第5話 禁じ手となった魔術

「――いてて、まったく。ガキの頃からお前は乱暴者だったよなぁ、テミス」


 胸に膝蹴りをお見舞いされた衝撃で吹っ飛ばされ、突入したあげくに散乱した紙屑の中から、マカベウスはホコリを払いながらようやく起き上がった。

 だが所詮、少女の膝蹴りである。当のマカベウスにはたいして堪えていない様子。


「にゃ、にゃによ……。そもそも、心配させたおじちゃんが、悪いんだからねっ?」


 むくれた顔で彼の元気な姿を見て、安堵の表情を浮かべつつも、腰に手を当てながらすかさず突っ込みを入れるテミス。

 先ほどの自分の狼狽ぶりを恥じてか、彼女は赤い顔でそっぽを向くのだった。


「……はは、やっぱり、怒った顔も可愛いね」


 そんな減らず口を臆面もなく吐きながら、のろのろと半笑いで立ち上がった彼の表情からは、先ほど膨大な魔力を噴出させたことなどうかがい知ることはできない。

 しかし同時に、テミスに対する反省の色も、彼の表情からは見いだせないのだった。


「はあー、結局今日も、こうなるのねえ……」


 毎晩繰り返される普段通りのセクハラと、やはり繰り返された軽薄な褒め言葉を前に、深々とため息をつくテミス。

 ここに来るようになってから一か月ほどだが、毎晩欠かさずこのパターンである。


 しかし今夜に限り、マカベウスに食事を運ぶという普段の目的のほかに、テミスには別の来訪目的があった。

 どちらかと言えば、あまり大っぴらに口にはできない用事である。


 これを切り出した瞬間、昨日までのような研究者と助手(単なる世話役だが)という関係は終わってしまうような気が、テミスにはしてならない。

 でも、もう迷っている時間は残されていない。それを恐れていては始まらないのだ。


「恐いけど、でも、今夜こそは……言うよ、あたし!」


 密かに決意を新たにしたテミスは、のろのろと紙屑を片付けるマカベウスを背後から睨みつけ、ぎゅっと握りこぶしを固めた。


『――あたしに、魔術を教えてほしいの!』


 それが今夜、テミスがマカベウスにぶつけようと決意した、強い願いである。


 この時代、魔術を行使することはもちろん、研究したり修行したりすることも禁じられていた。その禁を破った瞬間、たちまち犯罪者扱いされて行き場を失う。

 ゆえに、魔術を習うことは犯罪だからと、にべもなく断られるかもしれない。でも、今夜切り出さなければ、間に合わない事情があるのだ。


 ――今日から習わないと、あたしの村が……。村があいつらに……!


 焦燥感が迫ってくる。でも、断られたら負けである。迫りくる緊張をほぐそうと、テミスは上を向いて深く呼吸をしてみた。


 魔術を習おうと思ったのは、少し前からである。ずっと、いつ言い出そうか迷っていたが、今までそれが切り出せなかったのは、世間一般の魔術に対する警戒感が尋常なものではないことを、農民の娘でしかないテミスでもよく知っているからだった。


