Titus Andronicus/『余暇』

 本当を言うなら、僕は文学者ではない、芸術家でさえない。だが、僕は自分の愛する女たちを歌い乍ら、こう言えるというのが、自分の願いであった、「僕等は最善を尽くして生きている貴族だ」。―――サント=ブーヴ


              *   *   *


 Titus Andronicus氏の新作を読む。「余暇」とは、ライン工の休日のこと。主人公は休みに自転車に乗って海に出かけるのだが、それはほとんど無意味な充実した時間の浪費のためであり、海はたまに主人公の気分を代弁するも、物語の歯車ではない。潮騒から太陽に照らされて輝く砂浜や、澄んだ青空も舞台でいうところの書割の役なのが基本である。


「 彼は疲れていた。そしてそんなことには構わなかった。ごく僅かでいいから、食べて、寝て、再び働き始める以外の何かを求めていた。彼は砂浜へ降りて行き、車の太い轍の上に、ビアンキが頼りなげに細いタイヤ跡を砂の上に作った。この後の次に車が入ってきた時に消えてしまいそうだな、という考えが彼の頭をよぎった。彼は自転車を置いてから太平洋へ進んだ。靴と靴下越しでもやわらかな砂の感触を感じることができた。」


 話の大半は回想に充てられている。物悲しい感じは作者の他の作とたがわず、相変わらず全体の調子を整えていて、いかにもこの人の作品を読んでいるという感じがする。過ぎ去った時間とは、ちょうど短調の音楽のようなものであろうか。こういう言い方も「どこか埃をかぶった本から引っ張り出してきたかのような大儀な形容詞」だろうか。


 回想では、若くして名声と経済的成功を収めた画家の栄光と挫折の物語が回覧される。市場も無邪気な鑑賞者も批評家も、ずいぶん手前勝手なことを言ってどこかへ行ってしまった、そんなことが書いてある。が、主人公姫野にとってこの話は、スランプという挫折の絶頂においても、恨み事などまるでない、それどころか、どうも真実味を感じない昔の夢物語のようだ。それどころか、関係をもった「ウォーターハウスの絵画の中から出てきた」といっても不思議でない女についての思い出が描かれる時であってもそうだ。


「 姫野はその女のことを愛していたかどうか思い出すことはできなかったが、香織と特別な関係にあるという事実が周囲の男たちの心の中にわき起こす感情が、彼の心の幸福をもたらしていたのは確かだった。」


 全編を通じて、自尊心についての記述はこれくらいであり、生活苦のために絵筆をとった下りのほうが、彼にとっては余ほど苦しげであったように思われる。香織という最大の自尊心の源泉にしても、最後の思い出の品である腕によく馴染んだスイス製の時計とともに海の中に投げ捨ててしまった。彼女は今、金払いのいい男の所にいる。

 姫野は、栄光と挫折の原因を芸術に求めてはいない。それは何か、交通事故のようなものではなかったか。彼はそういっている。それに、絵画については、絵筆については、一般から見れば奇怪な信頼と愛着を感じているのである。彼の絵画への信頼と愛情には、他者というものを前提としない、まるで絶世の女を語るように、絵画を語る、表象の調和がキャンバスの上に結実するのを見る。

 世間の浅薄はカオス的である。彼にとっては、もはや、わけのわからぬ気まぐれの塊と自分自身気まぐれになりきったコミュニケーションを図るなどという空想じみたことはもう嫌なのだ。目を覚ませ、もう昼だ。彼は自転車を買って海辺に赴く。「指の間を抜けていく風の感触を楽しみながら水分の混じった空気を呼吸する」。


 作品の味わいは、読者が何の気兼ねなく楽しむものである。ところで、結尾を彩る作者のやり方は、もうずっと変わらない。血なまぐさい戦にしても、漆黒の宇宙空間にしても、彼の紙幅はどうやら「それでも彼は今の生活が嫌いではなかった」この一言のために費やされるのである。

