第1章 魔術の神秘

第3話 秘められた地下の研究室

 ――静かで、誰ひとり訪れることのない、石造りの地下室。


 らせん構造をなして地下へと降りていく階段――その突き当たりにある壁には、使い古された木製のドアがきっちりとはまっている。

 粗末なそのドアには、ただひと言「許可なく立ち入るべからず」の文句が書きつけられた看板が、所在なげにぶら下がっていた。


 湿気と地下水のせいで、ぬらぬらと湿った石の階段。

 石造りの壁には、錆びついた金具が連続して付いている。照明のために絶えずかがり火を焚いていた、当時の痕跡なのだろう。


 そんな足下の悪い階段を、慎重に一歩ずつ降りていく人影があった。

 子どものような身長の人影は、褐色をした革のフードを頭からすっぽりかぶっている。


「うんしょ、うんしょ……」


 その人影は、湿気に濡れた石壁に左手をつきながら、ランプを右手でぎゅっと握りしめ、籐を編んで作られた手かごだけは落とさないように、右肘のあたりにぶら下げている。

 その歩みは、右足を慎重に一歩降ろし、左足を降ろしてから再び右足で次の段へと降りていく……そんな遅々としたもの。人影の背が低いのに対し、石段が異常に高いのだ。


 のろのろと石段を降りていく人影は、終点が見えた途端、気が緩んだのか大声で不満を爆発させた。


「まったくぅ! どうしておじちゃんは、こんなところに一人で住みついてるのおっ?」


 その言葉を、今日までに何度叫んだことだろう。それを考えることすらバカバカしい。


 足がつるのではないかと思うほどの慎重さと、これでもかというほどのへっぴり腰で階段を降りる速度は、目的地が見えてもそれほど変わらない。

 だが目的地を目の前にして、ようやく安心したのか、その人影は頭をすっぽりと覆ったフードの中で、頬を膨らませてぶつぶつと文句を垂れるのだった。


「毎晩こんなところに来なくちゃいけない……あたしの身にも、なりなさいよねっ……ぶつぶつ」


 そこまで文句を垂れた時、明らかにサイズオーバーである革のブーツに、地下水が容赦なく染みこんできた。


「あー! もう、冷たいッ! ブーツが台無しじゃん! お気に入りだったのにぃ!」


 誰に言うともなく、そんな独りごとをいまいましげに叫んだ人影は、それを契機に頭を覆っていたフードごと、着ていたローブを憤然と剥ぎ取り、みずから顔をあらわにした。


 それはまだ十代前半にしか見えない、小柄な少女の顔――。


 そしてフードを剥ぎ取った瞬間、こぼれるように振り乱された、明るい褐色の髪。

 それをツインテールにまとめているが、背中にまで達するほどの長さがある。


 今しがたまでローブに覆われていた身体には、農家の娘そのものと言える、木綿の粗末な上衣に膝丈のスカートを身につけている。

 農作業用らしい、革製のエプロンも着けたまま。毎晩、農作業の帰りにここに寄る日課なのだろう。


 ツインテールに結んだ少女の髪は、目が覚めるような赤色のリボンで留めている。それ以外の装飾は何もない。

 そばかすやにきびが残る彼女の顔には、まだ幼かった頃の面影が残っている。その容貌こそ十代前半らしい童顔だが、整った目鼻立ちと均整のとれた顔立ちは、間違いなく美少女の部類に入る。


 そして、丸くて大きな彼女の瞳は、鉱物の色を溶かし込んだ水をたたえる火山湖のような、清冽な青緑色。


 ウォーターサファイアの色にも似たその瞳の奥には、ろうそくの炎が燃えるような、黄色の燐光が絶えずゆらめいている。

 その明滅する神秘的な輝きは、彼女の意志の強さを象徴しているかのようでもある。


 そんな光り輝く彼女の瞳の前に立ちはだかるのは、「許可なく立ち入るべからず」の看板。


 粗末な木の板に、黒のインクで書き殴られたその文字を、少女はいまいましげに睨み上げた。彼女の身長では、どうしても睨み上げる姿勢になってしまうのだ。


 そして、そんな彼女が次に起こした行動は、無言で立ちはだかるドア越しに、目指す地下室の住人を怒鳴りつけることだった。


「おいこら、おじちゃん! あたしだよ! 地下室に引きこもるなって、いつも言ってるでしょ!」


 今にもドアを蹴飛ばすのではないかと思うほどの姿勢で、少女は一気にまくし立てる。


 あれほど大事そうに持ってきたランプの火が、今にも消えそうになっている。ところが、目的地に着いたのでどうでもよくなったらしい。

 しかし、右肘にぶら下げた籐の手かごだけは、相変わらず腕に掛けたまま、落ちないようにしている。これを届けるのが、彼女の目的なのだ。


「…………」


 ところが、怒鳴りつけてからしばらく経つのに、ドアの向こうからの反応がない。

 天井からしたたり落ちるしずくの音だけが、狭いらせん階段に寂しく響く。


「おーい、おじちゃん……。返事は?」


 反応がないことをいぶかしむ少女が、眉をひそめながら不安そうに呼びかけた。

 いつもはすぐに「へーい」という返事が来るものなのに、今夜に限って無反応なのは、一体どういうわけなのか――?


