八雲 辰毘古/『フェアリィ・チャイルド』

「勝つのはいつもあいつらの方さ、何と言っても後から書くからさ」

 あいつらとは批評家のことだ。文学カテゴリーで3位に入り、週間ランキング入りも果たした『フェアリィ・チャイルド』には、感想欄やレビュー欄でいろいろな切り方をされたようだが、後から書いたところで勝てない奴は勝てないという良い見本が並んでいるに過ぎなかった。ぱじゃまくんくん男は、物語においては少なくとも私とは比べ物にならないほどの巧者だが、論文は全然ダメである。文章も内容も退屈そのものである以上に、まるでものが言えていない。明らかにベギンレイム未満である。それはともかく、褒めるところを見せて名前を上げようという輩と、知識自慢の多読家風多読家、空想の為の空想にふける戯けの女々しい共感、そういう連中がより合っている中で、唯一明晰を保ち分析を行っている評があった。


「 ファンタジィでありながら、しかしファンタジィへのアンチテーゼのようなものが感じられた。それは彼らが「妖精の国」と呼んでいたものこそ幼い日に感じていた「純粋に信じていた場所・姿」であり、いまでは「現実逃避」だった。「いつから信じられなくなったのか」という問いに対して、主人公は無自覚ながら長い時間を経て答えを得ている。それは現実から逃げきった自分の半身との別れだった。

 妖精郷へと旅立った彼は、現実から離れていった彼は、しかし現実で積み重ねた全てを捨ててしまった。私が感じたのは、「ファンタジィ」は確かに現実から逃げ出し飛び立ち心を癒すものであるが、積み重ねたもの、年齢であったり進学であったりの実績や時間が主人公を縛り、さらには「大人」というものが主人公を「現実」へとくくりつける。

 そして、「現実」から逃げないと決めた主人公に対し、「ファンタジィ」である彼は「逃げられない」と言ったのは、「現実」に生きるほどに「ファンタジィ」は必要になる、ということだったのではないだろうか。

 が、しかし、最後の主人公が「彼の居た場所」から離れていくところで、「現実」に還る……ということを意識させられた。「全ての幻想は現実に還る」。主人公の感じる「痛み」が「成長痛」であってほしいな、と思うばかり。痛みこそが幻から覚醒するものであるから。……というのは個人的な感性。

 ともあれ、文学として現代の世界を舞台にしているが、あなたの「ファンタジィ観」が非常に色濃く出ていました。」


 『フェアリィ・チャイルド』は、語り手である主人公ともう一人の哀れな人物、妖精の国をどうとかいう男が妖精の国をという共通の逃避場所を共有していた二人が、時を経て離れ離れになり、その後どうなったかという話で、言うまでもなくこの二人の対比が話全体である。もっとも、自称妖精の国の住人である哀れな人物の方は、ほとんど観念的な存在と言ってよいもので、上で引用した評者の筆が分析の矛先が、どういう人物であるかという点、性格分析をすっとばして、物語の機能的な存在として、ある理念として存在としての分析に一直線に進んだところが、最も如実に語っているところだ。空想というよりも現実逃避そのものを擬人化したものと捉え、架空的な人間をわざと出現させたことにより対比を明確にする、時間軸の経過によって現れた物理的距離を、現実逃避との計量的距離と看做したのである。現実と空想という問題の設定の根拠は、この作品が一人称形式の告白として作られたというところにおいているのかと思われる。第三者からみた空想の為の空想に生産的意味はないからである。空想は作品ではない。しかし一方で、空想は日常的な精神運動である。主人公の中では少なくとも、現実の精神運動としてあるとみて不自然でない。現実の問題とつきあわせて物語る感想が現れたのは、ここに由来する。


 この作は、よくある精神上のモラトリアムとの別れを、子供から大人への転身という一般的な物理的時間の流れになぞらえて、もう子供には戻れない、昔は良かったという回顧風味の作品としてとらえられている。おおむねその見方は正解であるものの、主人公の考えはそこから現実に目を転じているのではなく、追憶を資本にして現実に対して斜に構えているに過ぎない。私は思うのだが、もしこれに登場する現実逃避そのものの人物(この人物は、この作品においてさえ、空想であったか、実在であったかはこの際問題にしない)が生きていたとしたら、生きて目の前に現れて妖精の国へ行こうと誘ったとしたら、主人公は妖精の国へ行こうと考えたのだろうか。殺したのではなく、ある明確な決別ではなく、自殺だったのは注目すべきだ。主人公は決められない。仕方なく彼が自殺したから、現実とやらの相手をしてやろう。現実逃避の徹底の程は、現実そのものを土台としている点で脆弱でありたいしたことはない、そのため考えは曖昧であるし、決断力のなさが、決められない、あるかないかわからない可能性を保留し続ける多くの読者の共感を生んだ点であるように思われるが、上の評者は見かけより鋭い男なので、この精神上の堕落を直覚し、希望を述べている。


「が、しかし、最後の主人公が「彼の居た場所」から離れていくところで、「現実」に還る……ということを意識させられた。「全ての幻想は現実に還る」。主人公の感じる「痛み」が「成長痛」であってほしいな、と思うばかり。」


 例えば、天から女の子がふってこなかった『天空の城ラピュタ』を考えてみたまえ。もっとも、この主人公は、チャンスを最大限生かしたパズーに比べれば、宣言しただけだ。宣言など、誰にでもできる。難しいのは如何にいくべきか、その行動にある。成長痛とは行動に移すということだ、失敗するということだ。で、実際のところ作者はどういう考えで書いたのか。


「ぶっちゃけるとそこまで考えて書いてたわけじゃないので、むしろ考察されて嬉しく思ってます。」


 これは寝言であるか? まぁ、いかにもこういう発想からこういう作品が現れたという感じがするのである。さて、私はこのように結論したが、そもそも、この作品について語る意味があったのだろうか。多くの人間にとってはないだろう。しかし、彼とは随分長い付き合いが私にはあったのである。積年のファンタジー論とやらは、彼の精神の堕落の産物であった。

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