 この時代、魔術を使用したり研究したりする人間が、罪に問われたのはなぜか。

 五年ほど前、この大陸で起こった戦争で、魔術が兵器として使用されたのがきっかけだった。


 戦争そのものは、ささいな儀礼上の問題から来る、貴族間のつまらない小競り合いから始まった。

 だが、ある小規模な野戦で、初めて魔術が兵器として扱われてから、おかしくなったのだという。


 魔術の力によって大地は砂漠化し、森林が消失し、多くの街や村が壊滅した。

 戦争に敗れた方の貴族領では、半分近くの土地が人の住めない環境に変えられてしまったという。


 いくら豪華な剣や鎧で武装しようが、いくら堅固な城壁を造り上げようが、魔術がもたらす圧倒的な威力を前にしては、既存の武力など蟷螂の斧も同然である。

 魔術の存在は、騎士が正々堂々と渡り合い、兵士たちがぶつかり合って勝敗を決するという伝統的な従来の戦争を、後戻りできないほどに変えてしまったのだ。


 そして為政者たちがもっとも我慢できなかったのは、魔術を行使して戦場を荒廃させたのが、魔導師として見いだされ、速成された農民出身の下級兵士たちだったということだ。


 多くの王族や貴族にとって、戦争は男の見せ場であり、戦場は立身出世の地である。


 それなのに、王侯貴族でも何でもない、魔力という特殊な能力を有するというだけの下級兵士にお株を奪われたとあっては、沽券にかかわる。

 いやそれ以上に、多くの貴族が拠って立つ、権力の基盤を失うことに等しいのだ。


 戦争の終結後に成立した「大ヒューリアック王国」は、すぐさま、魔術の使用を禁止する声明を発表――。


 その犠牲となったのは、哀れにも権力者によって魔導師にされた、下級兵士たち。

 彼らは捕らえられ、見せしめのために公開処刑されただけでなく、一般にも広まろうとしていた魔術研究までも、取り締まりによって徹底的に根絶やしにされた。


 ところが、いくら取り締まりが厳しくなっても、魔術の研究と習得は隠れた場所で細々と続けられたという。

 搾取され、虐げられる下層民であっても、魔術さえあれば強い力を手にできる――。それが、危険を冒してでも研究を続ける理由だった。


 そしてテミスが魔術の力に頼ろうとする理由――。それもまた、弱き者の最後の悪あがきに似ていた。


 戦争の終結とともに解雇され、帰る場所もなくなった傭兵崩れ。それらが夜盗となり、街の周辺を根城に追いはぎなどをして食いつないでいたが、近ごろの不作で小作地から逃亡した農民がそこに合流したため、大きな勢力となって、近在の村々を襲いはじめたのである。


 ――こんなあたしも力を手にできるなら、魔術を覚えたい。パパやママだけじゃなく村のみんなを、あいつらから守りたい!


 テミスはそんな決意に満ちた眼差しで、マカベウスの後ろ姿を強く見つめた。


 しかし、見つめられた方のマカベウスはそんな視線を知ってか知らずか、気楽な鼻歌まじりで食事用のテーブルを出すと、テミスが持ってきたパンやワイン、チーズなどを食卓に並べていく。

 普段は家事など何もしないマカベウスだが、食事の前だけは妙に機嫌がよく、気が向けば手伝うこともある。


 そんなマカベウスの後ろ姿が、ふと、夜盗へと身を落とした傭兵崩れたちの姿と重なった。


 ――でも魔術って、あの恐ろしい「魔導災害マギカエ・クラーデ」の原因なんだよね……? こんなあたしが使って、本当にいいのかなあ……?


 夜盗でも人間である。そんな相手に魔術などをぶつけたら、怪我どころでは済まないかもしれない。

 もしかしたら自分は、とてつもなく恐ろしいことを習おうとしているのかもしれない……。そんな考えが頭をもたげるたび、弱気な葛藤がテミスの行動を縛るのだった。


 やがて食卓をこしらえたマカベウスが、複雑そうな顔つきで熱視線を送り続けるテミスに気づき、いぶかしそうな目で眺めながらも、のんびりした声で呼びかけてきた。


「おーい、テミス。そんなところに突っ立ってないで、メシにしようや」


「あ……。うん」


 向こうから声をかけられ、われに返ったテミスは、足元に散乱するゴミをかき分けながら食卓に向かった。


 地下室の奥にあるささやかな厨房から、いい香りが漂ってくる。

 テミスが昨日、作り置きしていったスープに火がかけられ、煮えているらしい。


 そして目の前の食卓でも、火鉢の上に土器のポットが置かれ、茶葉は少ないながらも紅茶のいい香りが漂っている。

 火鉢の炭火は、魔術を使って起こしたものらしい。魔術は兵器として恐れられたが、こうした便利な使い方もあるのだ。


 ――魔術で藁焼きの火をおこしたり、水を撒いたりできたら、畑仕事が楽になるなぁ。


 ぼんやりとそう考えながら、よく見ると、食卓の周りにだけはゴミがない。マカベウスはだらしのない変態S中年ではあるが、テーブル周りにはこだわる男のようだ。


 食卓の椅子にたどり着いたテミスだったが、今度こそは引っかかるまいと、いつでも逃げられるようなへっぴり腰になりながら、革張りの座面を触って入念に調べる。

 しかし今度は、さすがに氷の膜も、針の山も仕掛けられていなかった。


「何だよ、信用ないなあ。さすがにもう何もしないって。……さっきは悪かったな」


 そんなテミスを見たマカベウスが、困ったような表情で後頭部をポリポリ掻きながら、素直に詫びを入れてきた。

 驚いたテミスは、「はい?」と言いつつも、二度マカベウスの顔を見返してしまった。


 無精ヒゲが生え、痩せこけただらしない顔つきだが、整った容貌が困った様子になるのはまるで叱られた老犬そのものであり、何だか守ってやりたい衝動に駆られる。マカベウスの顔には、そんな魅力もあった。

