高慢で辛辣な作文

銀次

雑感(名前を掲げて書くということ、それはペ……)

 名前を掲げて書くということ、それはペンネームでもってしても違和感のあることだということに、名前の全くでないところで書いたことのある人間なら気が付くはずである。書いたことのない人間からしてみれば、責任回避が難しくなったのは、さぞかし不便だろうよ、と思うかもしれないが、そういう段階の話ではない。個人の特定は、内側からすればたやすいことだ。


 SNS全般に言えることかもしれないが、いやなのは、心構えの点で何か不純なところがあるかもしれないというその体制を、あらかじめたてられているというこの感じである。自分に向かって正直になることは、世間に対して正直であることよりも難しいことだ、この自覚が一つ。また、ここでは、何を書いても、例えば、「銀次」という人間から生まれた言葉ということから逃れることはできない。ここでは、何もかも自己表現である。


 自己表現の最も露骨な形式は告白である。形式と言っても、カテゴリーを選ぶものではない。現代においては、書く事そのものが告白のようなものとなっている。界隈でカテゴリーの首領の感があるファンタジーやSFは、世界観というよりもむしろ、作者が所属する党派の宣言以上の物ではないのであって、幻想世界の危険な誘いからは程遠いマニュフェストである。カテゴリーという書割の厳密さは、党派への信仰の程度を外部に示すくらいのものでしかないのだ。世界観の厳密を、他の世界観の駆逐一掃に利用する作者を、私は何人も見てきた。幻想の程度にも偏差値が必要なのだろう。俗物はなにをやらせても俗物である。


 「ここに僕のすべてがある」とは、「僕」を世の中に開放して魅力的であるということを暗黙の前提として筆を走らせている以外に考えようがない。要するに、病的な自己愛以外の何ものでもない。何もかも自分をよく見せようとするきれいごとだし、欠点は何もかも弱さの披瀝で、しかもそれを楽しんでいるのがその実態。誰も目にも明らかな社交上の欠点は、公言せずに黙って強制すればよいのである。そんなことはしたくない、欠点とは、自分が自分である証なのだから。表現とは、不満あるいは傲慢以外に主題を持たないのだろうか。いやなことである。小説に限らず、感想もそうで、例えば、よく話題になる感情移入がどうのという話も、ある登場人物をまるで自分のことのように感じられ、喜び悲しむということなので、厳密には言えば回りくどいナルシズムに他ならない。感情移入とは、ものによっては感情方面の最悪の自慰行為ともいえる代物だ。他人が可愛そうだから泣くのではない、自分が可愛いから泣くのである。


 まぁ、こんなことを書いても、銀次というやつは自分に厳しいということが言いたいのだな、アピールしたいのだな、という風な感想が生まれるのさ。 現代の悲劇あるいは喜劇は、インターネットによって、告白の喜びと苦しみを、かつてない規模で人に知らしめた点にある。

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