第2話
「ルイ」
二人が仲良さそうに料理の段取りを話し合っているところへ、キリムはしびれを切らしたように割って入った。
「ああ、キリムは何食べたい?」
「なにって……あのなあ……俺たち、さっき食ったばっかりだぞ」
「ああ、そうだね。色々あったからお腹空いちゃった……あ!」
キリムは素っ頓狂な声を上げたルイを見てニヤリと笑った。
「思い出したか?」
「うん、そうだ。そうだった。あー、ディル。お茶の用意だけして」
ルイの言葉にタマネギを剥いていたディルの手が止まった。
「ん?」
「ご馳走があるんだよ」
ルイが微笑んでディルに告げる。
キリムが目を閉じて何かを呟く。
暫くするとテーブルの上に白い光があふれ出した。
ディルがタマネギを置いて近寄ると――先ほどキリムとルイが食べた残りではあるが――まだ温かい料理がずらりと並べられていた。
「残り物だけど、これみんな美味しいんだよ。ディル、鶏、好きだよね。切り分けてあげる」
先ほど二人が使った食器は全て綺麗になっているし、半分残っていたワインのボトルはそのままだったがグラスは新しいものだった。
どれも今回はちゃんと3人分揃っている。
「本当に『夜明けの星』って便利だよねえ。さあ、ディル。毒なんか入ってないから食べて」
ディルは椅子に座ってルイが切り分けてくれた鶏肉を睨み付けていた。
「なんなんだ? どいうこと?」
「まあ、まあ、にいさん、ささ、おひとつ」
キリムがワインをグラスについだ。
「このわけも話さないとね」
ルイは牛肉のシチューを皿に取り分けるとそこへ野菜をたくさん載せた。
「はい、野菜も食べてね」
「……う、美味い……」
「でしょ?」
「ルイが作ったのか?」
「ううん。これは『夜明けの星』」
「はあ?」
ディルはよほどお腹が空いていたのか食事が美味しいのか、すごい早さで皿の上のものを片付けていった。
「で、『夜明けの星』ってなんなのよ?」
ディルは空いている暇のない口が空いた少しの間に問いを発した。
「キリムの持ってるナイフのこと。学校でやったの覚えてる? 魔法のかかった剣の一つだよ」
ディルは怪訝な顔をして鶏肉を頬張った。
「生き物に呪いをかけて道具にするってやつ、あったでしょ。昔の話だから今は誰もやらないって言ってたけど」
「ああ、あの髭のじいさんの教授だな。はい、はい、なんかそんな強烈な魔法の話あったなあ」
「あれが実在したってわけ。殆ど伝説級な大昔の話で、実際に博物館にあったのは模造品だったじゃない。まあ本物は教会のどこかに納められて厳重に守られてるらしいけど」
「そりゃあんたのじいさんの管轄だろ。俺みたいな田舎者はそんなこと知らない」
「あれ? 学校から見学に行かなかった?」
「覚えてねえなあ。……うーん」
「まあいいや。とにかくそれ」
「うん、そんで?」
「キリムはその正当な主なんだってさ」
ディルは食べている口と手を休めると、キリムを見た。
「そういうこと。『夜明けの星』の主」
キリムは腰に差していたナイフを持ってディルに見せた。
「おおっ! ほんとかよ! 信じらんねえ、本当に?」
「今おまえが食ってるもんはこいつに出させた。それが証拠に俺たち、何度おまえの目の前で消えたり現れたりした? ん?」
ディルは口を開けてキリムが差し出しているナイフを穴が空くほど見つめた。
「すげえなあ。確かに半端じゃねえ魔力が宿ってるのはわかる。だけど、結構普通の見た目だな。皮の柄に鞘も皮か? 柄には石がはまってるけど、あとは銀? 芸術品みたいな感じじゃねえんだなあ」
「当たり前だろう。実用品にごてごて飾り付けてどうする」
「いやあ、でもいかにもって感じじゃないから……ううむ」
ディルは皿の残りを一気に口へ放り込んだ。
ルイは目を丸めてそれを見る。