 作者は、家庭内疎遠の風景を描いた前作を抹殺してこれに置き換えた。しかし、ラブコメは消さなかった。雪の降る駅で鳴り響くファランドールは確かにあまりに不似合いであった、これを私は見事に思う。しかし、ラブコメは、どうやら嫌いではない生活に女が絡んでどうしようもなく夢中になっているところに現れる喜劇なので、製作中の次の場面の創造には新たな産みの苦しみが立ち現れることだろう。

 でもこの人なら、何とかなると思う。


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〇追記


 この作者の熱心な愛好家なら気がつかれたかと思うが、実際に削除されたのはラブコメのほうで、家族内疎遠を描いた作品のほうが残っている。私がこの事実錯誤をそのままにするのは、錯誤それ自体を興味深いものと考えるためだ。私は、ラブコメのほうが残っていたと思ったのである。



 また、架空戦記もまるで完結したような話しぶりであるが、少なくとも、私は完結を読む前、リンドン公と少尉が一騎打ちする場面を見た限りである。どうなっていたかは想像するほかないが、おそらく完結していない。残念なことである。しかしながら、今回の作で、おそらく完結は次のような次第になるのではないかという感を強くした。


 架空戦記『血、鉄、名誉』の主題は、王権の横暴による侵略戦争に巻き込まれた人々が生き抜こうとする中で、各々如何に生くべきかを問うという話である。ありがちだが、永遠のテーマである。だが作者は、寓話として現代の人々が混迷の中でいかに生きるべきかの模範や、理想的英雄を作り上げて、説教家にはなりたくないのである。作中で名誉を最も重んじる貴族的英雄タイプ人物は、名誉のために領土の拡張を図った暴君に他ならない。


 「同じ時代に生まれたのは宿命と言うほかあるまい、しかし、一人の個人として生まれたのもまた宿命ではないのか。そうなのだ、生きるとは、この宿命を受け入れることだ。」これが作者の結論である。単純と言ってはいけない。我々は天からの知恵を授けられ、生存のための生存を追求し容易にしてきたが、一向に、我々がどこから来て、我々は誰で、我々はどこへ行くのか、この問いには答えてはくれない。だが、我々はすでにここにあるという事実からは逃れられないので、この宿命を受け入れるほかないのである。受け容れないということは、自殺するということだ。


 これはニーチェが、自伝『この人を見よ』での主要なライトモチーフ「私は一つの運命であった」という箴言と見事に一致する。『善悪の彼岸』は、『歪な人間』主人公の愛読書の一つだ。その著者はほかでもないフリードリッヒ・ニーチェである。



 ところで、サント=ブーヴ(小林秀雄 訳)の『我が毒』に次のような言葉がある。『我が毒』とは、近代批評の創始者サント=ブーヴの未公開ノート。このノートには、一度見ると容易に忘れがたい言葉が並んでいて、私は折を見て読み返すのだが、次のものもときどき思い出す言葉の一つである。



「 古代人は知っていたが、哲学上のあらゆる学派から人々はエピクロスの学派に移ったが、一たんこの学派に這入ると、そこに腰を据えて、もう他の学派に移ろうとはしなかったのだ。この事は近代人にとってもやはり本当の事である。真のエピキュリアン、一たん根底まで行ったエピキュリアンは、そのままで最後まで生き、そのままで死ぬものの様に思われる。世の仕来たりは別である。」



 注釈には「エピクロスの学派 エピクロスの学説に従った人々のこと。「エピクロス」は、前四~前三世紀の古代ギリシャの哲学者。人間の求めうる最大の善は精神的快楽であり、それは心の平安の内にあると説いた。」とある。


 世では心の平安を見せびらかすのが仕来たりである。例えば、「ほのぼの」とは安定秩序というよりは一種の刺激であり、平安の味わいである。秩序に帰っていくという感じはしない、あくまで晒すための仕草である、媚態である。そういうものだが、Titus Andoronicus氏の作は、もう全然違っていて、いかにもエピキュリアンの園に至ったという感じがするものだ。言い過ぎだろうか、ならば笑ってもらえればそれで良い。私はただ、自由な余暇を空気を吸って過ごす。

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