第4話 隠された「魔力」

 前後左右をふぞろいな切石で囲まれた、ひんやりとした地下室――。

 ここが、自称「高名な魔術研究者」マカベウス・フェランの研究室であった。


 神学をはじめとした雑多な写本、食べ散らかされた食器、そして放置された巻紙の山。

 分厚い書籍は書棚に収まりきらず、溢れた分は無造作に床へと積み上げられている。


「さあ……ようこそお嬢さん。私の神秘的で、素晴らしい研究室へ」


 マカベウスの芝居がかった仰々しさは、まだ続いていたらしい。テミスは深々とため息をついて、周囲を見回しながら言う。


「……あたし、昨日も来たでしょ。それにあの時ちゃんと片付けたはずなのに、もう元のように散らかってるし……。バカ中年」


 そんな室内の状況はといえば、どの大陸でもどの時代でも、およそ「研究室」と称する場所とそれほど大差はないだろうと思われる。

 要するに研究者という人種が、整理整頓という能力に著しく欠けているということはどこでも共通しているという意味で、である。


 それでいて、ロウソクが一本だけ灯る机の上だけはきれいに整えられていて、今も巻紙状に切りそろえられた羊皮紙へ、ロウソクの光を頼りに何か手紙を書こうとしていたところらしい。

 無造作にインクつぼへ投げ込まれたペンの美しい羽根が、ロウソクの火に照らされて七色に光っていた。


 部屋の中央には一応、接待用のテーブルと椅子がある。だが、ここも恐ろしく散らかっていて、他人を接待できるような状態ではない。


 部屋の端には、マカベウスが普段座っている革張りの椅子があるのだが、あちこち破損している。


 そもそも上等とは言えない椅子。だがマカベウスは気に入っているらしく、テミスが捨てようとすると怒る。

 新しくしようにも、散らかっていて新たな椅子を運び込むのが面倒だからなのかもしれないが。


 どこからどう見ても、健全な男子の居場所とは思えない場所――こここそが、特別に聖堂の地下に住むことを許されたエヴァスト教区助祭、マカベウス・フェランの研究室、兼、住まいなのだった。


「パンにチーズと蜂蜜、そしてワインね。いつもみたいに、ここに置くから――」


 大事そうに持ってきた食事入りの手かごを置くため、接待用のテーブルまで移動しようとしたテミスだったが――。


「――あ、あにゃっ?」


 いきなり何かを踏んづけたのか、変な悲鳴を上げた。


 足の踏み場もない――その表現が限りなくマッチするほど紙片で埋め尽くされた研究室の中。


 それでもようやく足探りで床を探し出したテミスは、難しい顔になると、片手でスカートを持ち上げながら、慎重に接待用テーブルへと踏み込んでいった。

 何か貴重な古代遺物でも埋まっていて、それを踏みつけるのではないか……そんな恐怖のためである。テミスの顔は青ざめ、頬も引きつってきた。


「何だよテミス、お前らしくもない。もっと堂々としたらどう――」


「――おじちゃんがいつも散らかすからでしょおっ? 片付けなさいよ、バカ!」


 面倒くさそうに頭をボリボリと掻くマカベウスに、脊髄反射の速度で突っ込むテミス。

 ふた言めに必ず「バカ」がつく。テミスはもう十二歳、そんなお年頃である。


 親子ほどに年齢が離れている両者。その二人のやり取りは、遠くからだと親子そのものに見えるだろう。

 だが、この二人には血縁関係がない。テミスの親とマカベウスとが、知り合い関係なのだ。


 そしてその親の差し金からか、貧しい農家の娘でしかないテミスは、成り行き上この中年魔術研究者の助手として、以前から彼の世話をしているのだった。


 助手と言っても、こうして食事を運んだり、掃除をしたり、研究室が散らかっていることに突っ込みを入れたりする程度なので、マカベウスの研究内容について、彼女が口を出すことはほとんどない。

 ただ、研究対象が「魔術」であることだけは、テミスにも何となく分かっていた。


 ――と、いうわけで、そんなやり取りはいつものこと。マカベウスは面倒くさそうに半眼になると、「へいへい」と言いつつ、青色の髪を痒そうにボリボリ掻きむしりながら、のろのろと片付けを始めるのだった。


「……わかれば、いいのよ」


 まるで山奥で修行している修道士ででもあるかのように、無精ヒゲが伸び放題になっているマカベウスの顔を、その場でチラリと見るテミス。


 マカベウスの顔が案外ハンサムな方であり、年の割に若く見えるからだ。

 青色の髪は聖職者らしく、首のあたりできちんと刈り上げられているが、欠点といえば、その髪がボサボサであることくらいだ。


 ――でも、またそれがいい。テミスは頬を染め、密かにチラチラと盗み見する。


 それにも気づかず、バツが悪そうに片付けていたマカベウスだったが、テミスが手かごを持ったまま立っているのに気がつくと、のろのろとした動作ながらも彼女のために、接待用の椅子を出してやるのだった。