「とにかく、まあ、昨夜の帰り道、市場に通じる路地でキリムに会って……その、なんというか……」
ルイは下を向いてから話を途切れさせた。
「お嬢様には言いにくい話だろうから俺が話す。昨夜、その先の娼家で俺は女を買ったわけよ。そいつが店の一番手だっていうからよ、随分期待してなあ」
ルイが途中で顔を上げキリムを睨む。
「ところがどっこい、大いに期待を裏切ってくれちゃったわけ。それで俺は金なんか払うもんかってその店から飛び出した。そしたら目の前にルイがいた。ルイは咄嗟に物理的防御の結界を張って俺を守ってくれたわけ。一目惚れされるくらいいい男だと、素晴らしい出会いがあるってもんよ」
頷くキリムにルイの平手が飛んだ。
「バカ言ってるんじゃない。あんたが飛び出してきたから自分の身を守っただけ。それをあんたが横取りしたんだ。『夜明けの星』は物理的な呪文を全て無効にするんだから」
キリムは鼻の頭をさすりながらルイを恨めしそうに見た。
ディルがごくりと口の中の食べ物を飲み込む。
「物理的呪文を全て無効にするだって? ……ありえない……」
キリムはにやにやしながらディルに向き直る。
「それができるから『夜明けの星』って言うんだよ、にいさん。お陰でルイの自慢の金縛りも俺には効かないってこと。いやまあなかなかの抱き心地ではあった。ちょっと胸の辺りが物足りなくはあるが」
ルイはキリムの、今度は左頬を引っぱたいた。
「痛てえな」
文句を言うキリムを物凄い形相で睨み付けているのはルイだけではなかった。
「おい、のっぽ。あんた今なんて言った?」
「なにって」
キリムは頬をさすりながらにやついた。
「言葉通りの……」
「この口がーっ!」
ルイはキリムの後ろに素早く回りこみ、両頬をつねる。
「ひへへへへ……ははへほ」
「嘘! 嘘だからっ。ディル。こいつは初めっから口がおかしいんだ。私がそんなことしないのはあんたが一番よく知ってるよね?」
ルイにつねられながらもにやついているキリムと、その後ろにいるルイを、ディルは交互に見た。
「こいつが私の結界の中に勝手に入り込んで……その、『夜明けの星』の所為でキリムにだけは結界が効かないんだ。それで用心棒達の剣をかわしたんだ。……で、結局私が助けた形になった。お礼にうちまで送ってくれたんだけど、こいつってば勝手に私のベッドに潜り込んで……」
ここまで言ってルイは弾かれたようにキリムの頬から手を離した。
「……ルイ……」
ディルの両目ははち切れるかと思うほど見開かれている。
「だっ! だからって、何かあったわけじゃない!」
ルイは慌てて両手を振った。
「あ~痛。そー、そー、寒いから一緒に寝ただけで何もしてない」
キリムは両手で頬をさする。
「じゃあなんでルイの胸が小さいこと知ってるんだよ」
ディルはキリムをさらに睨み付ける。
「そんなもん服の上からでもわかる」
「男の格好してるんだぞ。下着で押さえつけてるんだから、中味までは知らないだろうよ」
「それだって触ればわかる。あんた女を抱いたことないのか?」
「ちょーっと!!」
ルイはテーブルを挟んでにらみ合う二人の間に分け入った。
「なんで私の胸の話になる?」
「大問題だからだ!」
キリムとディルは声を揃えて言った。
「触ればわかるってどういうことだ?」
「なんでルイの下着のことなんか知ってる? 商売上か?」
「ちょっとってば。なんの話してるの! やめやめ!」
ルイは左手でキリムの鼻を、右手でディルの額を押した。
「全くもう、話が進まないじゃないか。とにかく、そういうわけでお互いを助けることにしたんだ。私の結界はキリムを守ることができるし、『夜明けの星』でキリムは私を祖父から助けてくれるってことで」
キリムは嬉しそうに頷いた。
「ま、じいさんから逃げてるってのは初めて聞いたけどな、そういうこと」
