第7話 呪術魔法への扉

 魔術研究者マカベウスによる最初の講義は、聞いたこともない言葉から始まった。


 魔術能力者スキエンティア・マギカ――。それが自分のような、魔力を持つ人間のことを指す言葉であることなど、農村育ちのテミスには当然ながら想像もつかない。


 初めから意味不明の用語が出てきたことで、テミスの頭の中は早くもパニック状態。


 ――スキエン……ティア? い、いきなり何言ってんのかわかんないよおお!


 魔術修行がそれほど難しいことだと思っていなかったテミスは、心の中で頭を抱えた。


 まずい。日曜学校で習ったことを、自分はバカだから覚えていないとか――?

 いや、そんなはずはない。魔術に関することを、一神教会の日曜学校が教えるはずがない。


 あれこれ考え、知らず知らずのうちに汗だくになるテミス。その向かいでは、テーブルを挟んで座るマカベウスが、ニヤニヤしながら彼女の反応をうかがっている。


 もしかして今後、難しい専門用語が連発するのではないか。果たして自分についていけるのか。最悪、バカだというのがバレるのではないか――。

 もしそうなったらどうしよう。テミスはどうしようもなく不安になった。


 しかし、知ったかぶりをするのはさらに危険だ。もしそれが露見したら、この変態S中年は何年からかい続けるかわからない。

 ここは、無知をさらけ出してでも、知らないことは告白するしかない――。


「うにゅうう……。し、知らないわよ! だって、教えてもらってない……はずだもん!」


 ぐるぐると目を回し、涙目になって必死に取りつくろうテミスの様子を、面白そうな眼差しで見ていたマカベウスだったが、にわかに背伸びをすると、呑気そうに話を続けた。


「知らないか。まあ、そりゃそうだ。一神教会の中でしか使われてない言葉だからなー♪」


「――うにゃッ?」


 あっさりと質問の意図をバラしたマカベウスを、反射的に椅子から立ったテミスが半泣きで睨みつけた。またしても、このイタズラ好きにからかわれたのだ。


 ――この変態エロ中年野郎……と、歯ぎしりしながら涙目で復仇を誓うテミス。


 それはさておき――。


 マカベウスが言うとおり、魔術能力者スキエンティア・マギカという用語は、生まれつき魔力を持つ人間を指す言葉として、一神教会の魔術研究者が使用しているものだ。

 魔術を忌み嫌う権力者どもが、「悪魔の力を持つ者」とか「闇の一族」などと呼んでいるのと同じものである。


 一般的な人間には、魔力など存在しない。存在していたとしてもごく微少である。

 しかし、数千人にひとりの割合で、その魔力が普通より強い人間が生まれることがある。


 魔術を行使するには、魔力が必要不可欠である。魔力は魔術のエネルギーとなる。

 このエネルギーを体内で生産できる人間が、魔術能力者スキエンティア・マギカなのである。


 魔力というものの正体は、まだよくわかっていない。この時代では、精神力が結晶化したものだという説が一般的だった。

 この当時、魔力を持つ者にしか魔力を視認できないことや、絶対量に個人格差があることなど、そういった不確定な要素を、説明できた者はまだいなかった。


