」

「俺は本当に……」


 人間だ!!


 言葉にしようと開こうとした口を思わずつぐむ。今の俺の姿を見て人間と認識できる奴はいないだろう。俺が押し黙っていると、ゴブリンはこちらに振り返る。その顔は周囲の絶望しきった顔とは違い、濁っていながらもその眼差しは鋭い。


「? まあいいか。にしても喋れるんだな」

「あ、ああ」

「なら、一つ協力してくれないか?」

「協力?」

「ああ、協力だ。ここから出る為のな」


 俺は訝しげにゴブリンに目を向ける。ゴブリンは尖った歯をこちらに見せながら得意げな顔を見せる。


「あんたもこんな所さっさとおさらばしたいだろ? だからここの奴らを脱走に協力させてほしい。数が多けりゃ囮も多くなる。俺たちが逃げられる可能性も高まるからな」


 脱走の協力。言葉だけ聞けばこの場から出る為に協力するのが普通だろう。だが、このゴブリンの言葉には周りを踏み台にしてここから抜け出そうとするように聞こえてくる。


「お前、そんなことここで言ったら誰も協力しないぞ?」

「それなら心配ない。俺の言葉が分かるのはあんたぐらいだからな」


 俺が声を潜めてそう伝えると、ゴブリンは声量を変えることなく鼻で笑いながら答える。


「第一、ここに居たらこいつらも俺らもいつかは死んじまう。全員死ぬか、少しでも助かる見込みに掛けるか。どっちを選ぶなら後者だろ?」


 ゴブリンのいう事も最もだ。どうせここに居てもいつか死んでしまうのは目に見えている。だが、それでも必ず大勢が死ぬであろうこの提案に対してすぐにうんと頷ける程俺自身割り切れているわけでは無い。


「それにほら、武器もあるぜ」


 俺が答えあぐねていると、ゴブリンは自身の後ろから先の尖った短い杭のような物を4つほど取り出す。そのナイフは刃物と呼ぶには酷く不格好な形をしており、刃の部分もそれほど鋭くは無い。


「それはどこで?」

「……仲間の骨だ」


 ゴブリンは表情を暗くする。その口端は上がっているものの、そこからは悲しみや嘆きなどのマイナスの感情のみしか読み取ることができない。


「ここに来て2回目の戦闘、相手はオーガだった。俺の仲間はそのオーガに次々とやられていったんだ。それでも必死で、生きるのに必死で俺はオーガを殺した。別に恨みなんてない。あのオーガだってほんとにやりたくてやってたわけじゃないだろうし。それでその戦闘が終わった後、いつも通りこの檻に戻されてその日の飯も一緒に渡された。それがこれだ」


 ゴブリンは俺の眼前に骨の杭を向ける。その杭には肉が硬化したのか、所々にその跡のような物があり、杭自体も薄く黄ばんでいる。このゴブリンの言っていることが正しければここに置いておる生肉はここで死んだ誰かのものなのだろう。


 確かにこの方法であればここに幽閉している生き物たちの食費を少しは減らせるのであろう。だが、ここの生き物たちの声を、考えを聞くことのできる俺にとっては惨い行いにしか聞こえない。俺にとっては人間同士を殺し合わせてその死体を食わせるのと同じだ。


「……惨いな」


 ぼそりと周囲に聞こえない声で呟く。だが、その声の中に怒りは無く、どこか諦めに似た悲ものだ。


「それで、協力してくれるか?」


 ゴブリンは少しだけ期待するように目線を俺の目にあわす。だが、俺は思わず目を逸らしてしまう。


(今更俺に何ができる。何も守れず、何も成し得たことさえない俺に……)


 ゴブリンはそんな諦めを含んだ俺の表情を見たためか、溜息を一つ吐き出す。そして、懇願するように、すがるように再び言葉を吐き出す。


「どうしてもか?」

「……ああ」

「あんたなら……いや、あんたのような強者がいれば成功率は格段に上がるんだ! だから、頼む!!」

「俺が……強者?」


 何かの冗談かと思い、聞き返す。だが、ゴブリンの目は真剣そのものだ。


「何を根拠に?」

「それだよ」


 ゴブリンは杭の先を檻の格子に向ける。向けられた格子の一部、俺がここへ来た時に感情に任せて殴りつけた部分は目で分かるほどに歪んでいる。


「……これを……俺が……?」

「ん? ああ、そうだが?」


 にわかに信じられない。この世界に来て多少筋力はついたものの、木製ならともかく鉄格子を歪ませるほどの力などあるはずがない。


「……そんなはずはない。俺にはそんな力は無い」

「そんなに協力が嫌か」

「……はぁ」

 

 ゴブリンは再び溜息を吐き出す。そして俺に背を向け、骨を鉄格子にできた粗い錆で研ぎ始めた。


「……」


 もはや何をするでもなく、ただ茫然と眼下に落ちている生肉を見つめる。これは何の肉なのだろう。いつこいつはやられたんだろう。そんなことを考えながら、ただ時間だけが過ぎて行く。


(「腹が……減った……)


 思えばここに来てからまともに食事をとっていない。それに何故だか未だに身体の気だるさが取れない。


 俺は眼下の果物の一つを手に取る。ひどく腹が減っているせいか果物は酷く魅力的に見える。それは生肉も同じだが、あんな話をされた後では食う気が起きない。


(……食うか)


 手に取った果物を口に運ぶ。口の中に果物の甘酸っぱい味に加え、僅かな苦みを感じつつ、咀嚼し、飲み込む。腹がすいていたせいか、果実はあっという間に食べ切り、ひどい眠気に誘われた。


(……眠い)


 腹いっぱいとは言えないまでも腹が満たされた俺は冷たい地面に身を横たえる。これまでの疲れからか目を賭した途端、俺は眠りに落ちた、


・・・


 眼を覚ますと俺俺に鞭を振るった浅黒い肌の男が俺の左手に何かしている様子が視界に入る。


(……なんだ?)