「それで? なんで俺んとこに薬を買いに来たわけ?」
ディルはつまらなそうに牛肉のシチューをつついた。
「それは説明しただろ? 私の客が薬の量を守らなかったって」
ルイはディルの横に座った。
「あれは健康な男なら必要ない薬だ。じいさんだったのか?」
「ううん。まだ働き盛りだよ……」
先の言葉を詰まらせて、ルイはちらりとキリムを見た。
「言いづらそうだなあ、ルイ。しょうがないから俺が代わりに言ってやろう。そのお館様はなあ、新しい愛人にいいとこみせたくて、それでルイに薬を注文したってわけだ。張り切りって分量を多くし過ぎて死にかけた。悲しい男の習性だな」
「なるほど」
キリムとディルは同じように頷いた。
「よし。大体のとこはわかった。食事も美味かった。ご馳走様」
ディルはキリムに向かって頭を下げた。
「お粗末様」
キリムも同じように頭を下げる。
「……キリムが作ったわけじゃない」
ルイはキリムの態度に呆れた。
「で、単にお互いを守りあうっていうことだけで、別に恋人ってわけでもないんだな。安心した」
ディルは食後の茶を入れながら言った。
二人が食べ残した食事は綺麗にディルが片付けた。
空になった食器類は『夜明けの星』が消し去った。
今はディルの手作りの小さな焼き菓子とお茶が並んでいる。
「……だけどねえ、ディル。お互いを守るのは別に構わないんだけど、私がキリムから守られていない気がしてるんだ。どう思う?」
ルイは眉を寄せてディルに訊ねた。
キリムが飲みかけの茶を吹き出す。
「それって私の方が損してないかな」
「ふむ、確かに」
ディルが頷く。
「何言ってるんだ。ご馳走を食わせてやってるじゃないか」
キリムはルイに向かって言った。
「その代わりにルイを食わせるってのは、俺の納得がいかないな。……さて、どうするべきか」
ディルは腕組みをして考える。
「今思いついたんだけど、ここ、確か一部屋空いているよね」
ルイの言葉にディルの顔がぱっと明るくなった。
「いいぞ。ルイ、一緒に暮らそう」
「いや、そうじゃなくて」
ルイは申し訳なさそうにディルを見る。
「キリムを住まわせてくれないかな?」
「こいつをか?」
「ディルなら私と同じくらいの結界がはれるし、私も安心できる。ついでにキリムがディルも守ってくれるといいんだけど」
「男なんか誰が守るか」
キリムは文句を言う。
「……俺としては承諾しかねる部分があるが、ルイの頼みだし、確かにこいつとルイを一緒にしとくのは心配だな。いいぞ」
「良かった。これで今晩から安心して眠れる。ディル、ありがとう」
微笑んだルイにつられてディルの頬も緩んだ。
「冗談じゃない。誰が男と一緒に暮らしたいもんか。ルイとの約束なんだからな。こいつなんか守らないぞ。それにルイ、なんで俺のことを信用してくれないんだ。『夜明けの星』に願えばどんな大邸宅だって可能なんだって言ったじゃないか」
「お屋敷に住みたいなんて思わない」
「じゃああのアパートに部屋を増やしてやる。帰るぞ」
キリムは立ち上がってルイの腕をとろうとした。
「ちょっと待って。今あるうちに部屋を増やすなんてことできるの?」
「当たり前だろ。『夜明けの星』なんだから、なんでもできる」
「じゃあ!」
ルイが立ち上がったのでディルはルイを見上げた。
「ここで3人で暮らそう。キリム、この家にもう一部屋追加して」
キリムは目を見開いて動きを止めた。
ディルがテーブルに肩肘をついてルイを見る。
「それなら別に増やす必要なんかない。屋根裏をちょっと掃除して、家具だけ運べば3人くらい住める」
「じゃあそうしよう。キリム、いますぐそうして」
キリムは腕組みをして椅子に座り直した。
「ルイ、おまえ商売やってるんだろ。おまえの客があの部屋に来たら困るんじゃないか?」
「張り紙しとけばいいじゃない」