「ま、どうしてこんな話をしたかというとだな。魔術を使える人間は魔術能力者スキエンティア・マギカだけだ、ということが言いたかったのさ」


 テーブルに両肘をつき、組んだ手に顎を乗せた姿勢のマカベウスが、涙目で睨みつけるテミスの無言の抗議を涼やかに無視して、唐突に話を切り出した。

 それを聞いたテミスは、半眼になり、うさん臭そうな眼差しでマカベウスを見返した。


「ええー? だっておじちゃんこの前、貧乏でも勉強すれば、魔法が使えるようになるなんて言ってたじゃないのお。あれは嘘だったって言うの?」


「誰でも、とは言ってないだろ。実際、魔法を使えない人間の方が圧倒的に多いんだぞ?」


「ふええ? そ、そうなの?」


 身を乗り出し、驚いた顔つきでマカベウスを見つめ直すテミス。

 でも、もしそうだとしたら、自分に魔力がない限り、勉強しても無駄だということになる。


 魔術能力者スキエンティア・マギカでなければ、魔術を使うことはできないなんて――。


 魔術が使えなければ、傭兵崩れどもに狙われている村を救うことも、彼らとの戦いの際に自分の身を守ることもできないではないか。

 その事実に愕然としたテミスは、再び涙目になって唇を噛んだ。


 しかしその不安は、マカベウスが得意げに告白した次の言葉で、あっさりと氷解した。


「ああ、でも安心しろ。お前はその魔術能力者スキエンティア・マギカ――つまり、生まれつき魔力を持った人間だ。つまり、わが主に選ばれた人間っていうわけだな」


 そう言って、なぜか自慢げな顔で胸から下げた聖印をつまみ上げるマカベウス。


 一神教の聖印は、かつて老哲学者が「魔の王ベールゼブブ」と相討ちになった際、彼の肉体が消えた後に唯一残された遺品だったという、木製の杖の形をしている。そこに、彼が願った平和の象徴である鳥の翼が両側に生えている、というデザインである。

 マカベウスが銀製の聖印をうやうやしく掲げたとき、それを吊っている鎖が、チャラっという音を立ててこぼれ落ちた。


「えっ――あたし、魔法が使える人なの? 例のその、スキエン……何とかなの?」


 テミスはそう言い、目を丸くしてマカベウスの顔をまじまじと見つめた。

 うなずく彼の顔は、不真面目そうな薄ら笑いのまま。しかしながら、今のところ嘘を言っているようには見えない。


 可哀想なことに、テミスはこの気まぐれからかい男の助手をしているうち、口調以外の顔つきや仕草などから、言っていることが嘘か本当なのかを判別できるようになってしまっていた。

 先ほどの椅子のように、薄暗くてよく見えない場合はまだ難しいのだが……。


「あたしが、魔法使い……。神様に選ばれた人……」


 でも、もしそれが本当なら、魔術で村を守れる。傭兵崩れや逃亡農民のならず者から、家族や近所のみんなを守ってやれるのだ。

 先ほどまで唇を噛んでいたテミスの表情が、一転して明るさを帯びてきた。


「まあ、そう言うこった。でなきゃ、魔術の勉強をしろだなんて言わないだろうが?」


 自分の魔力の存在を知らなかったのか、と意外そうな顔で呟いたマカベウスだったが、コホンと咳払いをして気を取り直すと、テミスが見ている前で、テーブルの上にさまざまな品物を並べはじめた。


