第3話
「ああ、そうなんだ。ありがとう」
ルイが微笑んでヴィーに言う。
「でも大家さん、変なことを仰ってましたよ。朝起きたら枕元に手紙とお金があったって……」
リレルが困惑した表情でルイに訴える。
「ま、まあ、そういうこともあるんじゃないでしょうか? ねえヴィー」
ヴィーは笑って頷いただけだった。
「ところで、今日はどうしたんですか? まだエブシャン殿はよくならない?」
「いいえ、とんでもない」
リレルは椅子から立ち上がる。
「本日はお礼に伺ったのです。主はあれからすぐに回復いたしまして、大事も無事。支障なく仕事をしております。これもひとえにルイ殿のお陰と、主からの言付けでございます」
リレルは正式な貴族の礼をした。
「ああ、そうですか。良かったですね」
ルイは微笑んで頷いた。
「つきましてはルイ殿への謝礼として、主は正式に援助を申し出ると」
「援助……?」
「はい。主の正規の薬師として取り立てたいと申します」
リレルの言葉にディルとルイの表情が曇った。
「貴族の、それも正規の薬師となったら、ちゃんと申請を出して免許をとらなきゃならないじゃないか。どうするつもりなんだ? あんたのご主人様はどういう方なんだ?」
ディルが恐ろしげな表情でリレルに訊ねる。
リレルは戸惑いながらルイを見上げた。
「ルイ殿、あの、こちらの方は……?」
「ディルと申します。私の幼なじみです。信頼のおける男ですよ」
「そうですか……」
リレルは両手を握り合わせてディルを見た。
「ええ、あなた様の仰る通りでございます。主は医薬局に申請を出し、ルイ殿を専門の薬師として雇いたいと申しております。それについての試験、申請の手続きなど、わたくしどもで全て手配いたします。ですからルイ殿にはご負担は一切かかりません。我が主はこの街で議員を務めておりますエブシャンと申します」
リレルはディルの目をまっすぐに見つめて説明した。
「エブシャン……ねえ……」
ディルはますます眉間にしわを寄せた。
ルイも困った表情で、でも少しだけ微笑みながらリレルを見ていた。
リレルはてっきりルイが喜んでくれるものだと思っていたので、二人の表情に困惑する。
「……あの……おふたりとも、この申し出がお気に召しませんか? 主はルイ殿の住まいも提供すると申しておるのですが……」
「いや、そういうことじゃないんだ。坊主、ルイがなんで正規の薬師になってないか、考えたことはないか?」
「……?」
リレルはディルの問いかけに首をかしげた。
「わたくしは単純に費用の問題なのかと思っておりましたが。試験と申請はそう簡単にできる金額ではありませんし、失礼ながら、ルイ殿は……お困りのようでしたから……」
「まあそうですね」
ルイは苦笑した。
「リレル。エブシャン殿のお気持ちはありがたく頂戴しますと伝えてくれますか? ただ、エブシャン殿の専門薬師になることはできません。こちらで働くことになりましたので」
ディルがルイを見上げて頷く。
「それにこちらでなら正規の薬師ではなくとも、化粧品を作って売ることはできますからね。今まで通り、お薬のことは医薬局には内緒ですけど、エブシャン殿ならお受けいたします」
ルイの言葉にリレルは顔色を変えた。
「……そんな……ルイ殿……」
「ごめんなさい。きっと私が喜ぶと思ったんでしょう? リレルに気を遣わせてしまいましたね」
「謝らないでください!」
リレルは立ち上がり、ディルの後ろを通ってルイに近寄った。
「ルイ殿にはここ数ヶ月だけですけど、色々と教えていただいたり、話を聞いていただいただけでもわたくしには救いだったんです。だからそのお礼もしたいと……」
「うん、ありがとう。でもね、ちょっと困るんですよ。いろいろと……」
「そんな……なにがお困りですか? わたくしが主に言って……」
「いや、それが困るんです」
ルイは熱心なリレルの青い瞳に耐えかねて目を伏せた。
ディルが横からリレルの上着の裾を引っ張る。
「坊主、まあ座れよ。おまえがルイを慕ってるのはよ~くわかったから」
ディルに言われてリレルはぷうっと頬を膨らませた。
それから勢いよく元の椅子に戻り乱暴に腰掛ける。
「……気に入りません。ディル殿……と申されましたか」
リレルの言葉に苦笑いをするディル。
「まるでわたくしの兄のようです。わたくしが母にお願い事をしていると必ずそうして止めに入って……」
ディルは目を細めて嬉しそうにリレルを見た。
「俺にも弟がいるよ。そういやあ弟もそんなふうにおふくろに甘えてたなあ」
「甘えているわけではありません!」
リレルはますます頬を膨らませた。
「リレル。ご主人様の使いはそれだけですか?」
ルイはくすくす笑いながらリレルに茶を差し出した。
「はい、そうです。……あ、ありがとうございます。いただきます」
そういって両手で茶碗を持つと何度か息を吹いてからすする。
「これからはこの店にいるから、気晴らしに時々来るといいですよ。営業は夜だけだから、昼間はお客さんもいませんし」
「あ!」
リレルは茶を飲み込むと思い出したように言った。
「そういえば、このお店、この辺りでは評判なんですね。どこの方に尋ねてもすぐに教えてくれました。……とはいえ、どなたもわたくしを子供扱いなさって、あちこちでからかわれました。まっすぐくればそうでもないのに、女性のみなさまは……あの……」
リレルは不安げに目を泳がせた後、顔を真っ赤にした。
「時間がかかってしまって……。市場を抜けて来たんですけど」
「馬車はそこに待たせてあるんですか?」
「はい。この辺りの道は狭くて入り組んでますから」
リレルが頷く。
「お茶をいただいたら帰ります。ルイ殿のお返事は残念ですが、またお薬をお願いすることもございましょう」
そういうとまた何度か息を吹きかけてから、リレルは茶を飲み干した。
「坊主、女達の誘いに乗るんじゃないぞ。帰りは来たときの何倍も怖いんだからな。気をつけて帰りな」
ディルはため息をついたリレルの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「やめてください。本当に、この街の方々は、皆そうやってわたくしを子供扱いなさるんですから!」
ディルとルイはふたりそろって笑い出した。
店の扉からリレルを送り出す。
ルイの後ろからディルが顔を出し、ふたりしてリレルに手を振った。
リレルは嬉しそうに振り返り、頭を何度か下げ市場の方へ向かって人混みをかき分けていった。
「シャルルを思い出すなあ」
ディルが呟く。
「元気なの?」
ルイが店の扉を閉めながら訊いた。
「さあ。お互い連絡はとらない方がいいからな」
「母上と……ベアトリスは?」
「……さてね……」
ディルは寂しそうに笑ってから振り向いた。
するとそこにヴィーが立っていて、にっこりと笑いながらディルを見上げる。
「みんな元気だよ。なんなら今夜の夢に出してあげる」
ディルは目を見開いた。
「な、なん……?」
「ディルの家族だろ? あんたの夢に、昨夜出てた。妹と母上は一緒にいるよ」
「……ど、どうやって……」