「ここはこいつの店だろ。商売敵と一緒に店出すつもりか?」
キリムは親指でディルを指した。
「ああ、そうか。ディル、どうしよう?」
ルイは困った顔をしてディルを見下ろした。
ディルは昔からルイのこの表情に弱い。
ルイはといえば全く意識もせずこうした表情を時々ディルに見せる。
そのたびにディルはルイの願いを聞き届けているのだが。
――畜生、わかっててやってるのか――
ディルはいつも表現しがたい気持ちに襲われるのだが、今までも何度もそれを押し殺してきた。
「構わない。ルイが昼間やって、俺は夜やる。それでいいだろ」
ディルはため息をついた。
「ディル! 本当にありがとう!」
ルイは椅子に座り直してディルの腕に手を置いた。
「なんだか面白くねえな。いくら友達とはいえ……ルイ、おまえちょっとこいつに対する態度と俺に対する態度に差がありすぎねえか?」
ルイはキリムをちらりと見る。
「そんなことは当然。いくら伝説の剣の主でも、人間性ってのは日頃の行動に表れる。私はディルをあんたの何倍も信用してる」
「ちぇーっ」
キリムが唇を尖らせるその前で、ディルはルイの言葉に感激していた。
「もしかして、今、俺ってば最高に幸せかもしんない」
「ディル、迷惑かけるけど、よろしくね」
手を取り合う二人を面白くなさそうにキリムは睨んでいた。
あっという間にルイの部屋の家具は全てディルの家の屋根裏に移動した。
とはいえ、ルイが使っていた物はベッドにテーブル、椅子が二つと薬品棚と小さな衣装ケースくらいのものである。
「普通に引っ越ししても1日かからないけどね」
ルイはそういってからストーブが欲しいなあ、と思った。
「屋根裏だからそれほど寒くはないかと思ったが、結構寒いなあ。ルイ、ストーブどうする?」
ディルが気を利かせてルイの顔を見る。
「うん、私も今それを考えていたんだけど……」
ルイはちらりとキリムを見上げた――つもりだったが――
ルイとディルは同じくらいの身長なので、屋根裏に立っていると頭のギリギリのところに梁がくる。
しかしキリムは梁を避けて歩かなければ、ずっと屈んでいないとならない。
そんなキリムの顔は梁に隠れてルイからはよく見えなかった。
「なんだ、今度はストーブか? 信用のない男によく次から次へと頼み事ができるもんだ」
キリムはすねた口調でつぶやいた。
ルイはため息をついてストーブを諦めようと思った。
そしてふと視線をキリムの腰にある『夜明けの星』に移す。
柄にはまった赤い宝石がキラキラと何度か瞬いた。
「ねえ、キリム。『夜明けの星』の石が光ってるよ」
ルイの言葉にキリムも視線を落とす。
が――
「痛て!」
目線を下げたとき頭を梁にぶつけてしまった。
「痛たた……ちきしょう。……なんだ?」
額をさすりながらキリムは腰から『夜明けの星』を抜く。
すると柄にはまった宝石は眩しいほどに光り輝いた。
「……っち。ヴィーの奴……」
キリムはため息をついてから『夜明けの星』を目の前に差し出した。
「夜明けの星よ、主に従い姿を現せ」
屋根裏中が眩しい光で溢れかえる。
「ルイ~!!」
真っ赤な髪の少女がルイに飛びついた。
「ヴィー。どうしたの?」
「寒いなら俺が一緒に寝てあげる。ストーブなんかいらないよ。でもルイが欲しいなら俺がすぐに出してあげるから、今日は一緒に寝よう。キリムからも俺が守ってあげるよ」
最後の言葉にキリムの眉が吊り上がった。
ヴィーはキラキラと瞳を輝かせてルイを見上げた。
ディルがまんまるの目をしてヴィーを見つめている。
「なんだ?この子……どこから……」
ヴィーはルイに抱きついたままディルを見上げた。
「こんばんは、大家さん。俺、キリムのナイフだから、よろしく」
「はあ?」
「言っただろ。生物に魔法をかけて剣にしたって」
ルイの言葉にディルの瞳はますます大きく開かれた。