「あー、気が利かんで悪かったな。ほれ、椅子を出してやるから、座って休め」


「……あ、ありがと」


 そう礼を言ったテミスだったが、出された椅子を目にした途端、疑いの眼差しになり、その椅子に異常がないか、慎重に確認しようと鋭い目を走らせた。

 だが、ロウソクの照明しかない室内は暗くて、異常があってもよくわからなかった。


 なぜテミスがこれほど慎重になるのか――。


 それは、このマカベウスという中年研究者が、妙にイタズラ好きだからだ。

 特に、妙に優しかったり機嫌を取ってきたりするときは、決まって何かを企んでいる。


 だがこの時代、太陽にまさる照明など、そう多くはない。

 目の前で申し訳なさそうに椅子を差し出すこの中年男が何を企んでいるのか、地下室ではロウソクの照明以外に知るすべがないのがうらめしい。


 しかし今回だけは、彼の態度はいつもと違って真摯で、散らかった室内と乙女に対する配慮の足りなさを、素直に反省しているようにも見えるから不思議である。

 何度騙されようとも、そう思ってしまうのがテミスという少女なのである。


 こんなに反省しているんだから、あたしも許してあげようかな――。

 そう考え直したテミスは、素直にその好意に甘えることにした。


「……じゃ、お言葉に甘えて。よいしょ――」


 それでも十分警戒しながら、出された椅子に、慎重に座ってみるテミス。だが……。


「――ひゃうんっ?」


 残念ながら――今日の椅子も罠だった。


 椅子に座った途端にお尻に感じた、凍りつくような冷たさ。

 それに驚いたテミスは、思わず悲鳴を上げると、その場で飛び上がってしまった。


 その拍子に、散らかった室内を転げ回ったあげく、あられもない姿まで見せてしまったテミスの様子を、犯人である中年男はニヤニヤと眺めるばかり。


 よく見ると、破れた革張りの椅子の表面には、見えないように薄い氷の膜ができていた。


 マカベウスが古代の魔導書から探し出し、現代語に翻訳したばかりの精霊魔法「絶対零度のアイスバーグ・オブ・ジ・偉大なるアブソリュート・ゼロ氷壁」・ポイントを、密かに仕込んでおいたのだ。


「よし、成功成功。うまく発動したな。これで、俺の翻訳が正しかったことが証明されたわけだ」


 得々とした表情で、顎をしゃくりあげるマカベウス。

 一方のテミスは、涙目になって、この恥知らずな男の顔を下から睨め上げた。


 ――今日という今日は、絶対許さない!


 深くそう決意したテミスは、身体をブルブルと震わせながらゆらりと起き上がり、服についたホコリをゆっくりと払った。

 うつむき加減なので、彼女の顔は褐色の髪に隠れたまま見えない。


「こ、こ、この、セクハラ中年……よ、よくも……」


 うつむき加減のまま肩をつり上げ、握りこぶしを作って、静かに怒りの強度を上げていくテミス。


 普段は即座に怒りを大爆発させ、ギャーギャー騒ぐのだが、「そこもまた可愛い」とマカベウスに丸め込まれるのが常なので、今回はもっと怒りの威力を上げようと思ったのだ。

 そしてその試みは、テミスが思ったよりも功を奏したらしかった。


「…………(ゴクリ)」


 いつもとは違うテミスの様子に、どこかそら恐ろしさを感じ、固唾を呑むマカベウス。

 だが彼は、テミスの様子を観察しながら、あることにも気づいていた。


「……ん? こりゃあ、もしかして?」


 マカベウスがテミスの背後に感じ取ったのは、乙女の怒りだけではなかった。非常に濃密な雰囲気ともいえる、顔を突っ込めばたちまち息が詰まりそうな赤い気体が、テミスの背中から湯気のように立ちのぼっているのが見えたのだ。

 そしてそれは、テミスと同じ能力を持つマカベウスだからこそ、見ることのできる気体でもあった。


「何だ、そうだったのか。俺としたことが、つい今まで気づかなかったとはねぇ」


 それでもあいかわらず飄々とした態度で、テミスの背後に燃え立つ赤い気体を眺めてそう言ったマカベウスだったが、ふと何かを決意したのか、青色の髪をボリボリ掻きながらため息をつくと、億劫そうに椅子から腰を上げた。


「……?」


 それを感じ取ったテミスは、怪訝そうな顔でマカベウスの方に視線を移した。彼が何かを始めようとしているのが感じられたからだ。

 その証拠に、椅子から立ち上がったマカベウスの表情には、いつもの彼が発散する、どこか気だるい雰囲気が見られない。


 マカベウスは何を始めようとしているのか――。ぐるぐると思考をめぐらせるテミス。

 やがて、自分に都合のいい結論を導き出した。


 ――もしかして、今までのセクハラ行為を謝ってくれる、とかっ?