「別に難しいことじゃないさ。あんたの夢は具体的でわかりやすかった」
いきなりヴィーの後ろ頭をキリムが引っぱたく。
「あ痛!」
「まーったくこいつは。いっつも人が眠ってる間に勝手に心を覗きやがる。だから油断ならないんだ」
「痛いなあ、もう。キリムみたいに女のベッドに潜り込む技術はないからねっ。他の技を使うのさ」
「もういっぺん言ってみろ!」
「何度でも言ってやるよ~だ」
ヴィーはキリムの横をすり抜けて台所へ走っていった。
その姿を見送った後、キリムはディルに振り向く。
「すまんな、ディル。あいつ、どうも人を離れて長いから……つーか、人情ってのにうといところがあって」
キリムが謝るのをみてディルは目を剥いた。
「……いや……確かに驚いたけど……あんたが謝ったことのほうがなによりも驚いた」
「は?」
キリムは眉を寄せた。
「ああ、いや、その……。あ、主も色々大変だな。あはははは」
キリムは唇を尖らせてディルを見下ろした。
「それより、ルイ。リレルのご主人様が、また援助を……なんて、言い出したりしないかの方が心配だな」
ディルの言葉にルイは頷く。
「うん。エブシャン殿は議員をしてるから、なにかのおりにトラムに出ることも充分考えられる。そこで私の話なんか出されたら、すぐに祖父に知れてしまうだろう。……そうなるとここには居られない」
「……俺も……店たたまないと……なあ」
「まずいことになったね」
ルイとディルはお互いをみつめあった。
「あ~、ごほん、ごほん」
キリムがわざとらしい咳をする。
「おふたりさん、事情はあちらでゆっくりうかがいましょう」
キリムは台所の扉を指さした。
***
「それで?」
テーブルについた三人に、ヴィーが焼き菓子と茶を出す。
「さあ、軽い夜食を用意したよ。こっちはカスタードパイだから」
ルイとディルに訊ねたキリムの言葉は無視だ。
「おまえ少し黙ってろ。これから大事な話がある」
「なんでさ。俺が説明したほうがきっと早いよ。ルイはトラムって街の大臣の孫。髪の色は祖母さんと同じなんで母親に嫌われてる。父親は愛人の家に入り浸りで家には帰ってこない。妻はとてつもない美人なのにねえ。おまけにあんまり仕事もしてないみたいだけど、祖父さんの秘書みたいなことしてるねえ」
ヴィーが腰に手を当ててふんぞり返りながらルイの身の上を説明し始めた。
「……! ……ヴィー、それ……どこで……?」
ルイが狼狽えて立ち上がる。
「どこって、あんたの夢の中に出てきた。祖父さんが横暴なんで怒って家出したんだろ? あの婚約者なら当然だろうね。俺だってお断りだ」
ルイは口をぱくぱくさせながら力が抜けたように腰を下ろす。
ディルはルイの婚約者が気になって手を握りしめた。
「ルイが家出する前に、ディルの親父さんが捕まって牢屋に入れられたんだ。それでディルの家族のことを心配した人たちが、ディルとお袋さんと弟と妹を逃がした。それぞれ別々にね。ディルはひとりでここに流れ着いて、ここの亭主に気に入られた。ルイがディルの逃げた後を辿ってここに着いたのは半年くらい前。ここのご亭主はいい人でねえ、ルイのことも可哀相に思って……ディルの友達だし、アパートを世話してくれたんだよ。そこの大家さんの知り合いがエブシャンを紹介してくれて、仕事もなんとか。ね?」
ディルとルイは目を剥いてお互いをみつめあった。
「ヴィー。ひとさまの過去をずけずけと……夢の中までおっかけたのか?」
「まあねえ。でも最初はルイのこと、ちょっとみるだけのつもりだったのにさ、ディルの頭の中のルイってばすごいもんだから……」
「わーっ!!」
ディルが立ち上がってヴィーの口を押さえる。
「!んふっ!」
「黙ってろ、黙ってろ! 何言い出すんだ!」
ヴィーはディルの手を掴んでもがく。
「ん~!んっ!」
キリムは、ほう、と小さく息を吐くような声を出した。
「興味あるな。どんななんだよ」
「余計なお世話だよ!」
「ん~!! んむっ!!」
キリムとディルはにらみ合い、ルイは落ち着かない表情でふたりを見比べた。
「ん~!! んっ! んっ!!」
ヴィーが抗議の声を上げながらディルの腕を叩く。
「離してやれ。いくらナイフでも窒息しちまうぞ」
キリムの声でディルはヴィーの口から手を離した。
「ぷはあ! ……はーっ」
「な、何を見たのか知らないが、余計なことは一切言うなよ、ヴィー」
ディルはヴィーの肩を掴んで揺さぶった。
「……わわわ。何……って……。やめてよ、言わないよ」
ディルは静かに元の椅子に戻った。
「……ふ~う。別に変なことじゃないのに。好きな相手のことなんだから当たり前じゃない」
ヴィーがディルに向かって文句を言う。
「……あの……も、もしかして……昼間……言ってた、女神様みたい……って……」
呟くように言ったルイだったが、隣でそれを聞いたディルの顔が真っ赤に染まる。
キリムはディルの顔を見て吹き出した。
「子供じゃあるまいし……」
ヴィーはルイに向かって頷いた。
「あー、そうそう。そうなんだよ。なんかおっきなピンク色の花を見てるんだ。ルイがね。そこにディルが近寄っていって、その花の名前を教えてあげるんだけど、すっごく可愛いんだよ、ルイ。まだ子供の頃のルイじゃないのかなあ」
ディルはそれを聞くと頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
「……ディル……いつの話? そんな花、見てたっけ?」
ルイはディルに訊ねた。
「……ああー……うう……」
ディルはうなり声を上げる。
「まあ、いいじゃねえか。あんまりいじめるなよ。純情くんみたいだからな」
キリムはにやにやしながらルイに言う。
「キリムの頭の中なんかより、よっぽどわかりやすいだろ。ちゃんと順序があるし、やっぱ魔法を扱うものは頭の中にきちんとした映像を持ってるもんだね。それに比べたら」
ヴィーはちらりとキリムを見る。
「胸だとか足だとか、女の体の一部しか頭の中にないキリムなんて、まるでバラバラの人殺しみたいだよ」
キリムはヴィーを軽く叩いた。
「人聞きの悪いこというな。おまえの主だぞ」
「だって本当じゃん。顔なんかたまにしか入ってない」
「うるさい。とにかくひとさまの頭の中を勝手に覗くのはやめろ。今は別の問題があるだろが」
「ああ、そうだね。つまり、ルイの居所が知れるとディルも一緒にいることがわかっちゃうわけだ。そうするとまずい。ディルは長男だから弟より先に追っ手がかかってる。ルイも同じように祖父さんの雇った人が探してるわけだけど」
ヴィーの後をディルが続けた。
赤い顔はまだそのままで、ひたすら頬を両手で擦りながら。
「俺の追っ手が俺をみつけても、ルイが一緒にいることはばれる。どっちも見つからずに1年もここにいられたのは言ってみれば結界のお陰だ。あっちも魔法で探してる筈だから」
ヴィーはディルに向かって頷いた。
「それにルイのお陰もね。ルイはディルの結界の跡をおっかけて来られたけど、同時にその跡を消しながら来たんだよ。器用なもんだね、ルイは。それで追っ手はなかなかルイの逃げた道をみつけられないんだ」