「うそっ! こんな小さな子に……?!」
「そうなんだよ。サラデルの所為さ。俺ってば可哀相なの」
ヴィーがそういって涙ぐむと、ルイは思わずしゃがみ込んでヴィーを抱きしめた。
「ヴィー」
「ルイぃ~」
「よしよし、元気出して。今日は一緒に寝ようね。キリムの魔手から守ってね」
「うん!」
キリムは大きなため息をつくと2階へ下りる梯子に向かった。
「まあそういうわけだから、ここはもういいだろ。俺も寝る。大家さん、部屋の案内よろしく」
ディルが慌ててキリムに続く。
「あんたら俺のこと大家さんっていうなら家賃取るぞ」
「なに? せこい!」
二人は言い合いながら梯子を下りていった。
「じゃあほら、ルイ」
ヴィーはにこにこしてルイをベッドへ引っ張った。
「久しぶりだよ。誰かと一緒に寝るなんて。嬉しいなあ。ルイと一緒だなんて思ってなかった」
横になったルイにヴィーがしがみつく。
二人はそのままふとんを被った。
「なに? キリムってばナイフのままにしておくばかりなの?」
「うん、非道いんだよ、あいつ。ちっとも俺を出してくれないんだから。だからさっき光って知らせたの」
ヴィーはルイの胸にぎゅーっと顔を押しつけた。
「こらこら」
「ふふふ。ルイってば温かいね」
「ヴィーもね」
微笑んでいたルイだったが、すぐにその目が閉じられ静かな寝息を立て始める。
ヴィーはそれを見るとにやりと笑った。
「お嬢さん育ちは扱いやすいなあ。……でも、それにしたって魔法使いなんだから、俺に対して警戒くらいしてもよさそうなもんだけど……。ああ、本当に、眠りの術がよく効く子だこと」
くすくすと笑いながらヴィーの姿は青年へと変身する。
「ルイ。もうちょっと人を信用する基準を考えた方がいいね」
ヴィーはルイの額に唇を押しつけた。
***
昼近く、ルイの悲鳴でディルは飛び起きた。
「そうだ、ルイがいるんだった。でもなんだ?」
ディルは大急ぎで屋根裏に続く梯子を駆け上った。
「ルイ、どうした?」
梯子から顔を覗かせたディルにルイが駆け寄る。
「ディル、なんとかして」
ルイはそういってベッドを指さす。
ふとんの端からは赤い髪がこぼれていた。
「あの子がどうかしたのか?」
ディルの問いにルイはブルブルと首を振る。
困惑したディルがベッドに近寄りふとんをめくるとそこには青年のままのヴィーが眠っていた。
「なんだ? こいつ? ……おい!」
ディルがヴィーの肩をつつくと眠そうに瞬きしながら起きあがる。
「……あ……大家さん、おはよう。……あれ? ……ルイ?」
ルイを探してきょろきょろするヴィーを、ディルは睨み付けた。
「あんた誰? なんでルイのベッドに潜り込んでる?」
「……え? ……俺、キリムのナイフだよ。ルイ、どこ?」
ルイはディルの後ろから怖々のぞき込んだ。
「……ヴィー……なんで男になってるの?」
「え?」
ヴィーは自分の腕を持ち上げてみる。
「あ、ああ、そうか……」
今更のようにヴィーの姿は少女に変身した。
「ルイ。怒った? 男の方が体温高いから温かいと思ってさ」
「……キリムみたいな理屈言わない! なんでこう、油断も隙もないんだ?あんた達」
「似たもの同士だもん」
ヴィーはそういうとベッドから飛び降りた。
「お詫びに朝ご飯出すからさ。大家さんもキリムを起こして来てよ。先に下行ってる」
ヴィーは梯子の両端を掴むとそのまま滑るように降りていった。
ディルが口を開けてその様子をみつめている。
「……なんか、今、凄いことが起きた気がするんだが……なあ、ルイ」
「うん、変化の術でしょ? 凄いんだけど……凄いんだけど……」
「……」
ディルは複雑な表情のルイを振り返る。
「……あんた、誰といても安心できそうもないな」
「わー! 言わないで!」
ルイは両手で顔を覆った。
