序文
ある作品を対象とした評論や批評の魅力は、感動と名づけられる漠とした精神にはっきりとした輪郭を、言葉でもって当てはめてもらうことが一つ大きなものである。ただ、ここで終わるのはたやすいことで、漠としたものに漠とした形容詞を載せてしまっても良いのであって、ぱっと現れてぱっと消えていく、まるで花火のようなベストセラーの寸評などほとんどはこの簡便法の虜である。
「何とでも言えるんじゃないの? 作品の感想は人それぞれじゃないか」という声は非常に大きく、感想の抽象性の肯定は、聴く者を簡単に説得させる力をもっているのだが、幻想めいた感想の霧やら霞のような言葉どもとは裏腹に、作品は厳然たる形式を備えたはっきりとした実態である。一般に、性質はどうあれ、強い、忘れ難い感動をもたらす作品というものは、鑑賞者をつかんで離さないもので、われわれは知らない間に作者の世界に連れ込まれてどうしようもない。言葉が見せる幻想は、おそらく一般に考えられているよりもはるかに強烈なのである。幻想が植え付ける漠とした感想と、作品のはっきりとした姿の間を埋めること、これが評論、批評に本来現れるべき分析と呼ばれるものであり、根本的な方法であり、魅力である。
傑作であればあるほど、透徹した目と分析力を求められる傾向にあるのだが、一方で、評論、批評の執筆者は、分析一辺倒の文章が、いかにつまらない証明の羅列であるかを知っている。読者への配慮もなく、遠慮呵責なく分析のメスを振り回す文章にはたまに遭遇するが、目の前に広がっているのは、かつて作品だったものの残骸の羅列で、これでは感動の輪郭とは言い難い。執筆者のサディズムが見られるだけである。学問上、科学上の正確さの犠牲者たる作品は後を絶たない。
曖昧なのはいや、かといって、ホルマリン漬けの標本はダメとくれば、分析を土台とした文学の創造以外に道はなくなる。批評という文学のテーマとは、ある作品を読んでいる読者一般の描写といったところだろうか。
小説の作者にとって、批評家の存在は、細かい、いやらしい、実に不愉快な皮肉に満ちたナンセンスに違いないが、一般に広く読者すら持っているような批評家の存在は、謎めいたものであるように思われるかもしれない。なぜなら、小説作者と読者との関係は、小説を介したやり取りがすべてと考えるからである。読後感は、作者の思った通りに発生し、読者の心にあるはずだと考えるのだ。読者は作者の魔術にかかるに違いない、この考えは作者の創造における自負であり、正当である。まぁ、読後感は作者の思った通りに動くものではないのだけれど。そして、小説の読者は、その小説家の小説を読むためだけに生まれてきたわけではない。読書とは、人生の中の娯楽というカテゴリーの行動の一種であり、小説を読む前には、読もうと思った小説を選んでいるのだし、読んだ後には感動が生まれるもので、その感動を知人に伝えたいこともあるだろう、しかしそれは言うに言われぬ何かであろう。優れた批評文学とは、そういう素直な心の動きを見定めて鎮める働きを持つもので、分析とはそのための分析であって、教養を盾にした悪口ではない。感動の言うに言われぬところに言葉でもって姿を与える無形式の、詩と生理学で武装された告白なのである。批評家も読者の一人なのだ。
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