 無気力にその方向を見ると、男は俺の左手首を木製の台に乗せ、その手首や指の第一関節に枷を着けているところだった。


(……なんだここは?)


 ハッキリしない意識の中、誰かの悲鳴が耳の中を貫く。男は意識のはっきりしないうちに俺の元から離れて行った。


「……うっ」


 血なまぐさい臭気が鼻をかすめる。男がいなくなったことによって開けた視界には生物が壁に設置された枷で拘束されている様子が目に入る。もちろん俺自身もだが、どの生物も首、手首、足首にがっちりと枷が嵌められ、その枷についている短い鎖の先は石造りの壁と地面へと繋がれている。また、拘束されている生物の中には俺の入っていた檻の隣にいた3匹の鳥のような人型の生物が繋がれている。


「おらっ、暴れるな!!」

「あ゛ぁ゛っ!」


 鳥のような人間はその腕の羽を乱雑に毟り取られている。それには耐え難い痛みを伴うのか、それとも二度と生えてこない為か、その両方か、鳥のような人型の生物は両手首に枷を着けているにもかかわらず暴れており、それに対し人間もその生物が傷つくのを躊躇おうともせずナイフで無理やり毟り取っている。


 他の場所でも角を刈り取られたり鱗を剥ぎ取られたりと、理由は分からないが人間たちは種々様々なものをその生きた身体から死なない程度に剥ぎ取っている。


(いったい、なんでこんなことを……?)


 その光景にあっけにとられていると、俺の目の前に浅黒い肌の老人と、かなり汚れている白衣のようなものを着た男が現れる。男は俺の身体をじろじろと舐め回すように見ると、顔を横に向ける。


「ではやってみてくれたまえ」

「はい」


 浅黒い肌の男は慣れた手つきで腰から鉈のような刃物を取り出すと、俺の左手首を押え、その鉈を俺の小指めがけて振り下ろす。


「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛!!!!!!!」


 その直後、俺の指からまるで炎にでも指を突っ込んだかと思うほどの熱と共に凄まじい痛みが走る。視界に映る指は何とか切断は免れたらしいものの、その切断面からは血で赤く染まった肉と僅かに白い骨が見える。


「う゛う゛う゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛……」


 痛い。ものすごく痛い。おぼろげだった意識はいつの間にか吹き飛び、目元からは視界を霞ませるほどの涙が溢れだし、口からは呻き声しか吐き出せない。


「うーむ、切断面が見れんと何とも言えんなぁ」

「分かりました」


 俺の呻き声などどうでもいいと言わんばかりに二人は俺の顔など見ようともせずただ淡々と会話を進ませる。そして、俺の小指の先ほどと同じ場所に再び鉈が振るわれた。


「ぐっ……」


 今度は先ほどのような激痛は来ず、指に瞬間的な衝撃が走る。


「うーむ、鱗の硬度は良いのだがこういう時には邪魔だのう。ともかくしっかり切断してくれ」

「はい、少々お待ちを」

「っあ゛ぁ゛!」


 浅黒い肌の男は白衣の老人に頷くと、鉈を器用に扱い指の切り口周辺の鱗を剥ぎ取ってゆく。鱗を剥ぎ取られる度に俺は指周辺から爪の中に針を刺されるような痛みが迸る。


「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛!!!!!!!」


 そして、鱗が剥ぎ取られると、再び俺の小指に鉈が振るわれる。歯を食いしばりながら、痛みに耐えながら、痛みによって塞いだ目を恐る恐る開けると、俺の小指は見事に切断されていた。


「ふむ、血はあまり出ていないようじゃの。これなら止血もいらんじゃろ」

「はい」

「しっかし、ここはうるさいのう。さて、経過を見るのは明日からでも良いだろう。飯でも一緒にどうかの?」

「いや、私あまりお金が無くて」

「そんなもんわしが出してやるわい!」


 二人は俺の指の切断面を見た後、俺の小指を白衣のポケットにしまいこむと、世間話をしながらその場を去っていく。だが、俺にその会話の内容は入ってこない。


(指が……指……が……)


 もはや痛みなど忘れてただ茫然と先のない小指を見つめる。必死に小指を動かそうとするが、その動かす感覚はどこにもない。


「なんでだよ……」


 阿鼻叫喚の悲鳴が響き渡る室内でただ茫然とあるはずのない指を見つめる。指から伝わってくるのはまるで炎にでも炙られているかのような熱と、ズキズキと絶えることなく脳へと伝わる痛みのみ。


 周囲の悲痛な光景や今後の不安をよそに、俺はただ先のない指先を見つめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る