***
キリムの不機嫌そうな顔は寝起きだからなのか。
ルイは台所にやってきたキリムを見て不安を覚えた。
たいていの人間は起き抜けに上機嫌などということはないものだ。
だがそれにもまして、キリムの眉は眉間に寄ったまま、温かいお茶を飲んでも緩むことはなかった。
「キリム、機嫌直しなよ。ルイが怖がってる」
ヴィーがお茶を注ぎながらキリムの顔を見上げた。
「うるせー。おまえはこういうときだけ上手いことやりやがって」
「キリムだって最初は一緒に寝たんだろ? 次が俺でも文句はないはず」
「じゃあなんで途中で男になった? おまえ最初から狙ってたんだろ。ルイがその気になったらどうにかしようって」
「まさか。ちゃんと眠らせてあげたよ。温かくしてね。誰かさんじゃあるまいし。相手を寝かさないなんて信じらんない。思いやりがないよね」
それを聞いたキリムは茶碗を置きヴィーを思いっきり睨み付けた。
「今すぐナイフに戻れよ、ヴィー。余計なことぺらぺら喋りやがって」
「やだよ。ルイを怒らせちゃったんだから、これからご機嫌とるの! ね、ルイ。はい、これ食べて」
ヴィーは綺麗に形の整った目玉焼きとベーコンが載った皿をルイに差し出した。
「……あ、ありがと……」
「シロップのかかったビスケットでもどう? 蜂蜜の方が好き?」
「え、えとね……」
キリムの刺すような眼差しにひるまないヴィーに、ルイは引きつった笑顔をみせた。
「野菜のスープを出そうか? カボチャの方がいいかな? 朝は野菜をたくさん食べないとね」
「もう昼だ」
キリムがするどく言い放つ。
「あんたらいい加減にしてくれよ。ここ俺ん家だって。なあ」
ディルはヴィーが出した目玉焼きをフォークでつついた。
「飯食ったら調合するんだから、少し静かにしててくれよ」
ディルがベーコンを食べながらそう言うと、ルイの表情が少し緩んだ。
「あ、そうだよね。ディルはお仕事があるんだから。私はその間に掃除でもするよ」
「ルイ。そんな手の荒れるようなことしなくていいんだよ。俺がやってあげるから」
ルイの隣ですっかり専門の給仕係となったヴィーが言う。
「……だけど」
「やらせとけ。こいつが自分からなんかするなんて、気に入った相手にしか言わないんだから」
キリムはまだ眉を寄せたまま茶を啜っている。
「キリム……いい加減、その……怖い顔……なんとかならない……かな……」
ルイが恐る恐るキリムの表情を伺いながら言った。
するとキリムは茶碗を置いて自分の眉間に手をやった。
「……そんなに怖い顔、してたか?」
「してた、してた」
「そうか……そりゃすまん」
素直に謝ってからキリムはルイに微笑んで見せた。
「……そ、それもそれでちょっと……」
ルイは苦笑いをして呟いた。
「キリムは女の人に怖いって言われるのが一番嫌いなんだ。ときどき言ってやればいいさ」
「ヴィー!」
キリムはヴィーの脇腹を思いっきりくすぐりだした。
「きゃははははは! やめてよ! 危ない! お茶がこぼれる!!」
ルイとディルは呆れて二人を見つめていた。
ディルの店の台所では午後の日差しの中、うとうとする3人の姿があった。
長いすにだらしなく寝そべったキリムの腹の上で、少女の姿のヴィーが眠っている。
ルイはそんな二人を見ながらテーブルに肘をつき、襲ってくる眠気と戦っていた。
「ディルがお仕事してるんだから、眠っちゃダメ」
なにかしていないと、暖かな日差しがルイを眠りの縁に立たせてしまう。
そしてうっかりその罠にはまると――。
ルイはちらりと二人を見ると立ち上がって首を振り、両手を高く上げて伸びをした。
「手伝おう。それしかない。あの二人を見ているとこっちまで眠くなる」
ルイは台所と店を隔てる扉を開いた。
ディルが真剣な表情で何かの液体を混ぜている。
「ディル。なんか手伝わせて」