 それを、まともに二度も見てしまい、真っ赤になったテミスが慌てて下を向く。


「おじちゃんが信用ないのは、日頃の行いのせいでしょ……ばか」


 何とかそれだけは口にしたものの、ぼそぼそと言うばかりでうつむき、顔を上げようとしないテミス。それでも、憎まれ口だけは忘れない。


「何だよ、テミス……? 変な奴だなあ」


 急にしおらしくなり、もじもじと下を向いてしまったテミスを、変なものでも見るような目でしばらく眺めていたマカベウスだったが、その次の瞬間――。


 ――きゅるるるるぅ~~。


 朝から何も食べていなかったためか、あまりの空腹で、マカベウスのお腹が切なそうな声を上げたのだった。


「うっ……。『絶対零度のアイスバーグ・オブ・ジ・偉大なるアブソリュート・ゼロ氷壁』・ポイントの翻訳に入れ込みすぎて、メシを忘れてたからかな……」


 その音と声に驚いたテミスが顔を上げると、目の前には少し赤くなった、ちょいワル中年の顔があった。しかめっ面をして、失敗を悔いるような表情で黙りこくっている。


「――ぷっ。くくっ。にゃははっ……」


 切ない腹の虫の音を耳にし、マカベウスのゆがんだ顔を目にしたテミスは、少し我慢はしたものの、こらえきれずに笑い声を上げてしまった。

 赤くなって頬を膨らませ、涙目になって必死に笑いをこらえているテミスを見たマカベウスも、ようやくホッとした表情になった。


 そして二人が向かい合うように食卓に着くと、さっそく食事が始まる。


「ああ、腹減った。よーし、メシだメシ。これを食ったら、俺はもう寝るからなー」


「えー? 食べてからすぐ寝ると豚になるって、チェケム爺さんが言ってたよぉー?」


「豚か。ああむしろ本望だね。クーリアのおばさん、いつもワインありがとうございます!」


 マカベウスは呑気そうな声でワインの瓶に手を合わせ、その作り手に形ばかりの感謝をすると、テミスのお節介は聞き流しながら、自分の側に置いてある木製のコップに、瓶から紫色の液体をなみなみと注ぎ込んだ。


 それを見たテミスはため息をつくと、気を取り直して、自分用として書棚に備えつけてある陶器のカップを持ちだし、そこに貴重な砂糖を少しつまんで、土器のポットからぬるめのお湯を注いだ。

 未成年であるという以前に、テミスはアルコールがまったくダメなのだった。


「――はい、おじちゃんスープ。チーズも、そろそろ焼けるよ?」


「おお、うまそう。お前はちっこいくせに、料理の腕前だけはすごいな」


 木製の皿に盛られたスープを受け取ったマカベウスは、毎度のことながら今回も感嘆の声を上げた。


 キャベツとタマネギを干し肉と一緒に煮込み、塩を少量入れただけのスープ。だが野菜の甘みと、干し肉から染み出るうまみが、付け合わせの黒パンにとてもよく合う。

 脱穀と製粉の技術が未熟な時代、庶民が食べるパンはすべて黒パンだったが、そこに溶けたチーズを乗せ、蜂蜜を塗って食べると、これまた絶品の料理になる。


「……ちっこくないもん。料理の腕前だけじゃないもん。むにゅう」


 乙女心がわかっていないマカベウスの言葉に、不満そうに頬を膨らませたテミスだったが、それをよそに、マカベウスはおいしそうにパンとスープを平らげていく。

 日に一度の食事をもらった老犬が餌にむしゃぶりつくようで、どこかいじらしい。


「…………(キュン)」


 今すぐ「おーよしよし」と言って頭を撫でてやりたい衝動を必死に抑えつけながら、自分の手料理をうまそうに食べるマカベウスを、萌える目で見つめるテミス。

 しかしその一方で、魔術を教えてほしいという希望を早く告白したい――それが彼女の頭の片隅をしきりに突っついてくる。


 ――おじちゃんはもう寝るって言ってたし、い、今のうちに言わなきゃ。あわわわ……。


 しかしよく考えてみれば、マカベウスという男は「もう寝る」と宣言しておきながら、何か着想があると急に決意を曲げて「俺が寝るなんていつ言った?」とうそぶいて再び机に向かうという、典型的な気まぐれ人間だった気がする。焦っては負けだ。


 そうなれば、もうこちらのものだ。子猫のように彼の背中にくっついて、「ねえー、おじちゃん、魔術を教えてくれないかにゃあ?」……とでも擦り寄れば、マカベウスはイチコロ……のはずである。


 それまでは、平常心――。テミスは落ち着いた表情でチーズとパンを食べ終え、飲み終えてから熱めに淹れ直したカップの紅茶を、静かにすする。

 そんなテミスの心情を知ってか知らずか、マカベウスが熱で溶けようとするチーズをハフハフさせながら、何気ない顔で尋ねてきた。


「それでさあ、テミス。お前……魔術を勉強してみる気はないか?」


「――ぶふぉッ?」


 それを耳にした途端、テミスは思いきり、マカベウスの顔面に口の中の紅茶を吹きかけてしまった。

 どうやって切り出そうかと思っていたことを、思いがけず向こうから先に言われてしまったせいだ。


「うわッ! あ、あっちい! な、何すんだよお前っ――」


 すました表情だったはずのテミスが起こした、突発的な行動に、驚いて思わずのけ反るマカベウス。

 しかし次の瞬間には、テーブルを乗り越えてきたテミスが、彼の胸ぐらを小さな手で力強く掴んでいた。


 魔術を教えてもらえる――。

 もうそれだけで、テミスの心は喜びに躍り上がっていたのだ。


「おじちゃんっ! それ、ホントっ? やるやる! あたし、魔術の勉強するうっ!」


 光り輝かんばかりの笑顔で、マカベウスを椅子から押し倒そうとするテミスの瞳には、期待感にあふれた、淡黄色の燐光が炯々と揺れていた。

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