「祖父の書斎にある本に書いてあった……昔の追跡魔法を使ってみたんだけど」
ルイは遠慮がちに付け加えた。
ヴィーはにっこりと微笑んで説明を続ける。
「ルイの祖父さん本人が出てこない限り、ルイはみつからないだろうし、そのお陰でディルも隠れていられた。だけど、魔法を使わない相手に直に話したりしたら、こっちはすぐにばれちまうだろ。エブシャンがその祖父さんに会わないとは限らないんだし。同じ貴族で、おまけに議会の仕事をしてるときたら」
「ふむ」
キリムがうなずく。
「だからね、さっきの坊やが言ってたことは承諾できないの」
ヴィーはキリムに振り向いた。
「あ、ねえ、ところで……あの坊や、俺のこと気に入ったと思わない? 顔真っ赤にしちゃって」
キリムは眉をつり上げる。
「おまえ、なんでそこで話がずれる」
「いいじゃない」
「とにかく!」
ディルはまだ頬が赤いままテーブルを叩いて立ち上がる。
「どっちの追っ手にみつかるのもまずい。俺は親父と一緒に投獄か、下手すりゃ処刑だ。……くそっ。冤罪だっていうのに……」
「ディルの次は弟さ。随分遠くに逃げてるから時間は稼げてるけど」
ヴィーはディルの腕に静かに手を置いた。
「あんたの家族は大丈夫さ。あんたは濡れ衣だって知ってるから余計に狙われてる。ディル、あんたの夢は具体的過ぎて、俺みたいに同じ魔法が使えるヤツなら家族が逃げた道も追えるんだ。今は家族のことを思い出さない方がいい」
ディルはヴィーを見下ろして静かに座った。
「なんかうまい手を考えなくちゃなあ」
キリムが呟いた。
「キリム、この店をたたんでどこかに逃げるなんてダメだよ。ディルはここのご主人のためにこの店を続けてるんだから」
ルイはキリムに向かって言った。
「しかし、エブシャンの口からおまえの所在がばれる可能性もあるんだろ? それならここを一旦離れた方がいいんじゃないか?」
「急に店じまいしたほうが怪しまれるよ。それに、どこに逃げるつもりなの? 結界を消しながら逃げるなら場所を選ばないと……」
キリムとルイとディルはしばらく黙ってお互いをみつめあった。
「ま、しょうがないからここでど~んと構えているしかないね」
ヴィーはまたふんぞり返って言う。
「いいんじゃない?それで。なんかことが起これば相手の出方もわかるし。これからはもう逃げないで、戦ってやろうじゃない」
ヴィーは拳を振り上げた。
「今度は俺がいる。俺の本当の力を見せてあげるよ!」
ヴィーの表情は輝かんばかりだ。
「……大丈夫か……?」
キリムが怪訝な顔でヴィーに言う。
「おまえ……ずっと眠ってたんだろーが」
「キリム! あんたこそ、いつの話してるの?」
「まあ、そのときになったら頼む。ああ、もう寝るかな」
「昼間ずっと寝てた癖に、まだ眠るの? 起きて見張ってようとか思わないわけ?」
「思わねえよ。店から女達の声が聞こえてても、俺は出られないし。それにもう閉めたんだろ? ここにいるだけじゃつまんねーっての」
「あ!」
ヴィーは思い出してルイに飛びついた。
「そーなんだよ、キリムったら。まったく女好きなんだからさ。店から女の声がたくさん聞こえてくるって、顔出したくてしょうがないんだよ。もしあの店の女が来てたら、また一悶着起こるってのに、全然自覚がないんだもん」
ルイはあきれ顔でキリムを見る。
「懲りないねえ……」
「なんだよ、いいじゃねえか。ああ、俺は確かに女好きだ。文句あるか。おまえもいつまでも男になってないで女に戻れよ、ルイ」
「……これじゃあ男のままの方が安全だなあ」
ヴィーはルイを見上げる。
「戻ってもいいよ。俺がまた一緒に寝るから」
「ヴィー……あんたも危ないだろ……」
ルイはため息をついた。
「戻れよ、ルイ。店に出てるときだけでいいだろ。俺も男のあんたじゃ……」
ディルは言ってからまた顔を真っ赤にした。
「……え?……あ……あの……まあ、確かに……ちょっと違和感があるし……ディルが言うなら……」
「なんだよ、それ。えらく扱いが違うじゃねえか」
キリムが拗ねる。
「戻り方は同じだからね。元の自分を想像して、呪文は同じだよ」
ヴィーが嬉しそうにルイに抱きついた。
ルイは目を閉じてヴィーの言うとおりにする。
ルイの体の中に何かが通った感覚があった。
「ふう」
ヴィーはぎゅーっとルイの胸に顔を押しつける。
「うん、戻ってる。こっちの方が俺は好きーっ!」
「ヴィーってば……もう」
ルイは困ったような表情でヴィーを抱きしめた。
「あのなあ、ルイ」
キリムがヴィーを指さしながら言う。
「おまえの違和感って、そりゃ当たり前だ。あれはヴィーのであって、普通はあんなじゃないからな」
「なに? なにが?」
「今まで全く何もなかったところに、あんなでかいもんがありゃ、そりゃ違和感もあろうってもんだ。だからアレはもっと小さくてもいいんだ。別に使うわけでもあるまい」
「……だから、何が?」
ディルがいきなり立ち上がる。
「キリム……ちょっと、男同士の話をしようじゃないか」
「ディル……あんた、あれを放っておいたら、客の女達、全部ルイにとられちまうぞ」
「……いや、そういう問題じゃなくて……。まあ寝る前にでも、とにかく話をつけておこう」
ディルはキリムに近寄ると階段を指さす。
「なんだよディル」
「まあ、まあ、とにかく上に。じゃあな、ルイ、ヴィー。お休み」
文句を言うキリムを引っ張って、ディルは階段を上っていった。
ルイは困惑した表情のままヴィーを見下ろす。
「……ヴィーがなんかおかしいの?」
「まさか! 俺を見本にしたからキリムが気に入らないんだろ。自分を見本にしたいんじゃない?」
ルイの頬が朱に染まる。
「キリムを見本にしたら、ルイの頭の中まで女のバラバラ死体で一杯になっちまう。俺でいいの」
「キリム……本当にそんなことしか考えてないのかな」
「うん。あんたみたいに綺麗な服とか、祖父さんの本とかしか頭にないのは珍しいよ、ルイ。女の人だとやっぱり好きな男のことが思い浮かぶもんだけど、ルイにはいないの?」
ルイは首をかしげて思い返してみる。
「……ディルは好きだけど、私の頭の中にはない?」
「あるけどさあ……ちょっと違うんだよね。ディルはルイのこと本当に好きだから、ディルの頭の中のルイは光り輝いてるの。でもルイの頭の中のディルは他の人と変わらないよ。あんたの家族と同じ」
「……そう……光り輝いている人が好きな人なんだね」
「うん。だからすぐわかる。そういう奴の頭の中って、その人が出てくるところだけ物凄く明るくてわかりやすいの」
ヴィーはルイの膝の上に座った。
「今日も一緒に寝るだろ? ルイ」
「いいけど……もう男にならないでくれる?」
「うん。でもこれからはもしなんかあったらすぐ男になるよ。ルイを守りたいから」
ルイはヴィーの髪を撫でた。
「ありがとう。そうならないほうがいいけどね。……キリムはどうするの? ナイフでいなくちゃならないこともあるだろ?」
「そのときはそのとき。もう屋根裏に行こうか?」
ヴィーはルイの膝から飛び降りると、微笑んでルイに手を差し出した。
夜の仕事をしている人々は、午前中は大抵眠っている。
