第8話 動き出す陰謀と真実
そんな出来事があった夜の、次の朝――。
エヴァスト聖堂は街の中心、多くの人が行き交う広場の真正面に鎮座している。
休日となれば、敬虔な信者や巡礼者が多数押しかける有名な聖堂だが、平日は高齢の礼拝者が、ちらほら見えるだけである。
そんな古い聖堂の正面を飾る、彫刻だらけで分厚い青銅製の大扉を、小柄なテミスは全身の力を使って押し開いた。錆びついた鉄製の蝶つがいが、ギギギッと軋み音を上げる。
「ううーんっ! うんしょ……っと! ……ふう」
薄暗い礼拝堂の中に、半開きになった大扉の隙間から強い光が差し込んでくる。
その光はまさに神の威光にも見えたが、海沿い特有の湿気もたっぷり含んでいた。
額に手をかざして目を細めたテミスが、午前の陽光を浴びて思わず蒼白になる。
「うええ。も、もうこんな時間――? はうう、寝坊しちゃったよお」
すでに日は高くなっており、広場で開かれていたはずの市場も終わっている。激しい全身運動の後でひと息入れながらも、すっかり寝坊してしまった自分に愕然とするテミス。
昨夜、聖堂の地下にあるマカベウスの研究室で、呪術魔法に関する講義を受けるつもりでいたテミスだったが、深夜だったということもあり、講義も聴かないうちにうつらうつらし出すと食卓に突っ伏し、そのまま眠ってしまったのだった。
魔力を放出して疲れたせいか、眠ったまま朝を通り越してしまったというわけである。
ロウソクや植物油などの照明用具が高価だった時代、人々は夜明けとともに起床し、夜更けとともに床につく。それが常識だったテミスにとって、朝寝坊は考えられないミスである。
「朝寝坊をする悪い子は、死神のおじさんに連れて行かれる」と、誰もが幼い頃から、寝物語に聞かされて育ったものだからだ。
そんなとき、テミスの背後から、死神ならぬ変態のおじさんが、呑気そうな声を上げた。
「ふああ~~っ。ああ、外の空気なんて四日ぶりだな。まったく、太陽が黄色い――」
あくび交じりでマカベウスの口から出た言葉を聞いて、テミスの顔は瞬間的に、耳まで真っ赤になった。
マカベウスは言葉の意味を失念していたのか、何気なく口から出しただけだったが、どういうわけか十二歳のテミスの方が、太陽が黄色いという用語の意味を知っていた。
彼女はその言葉が終わらぬうちに振り向くと、のんびり歩いてきたマカベウスの足を、思いきり蹴りつけた。
「――あ痛てっ。な、何だよいきなり。俺は別に、何もしてねえぞ?」
「バカバカっ。太陽が黄色いだなんて……そんなこと、大勢の前で言わないでよ! この淫乱スケベ中年!」
「…………? おいおい、今度は淫乱スケベかよ。勘弁してくれよ」
憤然として歩き出すテミスの後を、またもや心外な呼称をもらってしまったマカベウスが、額に手を当て、天を仰ぎながら慌てて追いかける。
その様は、親子というよりも、まるで痴話げんかをする恋人同士のようだった。
ヒューリアック大陸の東端に位置する半農半漁の街・エヴァスト――。
この街は、古代、海を挟んで対岸にあった王国に対抗するため、兵営や軍港などの軍事拠点として築かれたという歴史を持っている。
しかしこの当時、すでに対岸の王国は姿を消していただけでなく、ヒューリアック大陸そのものも戦乱続きで弱体化したせいで、かつての軍港都市は忘れられ、単なる漁業と農業の街になっていた。
人口は千五百人ほど。近在の集落からすれば、生産物の集散地として重要な都市といえる。
広場には隔日で市場が立つので、周辺の農産物や海産物が取り引きされる。エヴァストは小さいが商業活動が活発な、どこにでもある街だった。
石畳の街路、両側に建ち並ぶ民家や商家。
通りがかる人々に飲食物を提供する、急ごしらえの屋台――。
特に、揚げた鶏肉や揚げパンなど、街路の両側に出た屋台で売られる食べ物が漂わせる芳香は、空腹のテミスをジグザグ歩行させるのに、十分な威力を持つものだった。
「おい、テミス……。行き先はあっちだぞ。まったく、よだれを拭けよ。みっともない」
ため息まじりにそう言い、保護者づらで見下ろしてくるマカベウスに対し、テミスはお腹を押さえながら身を屈ませた。
――うう、お腹すいたぁ。こうなったら涙目攻撃よっ。
普段、マカベウスは金がないからと言って何も買ってくれない。しかしそれでもテミスは諦めない。涙目で見つめるとたまに買ってくれるときがあるからだ。
どういった思い出があるのか知らないが、下から見上げると、さらに効果が高いらしい。
テミスは涙目になりながらマカベウスを見上げると、彼が着ている白衣の裾を掴み、店頭からおいしそうな匂いを漂わせている屋台を指さした。
「うう~、だって朝ごはんまだなんだもん……。ね、おじちゃん、あれ買って?」
テミスが指さしたのは、巡礼のために訪れる旅人向けに、弁当を売る屋台だった。
