番外編
番外編1 蔦の絡まる
朝である。
朝だ、朝、朝なのに――
「なんで朝っぱらからこんなとこに……」
アンリは図書館の窓際にある低い書棚に足を上げたまま空を見上げた。
そこから見える大きな木から、鳥が何羽か飛び立った。
ルイーズに呼び出され、朝一番にこの場所で会う約束をしたのは昨日の放課後。
食堂が開いたすぐ、誰よりも速くとびこみ朝食をかきこむ。
それから洗面所の一番綺麗に映る――はず――鏡の前で念入りに、歯を磨き、顔を洗い、髪をとかしてここにいる。
あと30分もすれば一時間目の授業が始まる。
大教会の鐘の音と共に。
呼び出された理由はなんなのか。
これが先輩や別の友達ならここまで気にしたりしないのだが、ことルイーズにともなるとアンリの心は落ち着かなかった。
空を見上げたまま制服のシャツの襟を直したり、窓に映ったスカーフの広がり具合を確かめる。
そわそわと落ち着かないのは気に入りの茶を飲むのを忘れたからじゃない。
ジャケットのほこりも払ったし、ズボンのしわなんか昨夜から徹底的に排除している。
「……早く来ないかなあ」
司書のカトリーヌが奥の書棚で本を戻している姿がちらりと見えた。
彼女がアンリに気づいているのかどうかまではわからないが、どうせならルイーズとふたりきりになりたいものだ。
「おはよう」
アンリの頭の上で彼の好きな快い声がした。
椅子の背に思い切り体を預けて見上げれば、ルイーズはにこにこしてそこに立っている。
「おはよ。気づかなかったよ。いつもはここから馬車が見えるのに」
アンリは平静を装って書棚から足を降ろし、立ち上がる。
「今日は早く来たんだ。さっきまでシラク先生んとこにいたの。これ、課題だって」
ルイーズは真新しい皮の表紙をアンリに見せた。
「またあんただけ特別授業か。あのじいさんも飽きないなあ」
「だって面白いんだよ? 知ってる? 料理に使う香草の薬効」
「ああん? まあそんなの、普通に取る単位でも出るだろ」
「東方の香辛料とかもあるんだよ。楽しみだな」
ルイーズは微笑んでアンリを見上げる。
いつからだろう。
初めは同じくらいの高さを見ていた気がする。
だがいつからか、ほんの少しだけルイーズの視線が、微かに上向きに自分を見つめるようになった。
「高嶺の花ってのはああいうんだ」
同室のバジルが言った。
「貴族だなんて言ってても、この学校じゃあ扱いは同じ。オーギュストみたいに金持ちで、大金を寄付してる奴じゃなきゃ、庶民との区別なんてされやしない。なのに、どう? アルベールのお嬢様は寮にさえ入らない。もっとも、あのお嬢様が生まれたから女の子も入学できるようになったんだけど。お陰でむさ苦しい恋愛はしなくてすむんだ。感謝しなくちゃね」
バジルは自分の黒い巻き毛を指でくるくるといじった。
「……おい、その、むさ苦しい恋愛ってのはやめとけよ」
「なあに?アンリ。するわけないじゃない」
バジルはけたけたと笑い、アンリの背中を叩く。
「あんたも大変だよね。身の丈にあった恋愛を楽しまなくちゃ」
アンリは彼の言うことに同意する。
でも、この気持ちは、もう消すことはできない。
「……でね、アンリ。ディルっていう香草があるの。知ってる?」
「ん?」
アンリはルイーズの広げた本を見た。
「あんたの名字と、後ろの方が同じだよね。クローディル……ディル……」
「……ああ」
それがどうしたとアンリは思うが、ルイーズの銀髪が目の前で揺れ、ふわりと甘い香りが漂うとそんな気持ちも吹き飛ぶ。
「これ、あんたの呼び名にしてもいい? ディル、って呼びたいな、私」
「……え……」
「私たちだけの呼び名を決めない? その方がずっと友達らしいよ」
ルイーズは青灰色の瞳を細める。
アンリはどこか遠くから聞こえてくる鐘の音を思い描いた。
白いドレスを着て花束を持ったルイーズ。
はにかみながら微笑んで、アンリが彼女の手を取るのを待っている。
ぱたん!
アンリはルイーズが閉じた本の音で現実に引き戻された。
「……で……用事って……?」
「これだけだよ」
「これって……呼び名を決める?」
「うん。私のことはディルの好きなように呼んで構わないよ。決めたら教えて」
アンリは踵を返して図書館の出口へ向かうルイーズの背中を見た。
もう行ってしまうのか――
そう思ったとき、くるりとルイーズは振り返る。
「今日は全部違う授業でしょ? 放課後にまたここで会おう。それまでに呼び名が決まってたら教えてね」
ルイーズは手を振ってから微笑んで、またアンリに背を向けた。
もう見ていない彼女に右手を挙げ、微かに振ってみる。
大教会の鐘が鳴り授業が始まってからも、アンリは一日中上の空で、ルイーズの呼び名を考えながらひとりでしまらない笑顔を絶やさなかった。
***おわり***
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