勿論、この家の住人も、まだ全員ベッドに入っていたが、ルイは一緒に眠っているヴィーを起こさないようにと、そっとベッドからはい出た。
あとの3人はまだ深い夢の中にいる。
ルイは昨夜のディルの頭の中にある自分のことを思い出した。
一体いつ、ルイはそんな大きな花を見ていることがあったのか。
眠る前にも考えていたのだが、一向に思い出せない。
そのうちに温かいヴィーの体がルイを眠りに誘い、気づいたらもう外は明るくなっていた。
「ふう……。ヴィーのお陰で買い物や雑用をしなくてすんでるけど、ずっと家に籠もってるのはつまらないなあ。……昔は気にならなかったけど」
ルイは台所のストーブに薪を入れて火を点けた。
しばらくぼんやりとストーブの火を見ていると、階段を下りてくる足音がした。
「……おはよう」
振り向くとそこにディルが立っている。
「ん、おはよ。眠れなかったのか?」
「ううん。ちゃんと眠ったよ。ヴィーはまだ寝てるけど」
「そっか……」
ディルはヤカンに水を入れてストーブにかけた。
「ねえ、ディル」
「ん?」
「怒らないでね」
「……何を?」
「ずっと、昨夜の、その、ピンク色の大きな花を見ているっていうの、思い出せなくて……」
ディルは頬を上気させた。
「ごめん。いつの話なの?」
ディルは椅子に座ると頭を抱えてテーブルに肘をついた。
「……そりゃ覚えてないよなあ。普通は、さ」
「ごめん。だから、教えてよ」
ディルは立っているルイを腕の陰から見上げた。
「5歳の頃だよ。入学式。あんた、講堂に活けてあった大きなユリの花を見てただろ。あれ、うちのお袋が温室でよく作ってた種類なんだよ。だから花の名前をあんたに教えてやった」
ルイは驚いて両手を握りしめた。
「……入学式って……そんな昔のこと……全然覚えてないよ」
「そりゃまあそうだろ。特にあんたは家から通ってたし。こっちは寮にぶち込まれるってんで、何もかも身の回りのことは自分でできるようにって躾けられるから、あの頃から記憶はしっかり残ってるんだ」
「……そうなんだ……」
「別にそれで俺は怒ったりしねえけどさ、ルイ。あの学校で家から通ってたのなんてあんただけなんだぜ。みんな寮に入るんだから」
「えっ!」
「あんたの祖父さんは学校に大金を寄付をしてたから、校長もなにもかもいいなりになってたんだ。だからあんたは特別に寮に入れられなかった。まあ女の子の数は少ないから、寮って言っても俺たちみたいに6人ずつ狭い部屋に押し込まれたりはしないんだが」
「……そうなの?」
「あんたは家と学校の往復だけで、それも馬車で送り迎えされてたし、たまに授業以外で学校にいても図書館に籠もってたから知らないだろうとは思ってたけどなあ」
「13年も通ったのに、知らなかった……」
「俺以外に友達、いなかったのか?」
「……たぶん……」
ディルはがくりと額をテーブルにつけた。
「司書のカトリーヌとはよくお喋りしたよ。司書室はお茶を飲んでも大丈夫だから」
「……」
ディルは無言でルイを見上げる。
「まあ、いいよ。学校じゃ他にいい思い出もないし」
「私も……あんまり楽しくなかった……」
「成績良くて、先生達はみんな特別扱いで、なにが楽しくないんだよ。生徒だってあんたのことを知ってる奴は、祖父さんが怖くて何も言えなかったんだぞ」
「ディルだって勉強はできたじゃないか。私より順位は良かった」
「そんなことくらいであんたみたいな特別扱いにはならないんだよ。それに……あのな、夏休みに何度か俺んちに来たことあるだろ?」
「うん」
「あれだってなあ、あんたが祖父さんに行くって言って許可をもらうまでに、うちに査察が入ってるんだぞ。うちなんか、いくら貴族って言っても田舎の、それも下級貴族だ。あんたと俺が友達としてつきあうにふさわしいかどうか調べられてたってわけ」
「……」
ルイの顔色が青くなる。
「幸い本当に田舎の純朴な貴族だってわかったんだろ。祖父さんから許可は得られた。お陰で何年かは俺んちで夏休みを過ごしたよなあ。それでも一泊してすぐに帰ってたけど。しかもあんたんちの馬車が送り迎え。……あんた、すげえ箱入りだったんだぞ」
「……そ、そうだね……」
ルイは申し訳なさそうにうつむいたが、それでも何かに気づいたようで、はっと顔を上げた。
「ねえ、ディル。ちょっと変だよ」
「なにが?」
「祖父がディルの家を調べて、何もやましくもあやしくもないってわかった家柄なのに、どうしてご領主様に反逆したなんてことになったの?」
「だから濡れ衣なんだって」
ルイはようやく全てに納得がいったように頷いた。
「俺の親父を陥れたい奴がいたってわけさ。俺を逃がしてくれた人から聞いたんだよ。俺も調べて裏はとってある。だが決め手には欠けるんだ」
「なるほどね」
キリムが頭をかきながら階段を下りてきた。
「どこから立ち聞きしてた?」
ディルが上体を起こしてキリムを見上げる。
「立ち聞きなんて人聞きの悪い」
「じゃあバラバラ死体」
「そこから離れろ! てめえだって男なら同じ様なもんだろが」
「俺はルイをバラバラ死体にはしてない」
「そりゃまだ剥いてねえからな」
キリムとディルはにらみ合った。
「女なんて中味は同じだ」
ルイは沸騰したヤカンをにらみ合うふたりの前につきだした。
「朝っぱらからやめて! お茶! 飲むでしょ?!」
ディルとキリムはふたり同時にルイを振り返った。
「もー、ほんとに。仲良くなったのか悪くなったのか……」
ルイは茶碗を差し出しながらぶつぶつ言った。
「仲良くなんかなれねえぞ。なにしろ敵なんだから」
キリムが茶をすすりながら言う。
「何言ってるの! 昨夜は私たちを守るって話じゃなかったの?」
「ありゃヴィーが勝手に言ったことだろ。俺はルイを守るんだ」
「同じことじゃない。ディルを守れば結果的に私も守れる」
「そこが気にくわねえ」
キリムはひときわ大きな音を立てて茶をすする。
ディルはふてくされたように横を向いて茶を飲んだ。
ルイはため息をついてから、ふとキリムの腰に目をやった。
「あれ?……ヴィー、戻ったの?」
キリムは『夜明けの星』に左手を添えた。
「ああ。なんか疲れたとか言って。眠り足りないんだろ」
「私といたときはよく眠ってたよ?」
キリムは横目でルイを見る。
「あれはなあ、人の姿をとってるときは、一応ばれないように寝たり起きたりしてるんだが、基本的にナイフなんだ。結構疲れるんだってよ。人でいるってのはな」
「なんだか、可哀相だよねえ。何度聞いても。……元に戻れないのかなあ」
「ヴィーはおまえが戻してくれるって言ってきかねえぞ。どこにそんな力があるのか、俺にはさっぱりわからねえが、おまえの結界は間違いない。ディルなんか忘れて、俺の女になるとここで誓え。それなら面倒だがディルも一緒に守ってやる」
「冗談じゃない!」
ルイとディルが同時に叫ぶ。
「あー、もー。どうしてこの男はこうなんだか」
ルイは天井を見上げてつぶやいた。
「……ま、どっちでもいいんだがな、ディルのことは。それより、ヴィーが寝てるんじゃ食いもんが出てこねえ。もう昼になるし、市場に食事できるところなんかねえのか? ずっとここにいたんじゃ退屈だし、昼間に少し出かけるくらいならいいだろ?」