ディルの目がふいとルイに向けられた。
「……別にない。あっちで本でも読んでろよ」
「うん……だけど、さ。キリムとヴィーが寝てるんだ。二人を見てると私まで眠くなっちゃって」
ディルは持っていた瓶を置いてため息をついた。
「あんた、あの二人の前で眠ったりしたら大変だな」
言ってからくすくすと笑い出す。
「ひどいなあ」
ルイが頬を膨らませると、店の扉が軽く叩かれた。
「誰だろう? 昼間から来るような客はいないはずだけど」
ディルが店の扉を開くと昨夜ディルに言い寄っていた女がそこに立っていた。
「はぁ~い。おはよう」
女はするりと店の中へ入り込む。
「うわ、何しに来た? まだ開店してないぞ」
「うふん。今日はちゃんと起きてること知らせに来たのよう。……あら?」
女はルイの顔を見ると不思議そうに立ち止まった。
「あら珍しい。男のお客さん?」
女に言われてディルはルイを振り返る。
どんな表情をしているのか、ディルは少し不安だったが、ルイの様子は普段と変わりない。
ディルはがっくりと肩の力が抜けた。
「いらっしゃいませ」
ルイが女に向かって微笑む。
「あらあ、ディルより細身で素敵ぃ。なに? お手伝いの人、雇ったの?」
女はディルにしなだれかかった。
「俺の友達だよ。あいつも腕は確かだから香水のひとつも調合してもらうといい。化粧も上手いぞ。なあ?」
ディルは女を押し戻しながらルイに言った。
女はつまらなそうに顔をしかめる。
「専門は薬草ですけど、少しくらいなら」
ルイが微笑むと女はルイに走り寄った。
「あら、そうなの。じゃあ今から香水をお願いするわ。あたしマリーベルっていうの。あなたは?」
マリーベルはディルにしたのと同じような表情でルイにしなだれかかった。
ルイの目の前にリーヌとよく似た白い胸が広がった。
ルイは困惑しつつも仕事用の微笑みを忘れない。
「ルイです。ご贔屓にどうぞ」
「うふふ。笑顔が素敵ね、ルイ。あたしが欲しいのはね、香水っていうよりも媚薬かしらね」
マリーベルは上目遣いでルイを見ながらその両手をとる。
柔らかく白い指でしっかりとルイの手を握りしめた。
「あらあ……随分と……華奢な手をしてるのねえ。まるで、女の人みたい……」
ルイの背中に冷や汗が流れる。
「やはり……女性用の品を……扱っておりますと、節くれ立った男の手にはなりにくいものですよ」
マリーベルはしげしげとルイの手をみつめた。
「……まあそうよね。ディルだって男にしちゃ綺麗なもんだわ。化粧品を作っているってことはその人も綺麗になるものなのかしら。その方が本物ってことなのかしら」
ルイは慌ててマリーベルの手から自分の両手を引っ張り出し背中に隠した。
「恥ずかしいから止めてください」
苦笑いを張り付かせるルイ。
「あら、純情なのね。可愛い」
マリーベルは妖艶な笑みを浮かべてルイを見上げた。
「あなたもあたしのとこに、いつでも来ていいわよ。気に入ったわ」
マリーベルは幸せそうな表情でディルに振り向いた。
「いい男が二人も揃った化粧品屋なんてふたつとないわ。みんなに宣伝しといてあげる」
「そりゃどうも」
ディルが無理矢理作った笑顔を向ける。
「それはそうと営業はまだだ。昨日の予約の品を調合しなきゃならないから、また夜にでも来いよ」
「ああん、あたし、だから今日は予約に来たんだってばぁ。ねえ、媚薬、作ってよ」
「まった、そんな」
「お願いぃ。今月は売り上げがちょっと厳しいの。つけて顔見せに立ってたら、客が全部あたしを指名するくらいの香水が欲しいのよ。そんで部屋に上がったら媚薬をちょっと効かせて、次にもあたしを指名するように……」
「そんな都合のいい薬なんかねえよ。まったく」
「ディルぅ~。ねえ、お願いぃ。次に来たとき絶対料金以上のことするからぁ~」
――次に来たとき――?
