第2話 「神のしろしめす大地」ヒューリアック

「聖なる大陸」ラッフルズートで一神教が創始されてから、三百年後の世界――。


 その南に位置する、広大なヒューリアック大陸では、急速に一神教の信仰が広まっていた。


 一神教が誕生したラッフルズート大陸では、旧来の多神教が根強い勢力を保っており、布教が遅々として進まなかった。

 それに対し、こちらのヒューリアック大陸では素朴な呪術信仰が細々と続いていたに過ぎなかった。ゆえに、その布教効果は生まれ故郷であるラッフルズート以上に良好だった。


 素朴な民衆は改宗すると、優渥なる神の恩寵に感激して、すぐに敬虔な信徒に変わった……と、一神教では今でも宣伝し続けている。


 両大陸間に位置し、橋渡し役を果たしたリーナス島も含めて、創始後わずか百年ほどで半分以上の住民を教化させることに成功した一神教は、この大陸を「神のしろしめす大地」と呼ぶことになる。

 信者数もさることながら、ここには一神教にとって重要な聖地――いわゆる「聖跡」サンクトゥアリウムが数多く存在したからだ。


 とくに重要な「聖跡」サンクトゥアリウムは、海岸近くにそびえ立つ山脈の向こう側にある、巨大なクレーターである。

 数百年が経過しても風化することのないそのクレーターは、「聖なる円孔」サンクトゥス・フォラーメンと呼ばれ、現在では一神教信者たちが一生に一度は訪れたいと願う、重要な聖地のひとつになっている。


 ここにたどり着いてから死を迎えることで、神への門が開くとされる。そんな民間信仰を生み出すほどに死後の救済を願う民衆は、汗水流して働き、やっとの思いで旅費を稼いでから、危険をかえりみずこの地を訪れるのだという。


 それほどまでに一神教は、この地に住む人々の生活に深く根づいており、世の中の価値観や思想を代弁する宗教でもあった。


 ――そもそも一神教とは、どんな宗教なのだろうか?


 簡単に言えば、突如として出現した怪物を討伐した英雄が、死後、神として崇められ、のちに唯一神の位置に引き上げられることになった民間信仰がもとになっている。死せる英雄に対する、個人的な崇敬が基礎となった宗教とも言える。


 のちにその英雄の弟子だった人物の後継者が、戦場の英雄として大陸を平定し、王となって、民間信仰に過ぎなかった一神教を世界宗教へと引き上げた。それが現在の一神教である。


 ところが宗教的崇敬の対象となったのは、英雄とは言うものの若い頃に戦場で名を上げようとして夢破れ、のちに多神教の研究に没頭し、貧困や差別などの不条理を考究する思想家へと転身した、しがない老哲学者であった。


「――世界に神々の気まぐれなど存在しない。あるのは厳しい現実と、それをどうにかしようと奮闘する、人々の底力だけである」


「――必死に努力しなさい。そうすれば、神々はきっと助けてくださる。たとえそれで死んでも、神々は天国の門前まで出迎えてくださるはずだ」


 生前、老哲学者は多くの弟子を持ち、学問に縁のない一般住民にもわかるよう、こういった優しい言葉で数多くの名言を残したという。それがのちに、一神教の聖典としてまとめられた。


 しかし、老哲学者には生まれつき、特殊な能力があったというのが、現在の定説である。


 自然の声を聞き、森羅万象の流れを感じることができたという老哲学者は、病気や飢えに苦しむ人々に手を触れるだけで、病気や傷を治したり、空腹を癒したりなど多くの奇跡を起こしたという。彼の右手は、常に薄緑色の光を帯びていた、と聖典に書かれている。

 弟子たちとともに時局を論じ、奇跡の力で人々を癒し続ける生活――。老哲学者にとって、それは望むべき晩年だったに違いない。


 だが、そんな素朴な預言者の最期は、鮮烈な記憶を歴史に刻みつけることになる。


 ある日突如として、ラッフルズート大陸に出現した、人の形をした怪物――。

 その怪物の身体は、漆黒の闇で覆われていたとも、黒い霧状の粒子で包まれていたともいう。


 普通の人間と同じくらいの身長であり、姿もローブを着た人間そのものだったという怪物だが、彼は「瘴気」という、不可思議な現象を生み出す闇の粒子を行使して、街や村だけでなく農地、森林、海や川などを容赦なく破壊・汚染し、当時の政治経済に大混乱を引き起こした。


 怪物の目的が果たして何だったのか、今もって不明のままである。

 しかし確かなのは、禍々しいその怪物が、しがない老哲学者に倒されたという事実である。


 彼とその弟子たちによる戦いは数年に及んだが、最後の戦場は、隣のヒューリアック大陸へと移っていくことになる。


 そして最後には、のちに「聖なる円孔」サンクトゥス・フォラーメンと呼ばれることになる巨大なクレーターを生み出すほど、両者はありったけの魔力をぶつけ合い、ついに相討ちの大爆発を引き起こした。

 老哲学者の姿は跡形もなく消えたが、怪物も傷つき、魔界へと逃げ去ってから封印されたという。


 老哲学者がその身を挺して退治した怪物は、のちに「魔の王ベールゼブブ」と呼ばれることになる。それは「魔界」という人智の及ばない異界から出現した、正体不明の存在だったとされている。


 魔界へと逃げ去り、封印された「魔の王ベールゼブブ」だったが、やがてみずから封印を脱し、再びこの世界を大混乱に陥れることになる。

 そして、それを迎え撃った存在と巨大な魔力の衝突を演じたあげく、「魔の王ベールゼブブ」は再び封印されることになるが、それはまた別の話である。


 ――神に祝福されし大陸・ラッフルズートの新暦三〇五年。


 ヒューリアック大陸の東、海沿いにある半農半漁の寒村、エヴァスト。

 人口わずか千五百人ほどの、古くからある街道沿いの街である。


 僻地の寒村であるエヴァストの街だが、ここには大きな一神教の聖堂がそびえ立っている。貧しい民衆の家々と比べると、石造りの聖堂は明らかに異質な建物だった。

 近くの山脈の向こうに、巨大なクレーター「聖なる円孔」サンクトゥス・フォラーメンがあるため、そこにもっとも近いエヴァストの街が、聖堂の所在地に選ばれたのだろう。


 この街の一帯を治める領主は、聖堂と教区とを主管する司教である。要するにここは、司教領と言われる場所の一角である。

 しかし現在の司教は、なかなか王都を離れたがらず、年間を通しても二、三ヶ月ほどしかこの街に滞在しない人物だった。


 それをいいことに、聖堂の地下室を占拠し、そこに研究室をこしらえた教区助祭がいた。


 さすがに問題にはなったが、聖典の研究のためだと称し、すっかり既成事実と化した地下の研究室を、司教は渋々認めるしかなかったのだろう。

 ただ、ここで研究されているのが魔術だということは、ごく一部を除いて誰も知らない。


 この街と、大陸を統治する連合国家「大ヒューリアック王国」をも巻き込むことになる「魔導災害マギカエ・クラーデ」の惨禍が、今まさに起ころうとしていた――。

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