キリムは茶碗を置いてルイとディルを見る。
「……サンドイッチくらいなら作れるぞ」
ディルがぼそりと言う。
「てめえの料理なんざ食えるか」
「……うるせえな。今時料理もできねえようじゃ嫁なんか来ないぞ」
「また! ふたりともいい加減にして! 丁度いいから買い物と、ついでに食事に市場に行こうよ。私も出かけたい」
「三人でかよっ!?」
ディルとキリムの声は同時だった。
***
昼近い市場は人もまばらだが、夜中しか開いていない店はともかく、若干営業しているところもある。
きつい薬草や香草、茶葉の香りや焼けた肉の匂いがする方へと、先頭で歩いていたディルは向かっていく。
「もうちょっとゆっくり歩いてよ!」
ルイが一番後ろから声をかけた。
「ふたりとも早いってば。開いてる店は少ないけどさ、ちょっと見ていかない?」
「あ~、腹ごしらえが先」
キリムが面倒そうに振り向いて言う。
「あとでいいだろ、ルイ。こいつを黙らせないとうるさくて」
ディルがキリムに向かって顎をしゃくった。
「俺は味にうるさいぞ。店にも女がいないとこは許さないからな」
「贅沢いいやがって。俺の朝飯のいきつけはここしかねえんだよっ」
ディルは店先の小さな看板を指さす。
キリムがのぞき込んで頷いた。
「ほほう……俺の好きな茶があるな。パンとチーズと香草の……ってやつにするかな」
「てめえが茶の選択ってタマかよ。偉そうに」
「お貴族さまがどういう口のききかたするんだ」
「あんたに言われたくないね。正体不明の真っ黒野郎」
「馬鹿じゃねえか。黒ってのはな、一番男らしいんじゃねえか。あんたみたいに金髪で青い目の優男にゃ、ルイが好きそうなぴらぴらしたシャツが似合いだもんな。妬くな、妬くな。俺が格好いいからって」
店の前で言い合っているふたりに追いついたルイは呆れて口を開けた。
「こんなとこでやめなよ。恥ずかしい」
ディルが店の扉を開くと、カランと鈴の音がした。
「いらっしゃい。……おや、ディル。珍しいね」
痩せた青年が微笑んだ。
「朝飯~。看板のね。こっちのふたりも同じでいいから」
ディルがテーブルについてルイとキリムを指さす。
「チーズは珍しいのが入ってるよ。水牛のやつ」
「いいよ、それで」
「パンは今上がったばかりだから、ほかほかだよ。お茶にミルクは入れる?」
「あ、お願いします!」
ルイが声を上げた。
店の青年が振り返って首をかしげる。
「ディルの友達?」
「まあな。あ、こっちの黒いのは友達じゃねえから」
「じゃあなに?」
「店子。俺、大家さん」
「親父さんの部屋を貸してるの? こっちの人も?」
青年はルイを指さした。
「はい、屋根裏です」
ルイは馬鹿正直に答えて頭を下げた。
「あんたは友達だろ、ルイ」
「そうだけど……」
青年が突然笑い出した。
「ディルの友達らしいわ。あっはははは」
彼は笑いながら温かい茶とミルクをテーブルに置いた。
お腹がふくれたらしいキリムは満足そうに茶をすすっていた。
「あ~、やっぱこれだ。この茶にミルクは最高だね」
ルイも感心したように頷く。
「ほんと。私もミルクは好きだけど、ここのところ飲めなかったから嬉しいなあ」
「……最初っから俺と暮らしてればミルクくらいいくらでも飲ませてやったのに」
ディルが呟く。
「そういえば、ヴィーに初めて食事を頼んだとき、肉が食いたいって言ったよなあ。おまえ、本当にひとりで暮らしていけると思ってたのか?」
キリムがチーズの載ったパンの、最後のひとかけらを食べながら言う。
ルイは無言でキリムとディルを見比べた。
「ま、世間知らずもここまで来ると、逆に暮らしやすいのかもな」
キリムはまた茶をすすった。
「あ!」
突然ルイが声を上げる。
「なんだよ?」
ディルが足を組み替えた。
「……お財布……忘れた……」
ディルとキリムは呆れた顔でお互いを見た。
「俺が払っておくから、先に出てるといい。ルイはなんか買い物したかったんだろ?」
そういうとディルは上着のポケットから財布を取り出した。
中から銀貨を5枚出してテーブルにおく。
「これくらいあれば何か買えるだろ。とりあえずの昨夜の給料」
「あ……ありがと……」
ルイは申し訳なさそうに銀貨を取るとポケットに入れる。
「じゃあ先に行くか。ルイ、俺がつきそってやる」
キリムが立ち上がってパンくずを払った。
「……え……? あの……市場を見て回るんだけど……いいの?」
キリムに向かって言うが、あとの答えを求める先はディルだ。
ルイはキリムとディルを何度も見る。
ディルはため息をついてから頷いた。
「俺は香水の調合もあるし、先に家に帰ってる。行ってこいよ」
ルイは嬉しそうに立ち上がった。
「ありがとう、ディル。すぐ帰るから!」
言うなり店の扉を開けて飛び出して行く。
キリムは慌てて跡を追う。
ディルがまたため息をついて足を組み替えた。
「……ふふ~ん。なんだか知らないけど、あの色の白い子が好きなんだね?ディル」
店の青年の言葉に、ディルは飲んでいた茶を吹き出しそうになった。
「余計なお世話だよ」
「いやあ、意外だなと思って……。まあ、あれかな? ここら辺りの女の子に囲まれてたら、やっぱ幻滅しちゃうものなのかな?」
今度ばかりはディルは茶を吹き出した。
「しょうがないねえ。黙っといてあげる。現実は厳しいものだよね」
「あんたなんか物凄く勘違いしてるぞ! 訂正しろ! その脳みそ!」
ディルが汚れた上着を拭きながら文句を言うその前で、青年は笑いながら空いた食器を片付けていた。
***
ルイとキリムが市場のどの店へ行ったのかは知らないが、自分には仕事がある。
ディルは先に片付けなければならない香水の調合を思い出しながら家路についた。
市場から細い路地に曲がり彼の店の裏口へ出て、その鍵を外す。
台所を通って店との間の扉を開けると、軽く店の扉を叩く音がした。
ディルが近寄ると外で女の声がする。
「……やっぱりまだ寝てるのかしら……」
ディルは客が来たのかと思い鍵を外した。
扉を開けると見かけない女がひとり立っている。
「営業は夜だけど……」
ディルがそういうと、女が申し訳なさそうな顔をした。
「あっ、ごめんなさい……。あたし、マリーベルに頼まれて……」
「マリーベル……?」
「ええ……」
女は遠慮がちに頷いた。
「あたし、新しくあの店に入ったんです。マリーベルがこちらに何か注文してるって……それで……」
「まあとにかく……」
ディルは女を店に入るよう促した。
女が店に入るとディルは扉を閉め、カウンターに回って注文を書き付けた紙を探した。
「マリーベルの注文は難しいんで、ちょっと日数がかかるんだが……」
そういってカウンターから紙を取り出し顔を上げると、目の前に女の手のひらがあった。
「な……」
「アンリ・クローディル。真実その名が汝のものなら、我が契約の魔物を見よ」
女の言葉が終わるやいなや、扉から数人の男が入ってくる。
ディルはカウンターの前で紙を持ったまま動けなくなっていた。
「他愛ない。こいつに間違いない」