 すっかりそう思い込んだテミスは、たちまちぱっと表情を明るくした。

 ついでに、普段から世話していることを感謝してくれるのかもしれない――とも思った。


 しかし当然ながら、テミスが考えた結論と、現実とは違っていた。


 マカベウスはその場に立ったまま、少し歩幅を広げると、手をぶらつかせて腰を落とし、踏ん張るように重心を低く構えたのだ。

 想像の斜め上を行くマカベウスの行動に、テミスは首をかしげるばかり。


「まさかお前に、俺と同じ力があったとはな。お前がここに来るようになってひと月くらい経つが、まったく気がつかなかった。その力はな、『魔力』と呼ばれているものだ」


「……魔力? おじちゃんと同じ力……?」


「いい機会だ。いいかテミス――。本当の魔力のすごさを、今から俺が見せてやる!」


 マカベウスがそう叫んだ瞬間、彼の背後からもテミスと同様、いやそれ以上の勢いで、ゴウッという音とともに、赤い蒸気のような気体が湧き上がった。

 だが、その気体は非常に密度が高い。テミスの背後に見えたものと同じものだが、濃さにおいては比較にもならない。


 そして、彼の背後から生まれ出たはずの赤黒い気体は、またたく間にマカベウス自身の身体を覆い隠し、そのまま彼を飲み込んでしまった――かのように見えた。


 マカベウスの身体を覆い隠すほどの赤黒い気体は、湧き上がるというよりも、噴き上がったと形容するべきもの。

 その濃密さは向こうが透けて見えないほどであり、もはや気体ではなく固体である。


「お、お、おじちゃんっ……!」


 テミスは驚愕のあまり目を剥いた。室内を覆った赤黒い気体に、マカベウスが為すすべもなく飲み込まれてしまったのだ。

 そしてまた、マカベウスを襲った噴水状の怪物が彼を喰らっただけでは物足りず、自分の方にまで襲いかかってくるかのように、テミスには思えた。


 思った通り、赤黒い怪物は、徐々にテミスの方へと迫ってくる。それを目の当たりにしたテミスの全身から、怯えと恐怖がこみ上げてきた。

 手が震える。膝がガクガクする。でも、マカベウスの安否も気になる。テミスの喉がカラカラになってきた。


「お、おじちゃん、あたしが、今……」


 飲み込まれたマカベウスを、すぐに助けなければならない。

 テミスは涙目になりながら勇気を振りしぼり、マカベウスの方に手を伸ばそうとするが、赤黒い噴水状の怪物は、動きを止めることなくこちらの方に迫ってくる。


「おじちゃ……う……、うにゃあああッ!」


 恐怖に囚われてしまったテミスは、思わず自分の身体を抱きしめて悲鳴を上げ、目尻に涙を溜めながらその場にうずくまった。

 ツインテールの髪はおろか全身の毛が、恐怖のせいで猫のように逆立っている。


 まさか、こんなことになるとは思わなかった。マカベウスは急に出てきた魔物に食べられてしまって、その魔物が今から、自分も食べようとしているのかもしれないのだ。

 もう一度勇気を振りしぼって、この場から逃げ出すこともできる。だが残念なのは、マカベウスが魔物に食べられてしまったことだ。


 だらしなくて変態で、その上Sっ気もあるイタズラ好きのダメ中年だが、ちょっとイケメンでダンディーなところもある大好きなおじちゃんが、もう二度と帰ってこないのかと思うと、テミスは死ぬほど悔しくて寂しかった。


 しかしそこへ、目をギュッと閉じた彼女をあざ笑うかのような飄々とした声が、のんびりと聞こえてきた。


「ふー、さすがに疲れたぜ。こんなに放出したのは半年ぶりかねぇ」


 テミスはハッとして目を開け、蒼白な顔で目尻に涙を溜めたまま、声がした方を振り向くと、そこにはあいかわらず呑気にボサボサ頭を掻きむしる、マカベウスの無事な姿があった。

 少し疲れた様子ではあるが、どこにも怪我はない。普段通りのマカベウスである。


「お、お、おじちゃん! ぶ、無事だったの――?」


 恐怖から解放され、安堵感でいっぱいになったテミスが思わず駆け寄ろうとすると、彼女の恐怖感を理解したらしいマカベウスはイタズラっぽい表情を浮かべた。


「ん? テミス、お前、俺の魔力が怪物にでも見えたのか? ははは、まったく、ガキの時と変わらないくらい、お前は臆病――」


 からかい気味に、そしてさりげなく自慢げにそう言うマカベウスだったが、その自慢を最後まで続けることはできなかった。

 うずくまった状態から、驚くべき跳躍力で矢のように放たれたテミス渾身の跳び蹴りが、彼の胸元にヒットしたからだ。


「――ぐほおッ?」


「バカあっ! 心配したんだからあ! この変態S中年! 死んじゃえーーーッ!」


 まともに跳び蹴りを食らって悶絶するマカベウスの声と、真っ赤になって涙を振り払うテミスの元気な絶叫が、人知れず地下室に響きわたったのだった。

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