 普段と違う。これは明らかにおかしい。少女は青くなって慌てた。


「――まさか、食べ物がなくて倒れてるとか? こ、こ、孤独死とかっ?」


 眼前に突きつけられた思いがけぬ展開に、少女は顔面蒼白になりつつ両手で顔を覆う。


 誰もが貧しく、飢えに苦しんでいた時代――。人知れず野山や原野で行き倒れになる村人が年に何人か出るほど、辺境の農村を取り巻く環境は厳しいものだった。

 そんな状況だからこそ、孤独な餓死は十分考えられる、最悪のケースといえる。


 相手は眠っているのかもしれない。単に用便中なのかもしれない。そんなことは、冷静になって考えれば誰でもわかることだ。

 しかし、すでに最悪の結果を脳内で導き出してしまった少女は、頬を手で覆い、おろおろと取り乱しながらも、次になすべき行動はひとつしか思いつかなかった。


「こ、こうなったら――蹴破ってでも入って、あたしがおじちゃんを助けるっ!」


 こうと決めたら、何としてでも行動する。それが彼女の数少ない取り柄だが、数多い欠点のひとつでもある。

 その旺盛すぎる行動力のために、これまでにどれだけ、損した思いをしてきたことか。


 だが使命感に燃える彼女に、そんなことはもう関係ない。異常なほどの決意を宿した少女の瞳が、ランプの光を反射して妖しげに光り輝いた。


 目の前の邪魔なドアは、蹴破ってでも入る――。

 そう決意した彼女は、次の刹那、すでに右足を振り上げていた。


 振り上げた華奢な右足。スカートがいくらめくれ上がろうとも、ドアを蹴破ろうとする彼女にとって、それはもはや何の障害にもならないらしい。


「待ってて、おじちゃん! 今、あたしがドアを開けて、助けてあげるからっ――!」


 大事なものが入った手かごを持ったまま、少女が片足立ちになり、その右足に力を入れようとしたその時――。


 ――ガチャ。


 急にドアが開いた。


「――うるせえな。まったく、落ち着いて手紙も書けやしねえ」


 そう文句を言いつつ、内側からドアを開いて現れたのは、よれよれの白衣を着た、ボサボサ頭の中年男性。

 一見して研究者だが、どうにも風采が上がらない。


 伸び放題の無精ヒゲに、やつれた顔つき。よれよれの白衣。

 それでも聖職者として定められた聖印だけは、しっかりと首から下げている。ゆえに聖職者に間違いはないのだが、どう見ても聖職者とは思えない、冴えない風貌。


 いきなり扉を開けた男は、ボサボサに乱れた青色の髪をボリボリ掻きむしりながら、今にも足を振り上げ、ドアを蹴ろうとしている少女を迷惑そうな顔で見下ろした。


「……ちょっと待て、テミス。俺は生きてる。孤独死とはひでえな」


「えっ……うにゃあッ?」


 蹴りつける目標であったドアが急になくなったことで、振り上げた右足が空を切ることになった少女の身体は、当然のように、つんのめってバランスを崩した。


「……おっと、危ねえなあ」


 白衣の男性はそう言うと、素早い動きで少女の右足を掴み、ついでに細い腰にも手を当てて、倒れないように支えてやった。

 飄然とした風貌とは打って違って、素晴らしい身のこなしと反射能力ではある。


 期せずして顔を見合わせることになった少女の顔は、その途端、まるで熟した果実のように真っ赤に染まった。


「ちょ、ちょ、ちょっとお! このエロ親父ぃ! か、か弱い乙女の柔肌に触れていいだなんて、ひとことも言ってにゃいじゃにゃいのおッ?」


 白衣の男性に身体を支えられたまま、真っ赤な顔をした少女は、ツバを飛ばしながら舌足らずな口調でまくし立てると、両手に力を入れてジタバタもがいた。


 男はそんな彼女の反応を見て、深々とため息をつくと、幼い子どもを抱くときのように脇に手を差し込み、しっかりと支えてやると、優しく床に降ろしてやった。


「いいかテミス、このままだとお前、水たまりの中に浸ることになるぞ?」


「――えっ?」


 確かに直下の床は、湿気としずくでできた水たまりになっている。男は彼女を抱き上げることで、転んで濡れないようにしてやったのだ。

 すぐにそれを理解した少女は、体勢を戻しながら小声で礼を言った。


「あ、ありがと……」


「――で、何用だ? ここがかの高名な魔術研究者にして聖地たる教区の助祭、マカベウス・フェランの研究室だと知って来たのか? いたいけな小娘よ?」


 白衣の男――マカベウス・フェラン助祭は、悪戯っぽい笑みを浮かべながらも、演技がかった重々しい口調でそう言うのだった。

 毎日のように顔を合わせている、主人と助手の間柄だというのに、わざとらしいにもほどがある。


 それを聞くなり、テミスと呼ばれた少女は急に頬を膨らますと、今までどうにか落とさずに運んできたもの――籐で編んだ手かごを、マカベウスの胸へと乱暴に突きだした。


「――むっ!」


 そんなテミスの顔は、あいかわらず真っ赤のままだが、引きこもり中年への説教を垂れることだけは、毎日恒例の行事らしく忘れることはない。


「はい、今日のごはん! いくら研究だからって、地下で引きこもってちゃ、らめ……らんだからね!」


 真っ赤な顔を隠そうともせず、照れ隠しのためか憤然とした表情で研究者を見上げながらも、十二歳の少女テミスは、パンとチーズ、そしてワインと蜂蜜が入った手かごの覆いを取り除いたのだった。

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