女が男達に頷くと、男達がディルに麻袋をかぶせ、外側から紐で縛った。
ディルの手に持っていた紙がひらりと床に落ちる。
「どうせ昼間は殆ど人気のない街。だがお気をつけ。おまえ達に我が主の祝福を」
女はディルを担いだ男達に手を振った。
すると彼らの姿が透明になる。
店の扉がひとりでに開き、見えない男達が外へ出る。
彼らは細い路地を通り抜けディルを運んでいった。
女は店の中をひととおり見回してから床に落ちた紙を見下ろした。
そこにあるマリーベルという名を見ると、唇の端をくいっと持ち上げる。
「女という名の魔物よの」
くつくつと喉を鳴らして笑いながら、女はディルの店から出て行った。
***
「キリム! いつまでそこにいるの!」
ルイがキリムの上着の裾を引っ張りながら言う。
キリムは刃物の手入れをする用品が揃えられている店の前でずっと立っていた。
太った店主が商品の説明を延々続けているのだが、キリムは聞いているのかいないのか、砥石のひとつを見つめたまま動かないでいる。
「ねえってば……。もう私の買い物は終わったから、帰ろうよ。ねえ。見てるのはいいんだけど、買わないんなら迷惑だよ。キリム~」
「おやじ、これ、どこで手に入れた?」
キリムはようやく店主に話しかける。
「旦那。だからさっきから言ってるじゃねえですか。東のずっと果てですよ。あたしらの店はそりゃ名門どころの製品揃いですって。砂漠を越えて、雪山を越えて、ずっとその先から仕入れてるんでさ。隊商ごと買い取ってるんですよ。間違いねえですって」
「……なんだ。俺は南の海を越えて大河を渡った果ての国の品を探してるんだ」
「それはねえですよ~。何度説明を聞いてなすったんで? 勘弁してください」
店主は汗を拭きながら椅子に腰掛けた。
「世話を焼かせる客だねえ」
「本当に、すいません。一生懸命説明してくださったのに、聞いてなくて」
ルイが頭を下げる。
「もしその国の品を手に入れたのなら、俺に一番に教えてくれよ。また来る」
キリムはルイの肩を抱き踵を返す。
「あ、あの……ご亭主! すみませんでした!」
ルイが肩越しに振り返って叫んだ。
「キリムったら、あの人可哀相じゃない。この寒いのに、汗かきながら説明してくれてたんだよ?」
「太りすぎだからだろ」
キリムは足早に市場を通り抜けていった。
ディルの店に戻るまで、キリムはルイの肩を抱いて歩いていた。
大股のキリムとルイの歩調は全くあわず、ルイは殆ど小走り状態。
たどり着いたときには息が上がっていた。
裏口の前でようやく解放され、ルイは呼吸を整えた。
キリムはなんの疑いもないように裏口の扉を開いたが、台所に一歩入ったところで立ち止まる。
ルイが不思議そうに顔を上げてキリムを見た。
「どうしたの?」
キリムは人差し指を唇に当ててルイを見る。
ルイの胸にはいいようのない不安が押し寄せた。
キリムが足音を立てないように店と台所を隔てる扉に近寄る。
扉の向こうを伺うように顔を近づけ、大きく息を吸い込むと一気に開いた。
店の中は特に変わっていると思う様子はない。
だが――
キリムの後ろからのぞき込んだルイが、床に落ちている紙に気づいた。
「……これ……ディルの注文書……」
紙を拾ったルイが振り返り、キリムに見せてからカウンターに置くその瞬間。
ルイは弾かれたように背をそらした。
カウンターから伝わるディルの動揺――
「まさか……でも、これ……」
わずかに残った魔法の軌跡を、ルイは辿り始めた。
「……キリム、大変だ……」
「何がわかった?」
「これは、随分、古い契約の魔術……。私が使うような軽い金縛りなんかじゃない。まさか、こんな人間がディルを追っていたの?」
キリムはルイの肩に手を置いた。
「……でも、でも……これじゃあ……」
「その魔法を使う奴を知っているのか?」
ルイは不安げにキリムを見上げ、一度頷いてから何度も首を振った。
「……これじゃあまるで、お祖父さまだ……。じゃなきゃ……」
「知ってる奴なんだな?」
ルイは何度も何度も首を横に振った。
「おまえが知ってる奴がディルをさらったのか?」
「……! ……さらった……?!」
「そうだろう? 『夜明けの星』が砥石に気を取られたんだ。これから戦いが起こる前触れだ」
「ヴィーが? ……これから悪いことが起こるの?」
ルイはキリムから目をそらして魔法の軌跡を追うことに集中した。
「ルイ?」
キリムはルイの顔をのぞき込む。
「お……祖父……じゃない。……この契約の主は……オーギュスト……」
「……オーギュスト……?」
ルイは掴んだ細い糸をしっかりと握るような仕草をした。
「オーギュストだ。私たちよりふたつ上の学年だった……。成績が……一番で……みんな知ってる……。総代だった……。お祖父さまも、知ってる……」
ルイは握った手のひらを開いてから何度か振り払う。
「ルイ?」
放心したような顔でルイは店の壁を見た。
「オーギュスト……お祖父さまが、私の……婚約者……だと言った……」
「ルイ」
ルイはキリムに名前を呼ばれても、焦点の合わない目を彷徨わせるだけ。
「まさか……彼がディルをさらった? ……何故……?」
「ルイ」
「……意味が……わからない……」
「ルイ!」
「軌跡が……本当なら……」
キリムはルイの頬を軽く叩いた。
「しっかりしろ!」
ルイは叩かれた頬を手で覆った。
「……うん、起きてるよ……キリム。……そう、軌跡は偽装できないんだ。契約の魔術は、特に」
「じゃあ間違いなくそいつなんだな? おまえの祖父さんじゃないんだな?」
ルイは力なく頷いた。
「なんで? ……なんでなの。……軌跡を消すことだってできるのに……どうして、残して……」
「そいつは俺たちに挑戦してるんだ。ディルを返して欲しかったら追いかけてこい、と」
キリムはルイの顎を持ち上げた。
「ルイ、そいつの跡を追え。ディルを助けるんだろ? まさか放っておいたりしないよな?」
「うん」
はっきりと目に力を込めて、ルイは頷いた。
ルイの目に、豪華な金色の巻き毛が思い出された。
オーギュスト。
彼の顔を知らない学生はいない。
「ディルは私が一番の有名人だって言ったことがあるけど、彼の方が有名だったよ」
オーギュストは学校中、何処へ行っても人だかりの真ん中にいるような学生だった。
「教授達がね、言ってた。彼はこの学校が始まって以来の天才だって」
――でも知ってる。
お祖父さまの方が偉大なんだ。
そして、お祖父さまの方が彼の父よりも学校に貢献してる。
オーギュストの家は2番目。
「トラムで2番目……」
ルイはキリムに向かって言った。
「祖父は私を大臣にするつもりはなかったけど、私の夫は大臣じゃなくちゃいけない。私は一人っ子だけど、祖父の跡継ぎにはなるほどじゃないって祖父は思ってるから。オーギュストは次男だし、うちに婿養子に来ることに問題はない……。あ、あのね……私の父は、祖父の跡継ぎにはほど遠い人だし、彼なら絶対に祖父の跡を継げるから」
ルイはそういってため息をつく。
「……なんだ。またひとり敵が増えるのか……」
キリムは口の中で文句を言った。
「……なんか言った?」