揚げた魚を中心に、パンや飲み物などをセットにして売る形態らしい。金のない旅人たちはこれを買い込み、素泊まりの安宿に投宿するのが常になっている。
よく見れば、連れ立った旅人をよく見かける。そろそろ聖祭が始まるらしい。巡礼の時期が迫っているのだ。
「ねえ、お、おじちゃあん……ねえってばぁ」
「…………」
潤んだ目で、両手の人さし指をつんつん突き合わせ、猫のようにマカベウスを見上げ続けるテミス。それを無言で見下ろすマカベウス。街路の真ん中で、両者の根くらべが続く。
やがて、先に降参したのはマカベウスの方だった。
道行く人々が投げかける、鋭い視線が気になりだしたのだ。大人というのはつらい。
「……わかったよ。買ってやるから、そんな目で見上げるのはやめてくれ」
「やった♡ おじちゃんってばやっぱり素敵っ。ダンディーだし、紳士だよね!」
「…………(ませガキめ。まあいいか)」
さっきまでの悪口や涙目はどこへやら。すっかり笑顔になって自分の手を引き、屋台へ連行しようとする十二歳の少女を見下ろし、マカベウスは心底からため息をつくのだった。
そんな賑やかな二人を、道行く人々はわずかな関心を持って周りから見ていたが、やがてそのうちの多くが、興味を失って再び目的地へと歩み去っていく。
彼らにもいそしむべき日常があり、向かうべき目的地があるのだ。
しかし、そのうちふた組だけがその場に残り、それぞれ離れた位置から彼らの動向を見つめていた。
両者は互いに無関係らしく、研究者とその助手を見つめる位置も、相当離れている。
積み上げられたワイン樽の陰から見つめるふたりの男女は、身なりが整い、すらりとした上品そうな美少女と、背が高く、はげ上がった高齢の男性という構成。
特に高齢の男性は、騎士が鎧の下に着る鎖かたびらだけを胸に巻き、刺突用の長い騎士剣を持つという奇異な身なりである。少女の従者をしているらしい。
その一方、商店の建物の陰、裏路地への入口から目標の動静をうかがうのは、一神教の法服を身にまとった中年男性のふたり組。
ひとりはフードから顔を出し、じっと目標を見つめているが、もうひとりはフードをかぶったままで下を向き、しきりにメモ帳に何かを書き込んでいる。
そんなに見つめられているとも知らず、テミスは弁当屋の屋台から二人分の弁当を受け取ると、喜色満面で、マカベウスが着ている白衣の裾を引っ張った。
「ねえおじちゃん、そんなところに突っ立ってないでさあ。あっちの芝生でお弁当食べようよ♪ 外だとおいしいよ、きっと」
買った弁当を早く食べたくて、身体をうずうずさせるテミス。周囲に花が舞っている幻が見えそうなほど、幸せそうに浮き足立っている。
それに対し、マカベウスはその場で黙ったまま、しきりに視線を泳がせて、周囲の雰囲気を探ろうとしていた。
彼は視線に気づいていた。そこで大気中に偏在する精霊を使役し、視線の出所を捜索させているのだ。
当然、テミスが発散するほんわかムードにも、彼女に裾を引かれたことにも気づかない。
――二人と二人、合わせて四人か。まったくしつこい連中だ。
「……むう! おじちゃんってば!」
マカベウスが風の精霊から、視線の元に関する情報を得るのと、ふくれっ面のテミスに足を蹴りつけられるのとは、ほぼ同時だった。
しかも、先ほど聖堂の前で彼女に蹴られた場所と同じだったので、すこぶる痛い。
「――って! 痛ってえ! お前そこ、さっき蹴ったところ……」
「うっさい! おじちゃんこそ、あたしが呼んでるの聞こえなかったのっ? でも、シリアス顔のおじちゃんも、ちょっとカッコよかったけど♡」
ふくれっ面をしたり、頬に手を当てて赤面したりするテミスに足を蹴られたことで、マカベウスはようやくわれに返ることができた。
そして足下に視線を送ると、先ほどまで怒ったり赤面したりしていたテミスが、ツインテールの髪を力なくしおらせながら、お腹を押さえてしゃがみ込んでいるのが目に入った。
「うう、お腹すいたよぉ……。早く食べたいよお」
よほど空腹だったらしい。そんなテミスを見た瞬間、マカベウスは微笑を浮かべた。
そしてマカベウスは心の中で、これは俺の問題だ、こいつを巻き込むわけにはいかないと、以前からの決意を新たにするのだった。
「わかったよ。ここじゃ街中で人目があるから、先に目的地に着いちまおうか」
二人分の弁当を持ち、白衣を翻してきびすを返したマカベウスは、ボサボサの髪を無造作に掻きむしると、テミスを導くように先へと歩き出した。
置いて行かれそうになったテミスが、慌てて彼の足取りを追いかける。
「うにゃ? おじちゃん、目的地ってどこ?」
「――ああ、壊れかけた多神教の神殿跡だ。お前の修行場所に最適だと思うぞ」
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