「ちょっと何よ。うわ、きったないマント――」


「ほっとけよ。ま、とりあえず今から魔具の実物を見せてやる。よーく見てるんだぞ?」


 マカベウスはそう言いながら、自分が持っていた一神教の聖印をまず左側に置いた。

 引き続いて中央に、折りたたんだこげ茶色のマントと、細長くて短い木の棒を置く。

 そして最後に、黒い表紙の大きな写本を右側にドスンと置いた。


 今までどこに隠していたのか、聖印以外はテミスにとって見慣れない品物ばかりである。


 目の前に並んだ品物とマカベウスの顔を交互に見比べながら、テミスはうさん臭そうな口調でそれらの持ち主に糺した。


「――んで? この汚い本とか棒とかって何なの? 汚いのはおじちゃんの聖印も含めてだけど」


 テミスは頬杖をつきながら、そう言って目の前に並んだ品物をひとつずつ指さす。いかにも怪しげなものを見る目で。


「うぐっ……俺の聖印はちゃんと手入れしてるからピカピカだろうが。俺自身はもう四日くらい水浴びしてねえけど」


「…………おじちゃん、くしゃい」


 ジト目で鼻をつまんだテミスを目にして、やや傷ついて顔をしかめたマカベウスだったが、気を取り直して話を先に進めることにした。


「……いいか。この聖印はな、神聖魔法を使うために必要なんだ。こうやって聖印を掲げてだな、神に祈りを捧げることで、聖なる力を分けてもらうってわけだ」


「へええ。神様はそんな汚くてくしゃい聖印でも、願いを聞いてくださるんだねぇ?」


「……臭いのは余計だっての」


 そう言い返しながら、複雑そうな顔で聖印を天井に向けて掲げるマカベウス。

 薄暗い夜の地下室でも銀色の聖印はよく映え、ロウソクの光に照らされて聖印の端がキラリと輝いた。


 三つの魔術系統のうち、神聖魔法は神の聖なる力に由来するもので、その仲立ちをするのが聖印だとされる。後世になると必ずしも必要とされなくなったが、この当時では必要だと考えられていた。

 ただし、神聖魔法は助祭以上の上級聖職者に叙階しないと伝授されないことになっており、その禁を破って他人に教えた者は、破門される。


 マカベウスは聖印をテーブルに置くと、今度は折りたたんだマントと木の棒を一緒に取り上げた。その拍子にマントが広がり、緋色に染められた裏地が露わになる。


「そんで、このマントと棒は、精霊魔法を使うのに必要な道具だ。マントの内側は赤くなっているんだが、精霊との契約でそう決まっているそうだ。それを着てこの棒を振るうことで、精霊に命令する……ってわけだな」


 そう言いながら、マカベウスはマントの裏地と表地を交互に翻した。この緋色は特殊な染料によって染められているというが、その材料や染色技術は、別の大陸で精霊魔術師のための道具を作っている里にしか、伝わっていないという。


「普段は俺が使っているんだが……どうだ、少し着てみるか?」


 得意げな顔のマカベウスは、持っていたマントをテミスの前に突きだした。しかし、テミスは即座に首を左右に振った。


「やだ。だって、おじちゃんの加齢臭が移っちゃうし?」


「ぐっ……いちいち可愛げのねえガキだぜ」


 テミスの暴言を食らって半眼になり、青色の髪をボリボリと掻きむしったマカベウスは、最後に、右側に置いた大きな写本を持ち上げた。


 黒い装幀の大きな写本は、高価な羊皮紙でできており、表紙には意味不明の紋様が型押ししてある。それ以外の装飾は何もなく、これまでに多くの人の手を渡ってきたためか、四隅がすり切れたりほつれたりもしていた。


「――で、この本は呪術魔法の魔導書グリモワールって呼ばれてるもんだ。必ず使うわけじゃないが、未熟な奴が呪術魔法を使うのを手助けしてくれるんだとさ」


「……だとさ、って何よ? あたしが未熟なのは仕方ないけどさ、おじちゃんは魔術研究者やってるのに、よく知らないの?」


「まあ、話せば長くなるが……。俺は呪術魔法を使えないんだ。教会でそう決まっててな」


 ふーん、と鼻で返事をしながら、テミスは重い写本を両手で持ち上げてみた。ずしりと両手に重みがかかってきたが、持てないほどではない。


 だが、テミスが写本を持ち上げた途端、ずしりとした重みがふっと消え失せた。

 まるでその本が自身の意志により、持ち上げられた瞬間に自分を軽く変化させたかのように。


 ――えっ? これって……何?


 次の瞬間、両腕で持った写本から、得体の知れない力のようなものがテミスの体内に流れ込んできた。

 背筋がゾクゾクするほど心地よく、それでいて流れる水のように透き通った、清冽な感覚――。火山湖のように青く澄み渡ったテミスの瞳の色が、その力を得てさらに輝いた。


 テミスの変化に目ざとく気づいたのか、マカベウスは不敵な笑みを浮かべた。

 彼がテーブルの上にさまざまな道具を並べた理由は、テミスの中に隠された魔術の能力が、三系統の魔術のうちどれに合致するかを見極めることだったのだ。


「そうか……テミス。お前に一番合うのは、呪術魔法だってことで決まり、だな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る