「いや、別に」
「そ……。とにかく、そんな人なの。だから自信満々に軌跡を残していくんだよ」
ルイは本当に心の底からため息をついた。
「……ディル……今頃、どうなってるんだろ……」
「なあ」
キリムがテーブルに身を乗り出した。
「この際、このまま黙ってここにいて、次に相手がうってくる手を待ってみないか」
「ええ!? 冗談じゃないよ! 相手はオーギュストなんだよ! ディルが今頃五体満足でいるかどうかの瀬戸際なんだ! 早く、追跡魔法をやらせてよ」
「とは言ってもな、ルイ。俺にとっては好都合な状況なんだ。わかるだろ?」
「ディルがいないから?」
「それもだが、敵がふたり、戦ってるわけだ。どっちが倒れるにしろ、ひとり減る」
「それがディルだなんて嫌だよ! 助けにいこう!」
「まあ、話を最後まで聞けよ。仮にそうなったら、次はおまえを目標にするだろ? そうすりゃ俺の出番ってことになるじゃねえか。嫌でもよ」
「それじゃ遅いよ! 馬鹿! もう!」
ルイはディルの店のカウンターを引っかき回してチョークを探し出した。
普段ディルが案内の黒板に使っているものだ。
突っ立って見ているキリムの足許に、ルイは魔法陣を書きその真ん中に立つ。
「どうするんだ?」
キリムは一歩下がって訊ねたが、その問いをルイは無視した。
深呼吸をして手で印を結ぶ。
目を閉じ口をかたく結んで神経を集中した。
魔法陣は光を発し、すぐに床がそれを吸収する。
ルイは目を開いて魔法陣の外に出た。
「ルイ? 何をやったんだ?」
「結界を追いかけさせたの。ディルの結界をね。ここを無理矢理こじ開けて出入りしたはずだから、その道筋が残ってる。ここまで軌跡を残していったのなら、必ず。結界は作った本人と一緒に少なからず移動するから、こじ開けられても追いかけられるんだ」
ルイは魔法陣のすみに書いたかたつむりのような模様をじっと見つめた。
かたつむりの模様はしばらくすると、その螺旋の形を立体にしてみせた。
ルイが右手の人差し指をその模様に近づけると、するするとひも状になって指に巻き付く。
魔法陣は光の時と同じように、床に溶けるように消えた。
「帰ってきた。随分早い。そう遠くないかも。……でも……もしかしたらさっきの食堂かな」
ルイは指に巻き付いた虹色に光る透明なひもを見つめた。
「それでどうやって追いかけるんだ?」
「外に出て指の示す方向へ行くの。それだけ」
「よし」
キリムが店の扉に鍵をかける。
「裏口から出るぞ」
ルイが頷いてキリムの跡を追った。
***
ディルは不思議な夢の中にいた。
虹色に渦巻く水をたたえた深い沼。
手前には、こけむした倒木。
まばらな林の中に、蛇が巻き付いた細長い剣。
――ここはどこ?
剣の向こうに見覚えのある靴がある。
先が尖ってて、宝石のビーズを刺繍した、馬鹿みたいに派手な――
視線を上げ靴の持ち主の顔を確かめようと、ディルは顔を上げた。
「オーギュスト……」
目を開けると、見知った男の顔があった。
「お目覚め?」
「……相変わらず、だなあ……」
ディルはぼんやりと呟いた。
「久しぶりだね、アンリ。元気そうでなにより」
にっこりと笑う人の良さそうな男。
だがディルはオーギュストに一発お見舞いしてやりたい気分になった。
変わらない、そのド派手な衣装に腹が立つ。
なんと言っても全てが靴と同じ、キンキラキン。
「……なにが……」
言いかけて動かそうとした右腕が、がつんと何かに引っ張られる。
驚いてディルは右腕の先を見た。
「手に触れている部分は皮だから、それほど痛くはないだろ? でもあんまり暴れると痛いかもよ」
ディルの両腕は壁に打ち付けられた木枠から伸びた、太い鉄の鎖に捕らわれている。
下を見れば足まで同じ鎖で繋がれていた。
「オーギュスト! てめえ相変わらずいい趣味してやがるな!」
ディルは目一杯腕を伸ばしてオーギュストに近寄ろうとした。
「いやだねえ。なんだい?その言葉遣いは。1年近くも放浪した所為でおかしくなっちゃったの? 貴族の誇りは何処にいったのかな」
オーギュストは嬉しそうに言った。
「てめえ、何しに来やがった! 俺を追っかけるのはてめえの仕事じゃねえだろ!」
「そうなんだけど、こっちも探してる人がいてね。ついでに君をみつけちゃったもんだから、ちょっと手柄を増やしてみようかと」
「なにい?」
ディルは噛みつかんばかりにオーギュストを睨んだ。
「君に言ってもしょうがないかも知れないけど、ルイーズが、ね……いなくなっちゃって」
ディルはその名を聞いて目を見開く。
「アルベール卿の頼みだから仕方ないんだけど。……というよりも、僕の婚約者なんだもの、探して当然。君はおまけだね」
オーギュストはニコニコしながら髪をかき上げた。
「……オ、オーギュスト……あんた、髪の毛、まっすぐじゃねえか。自慢の巻き毛はどうしたんだよ?」
ディルは話題をそらそうとする。
「……ん? 今トラムじゃ直毛が流行なんだ。ここじゃ流行ってないの? あ、田舎者には関係ないか」
オーギュストはけたけたと笑い声を上げた。
「それはともかく、ルイーズがみつからないと、僕と結婚できないから、可哀相だろ? 早くみつけてあげなくちゃねえ。アルベール卿の跡継ぎは、僕しかいないんだから」
オーギュストはにやにやと笑い続ける。
ディルは忌々しそうに唇をひん曲げた。
「君をみつけたのは案外、手柄なんてもんじゃないかもね。ルイーズとは仲が良かったんだろう? 学校じゃ、よく君たちの姿をみかけたものだけど」
「知らねえよ。俺はあんたがご存じの通り、卒業前に逃避行だからな」
「ま、そうだよね。でもルイーズは君を追いかけたふしがあるんだ。……追跡魔法って知ってる?」
ディルの背中に冷たい汗が流れる。
「ルイーズはどうやらそれを使ったらしい。古代の魔法なんでね、ちょっとばかりやっかいなことに、痕跡が残りにくいんだ。でも、契約魔法を使う僕ならではのね……あ、こういうと語弊があるかなあ。アルベール卿もお使いになるし……ま、いっか。とにかく、もう一段深い階層を追跡できないと、軌跡を追えないんだ。それで跡を追ったんだけど、ルイーズは、流石にアルベール卿の孫なだけあって、そう簡単には追跡できなかった」
オーギュストはうっとりと何かを思い浮かべている様子だった。
その顔を見て、ディルは少々吐き気を覚える。
――こいつ、服のセンスと頭の中味がどうにかなってやがる――
「本当に苦労して、やっと微かな軌跡を辿り始めたとき、偶然にも君の結界の痕跡を見つけてしまってね。ついでだから、その軌跡も辿ってみた、と」
オーギュストは腰に回していた手をディルの前でぱっと開いた。
「そうしたらちゃんと君が現れるじゃないか。だめ押しに本人確認を、僕の眷属にやらせてみた。ま、そういうこと」
心から嬉しそうにオーギュストは微笑む。
「……黙って笑ってるだけならお人好しにしか見えねえな……」
――洋服はどうにかしてやがるが――
ディルはぼそりと呟いた。
オーギュストはそんなことには気づきもしない。
「女には注意しなくちゃダメだよ、アンリ」
くるりと振り向いて、オーギュストはドアに向かって歩いていった。
ノブを掴んで少し開けると、外に向かって手招きをする。
細く開いていたドアが一気にひらかれ、ディルの店に来た女が現れる。
ディルはごくりと唾を飲み込んだ。
「紹介しよう。アンリ、これが僕の眷属。リリトだよ」
リリトは無表情にディルに近づき、貴族の女性がする礼をした。
「クローディルのご子息。お見知りおきを」
「消え失せろ!」
ディルはリリトを蹴りつけようと足を動かし、鎖に引かれて倒れかかる。
「お気をつけ遊ばせ」
リリトは妖艶な笑みを浮かべ、ディルの肩を支えた。
「アンリ、気に入った? リリトはルイーズより美人だろう? 僕がこの姿をとるように命じてるんだ。よければ君にも貸してあげるよ」
ディルは疲れた表情でリリトを見下ろす。
「クローディル殿、今夜などいかがか。我が主の用が済み次第」
くすくすと笑いながらリリトがディルの頬を撫でる。
「そうそう、君がルイーズの居場所を教えてくれたなら、リリトを貸してあげるよ。ご褒美に」
オーギュストはリリトの後ろからディルに話しかけた。
「誰が。知っててもてめえに教えるわけねえだろ。ルイーズはてめえが嫌で逃げ出したんじゃねえのか? へっ」
ディルはオーギュストの足許に唾を吐きかけた。
「おっと、危ない。自慢の靴が汚れる。アンリ、お行儀が悪いねえ」
「何が自慢だよ。趣味の悪い。あんた昔からセンスが悪すぎら」
「おお、なんということ! アンリは放浪に疲れ果て、本当の上質な物を忘れてしまったの? それとも、田舎貴族じゃそんなもの、手に入れたくても無理だった?」
「てめえの脳みそよりは田舎貴族の方が何倍もマシだ」
「どうやら、本当にお行儀を忘れてしまったようだね。僕が躾け直してあげなくちゃ」
オーギュストはリリトに右手を差し出した。
リリトがその手に重ねるように左手を出す。
一瞬の閃光のあと、オーギュストの手に鞭が現れた。
「アンリ。ちょっと痛いかも知れないけど、我慢しなくてもいいんだよ。ルイーズのこと、話してくれれば、僕はすぐにやめてあげても構わないんだから」
ディルの肌が粟だった。
ルイは右手の人差し指が目指す方向を確認した。
「……市場とは反対だ」
呟いてそちらへ足を進める。
キリムがルイを見下ろしながら並んで歩く。
「なあ」
「うん?」
「こっちって、俺が行ったらまずい店があるんじゃねえのか?」
ルイはキリムを見上げた。
「……そうだね……」
「なんか起きてもおまえはディルを探せよ。しょうがないから俺は『夜明けの星』で戦う」
ルイは人差し指を見て、もう一度キリムを見上げる。
「……そうだね。自分で解決したほうがいいよ。私が守ってるだけじゃ、一生この道は通り抜けられないから」
「くそ……、なんだか立場が逆転したな」
キリムは小さく呟いた。
角を曲がり、ふたりが初めてであった路地にさしかかる。
すると明るい声でルイの名前が呼ばれた。
ルイは掲げていた人差し指をさっと背中に隠した。
路地を覗くとマリーベルが立っている。
「もしかしてあたしの店に来てくれた? 嬉しいわあ。寝ないでいた甲斐があったわねえ」
マリーベルはルイに抱きついた。
「うわっ!……と……」
ルイが悲鳴を上げる。
マリーベルは抱きついたルイの顔を見上げた。
「……あら……? どうかしたの?」
「……いや、あの、別に……」
「さあ、あたしの部屋に来てよ。遠慮しないで」
マリーベルはルイの首に回していた腕をほどくとルイの左手をとった。
「こっちよ」
そういって路地の奥を指さす。
「あ、あの……ね……。今日は連れが一緒なので……」
「え?」
マリーベルは今までルイにしか気づいていなかったようで、ルイの後ろにいるキリムをふいと見上げた。
「あら、まあ、随分と背の高い人ねえ。ふふふ。いいわよ、ふたり一緒でも」
ルイはマリーベルのいう意味がわからなかったが、ぶんぶんと首を横に振った。
「いや、だから……いま捜し物をしてて……」
「あらあ、何を? 手伝ってあげましょうか?」
「い、いや、結構」
「遠慮しなくていいのよぅ。ルイったら、ほんと可愛いんだから」
マリーベルはしなを作ってルイの手を両手で握りしめる。
「さあ、ふたりとも、まずはあたしの部屋に来て。それで捜し物の話を聞いてあげるわ」
マリーベルは強引にルイの手を引いて路地へと入って行った。
キリムが問題を起こした娼家は、どうやら昼間はかたく戸を閉ざし休憩している様子だった。
用心棒のひとりが玄関先の揺り椅子に座って眠りこけている。
ルイとキリムはその用心棒が起きないように祈りながら、マリーベルに続いて足早に通り過ぎた。
マリーベルは飛ぶような軽やかさで自分の店に入っていくと、玄関先で大声で叫んだ。
「ルイが来てくれたわよぅ!」
「わー! マリーベル!」
マリーベルの声で起きている女や、肌や髪の手入れをしていた女達が集まってくる。
雑用を片付ける小さな少女までが台所からやって来た。
「まあ、本当だわ。昨夜は急に店じまいなんかするから!」
「ディルの所為よねえ。ルイ、あたし、あなたにマッサージをお願いするつもりだったのよ」
「そうよ。石鹸も注文したいわ」
「ディルの香水とおそろいでね」
女達が口々にいいながらルイを取り囲む。
キリムはにやにやしながら玄関先に立っていた。
そこに雑用の少女が近寄っていく。
「お客さんは?」
にっこり笑ってキリムに問いかけた。
「ああ、俺はルイの連れなんだ」
「3人は女将さんに怒られるよ。料金倍増しだし」
「いいんだ。話をしに来ただけだから」
「じゃあここで」
少女は玄関ホールにある応接セットを指さした。
「お茶を用意するから」
少女が走り去るとマリーベルがルイに言った。
「いまエメがお茶の用意をしてくれるわ。そこの椅子に座って」
マリーベルがルイの腕を引いてソファに連れてきた。
ルイが座るとキリムはその隣に腰を下ろす。
マリーベルがにっこりと笑い、集まっている女達に話しはじめた。
「ねえ、みんな。ルイが捜し物してるんですって。手伝ってあげましょうよ」
「何を捜してるの?」
女のひとりが声を上げた。
「あ、あの……いや、自分たちで、捜す……から」
ルイは申し訳なさそうに左手を振った。
「遠慮しなくてもいいのよ!」
「そうよ。ディルの店の人なんだから、あたし達には大事な人よ」
「ディルの店がなかったら、古くさい雑貨屋でしか化粧品を買えないもの」
「この商売にはけっこう重要なのよ」
「あの店のセンスの悪い化粧品を買うくらいなら」
「本当よね。ディルが跡を継いでくれて助かったわ」
女達はそれぞれがうなずきあいながら言った。
「ルイ、これは本当よ。ディルがあの店をやってくれるから、あたし達は綺麗にしていられるの。ディルの香水はお客さんにも評判いいしね。そこにあなたみたいな都会の人が来たんだもの。垢抜けてるし、あたし達みんな、ディルにもあなたにも期待してるわ」
マリーベルも頷きながら言った。
ルイはキリムを見上げ、不安そうな表情をする。
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