ルイの左の眉が大きく跳ね上がった。
「マリー……マリーベル! 馬鹿言ってるんじゃないって。ほら、香水だけなら予約入れるから、どんなのが好みか言ってみな」
「あ~ん、もうぅ」
ディルはカウンターに書き付け用の紙を取り出してマリーベルの話を聞いていた。
ルイはディルが調合していたテーブルにあるノートの端を力強くつまむ。
「……次に……来た……」
小声で言いながらつまんだノートの端を引っ張る。
ピリ。
小さく紙の破れる音に、ディルの肩が反応した。
「よ、よし。これで全部だな? あんたの注文はややこしすぎるから、明後日くらいまではかかる。ちゃんと調合しとくから、ほら、もう帰った、帰った」
「きっとよぅ。あたし、本当に困ってるんだから」
「ああ。ただし、これじゃあ金貨は2枚もらうことになる。こんな注文受けたの初めてだ」
「うふふん。あたしが初めて? きゃあ、嬉しい。じゃあよろしくねぇ」
マリーベルはディルに投げキスを送りながら店から出て行った。
ディルは扉を閉めたはいいが、ルイの方へ振り返るのが怖かった。
「ディル」
ルイの澄んだ声にディルの背筋が凍った。
「はい?」
おびえながら振り向くと、ルイはにこにこと笑っている。
「別に私はあんたの妻じゃないんだから怒る必要はないんだけど」
「そ、そうだな」
「マリーベルの店に行ってたんだね。でもどうしてそれを隠したの? 昨夜は一度もそんなことしてないって……嘘ついたのは許せない」
ルイは笑顔のままディルに言った。
「……ルイ?」
「そ、そりゃ……私たち、友達同士だって言っても男と女だし、言いにくいこともあるのはわかるけど、マリーベルとはそうなんだってはっきり言ってくれれば……私だってなにも……」
「違……違うって。あいつとは恋人とかそんなことはないんだって。その……商売……」
「そう、彼女は商売だね……」
ルイの表情は徐々に険しくなる。
「男の人って恋人と妻は違うものらしいよね。エブシャン殿だって奥様がいらっしゃるのにあの愛人……ううん、それはともかく……」
ルイは自分の父親のことを思い出した。
若く美しい妻がいるのに愛人のところで暮らしていた父。
「……ルイ、言っておくがなあ、俺は、つ、妻と恋人は別だなんて、全然思ってないぞ」
ディルの言葉にルイは不思議そうな顔をした。
「……全然? ……わからないよ、私には。妻とか恋人じゃないのに、……その……別の女の人と……なんて……」
「まあ、なんだ。あんたに説明してもわからないだろうが、男ってのはそういう生き物なんだ。すまないがそうなんだと理解してくれと頼むしかない」
ディルは真剣な顔をしてルイを見た。
ルイは寄せていた眉を寂しそうな表情に変え項垂れた。
「……わかんないよ……」
「……うん、ごめん。無理言って。それと、嘘ついてごめん」
ディルはルイに向かって頭を下げた。
「それはそうとマリーベルのやつ、相当鋭いなあ。やっぱ日頃から男慣れしてる女はあんたが女だって見抜くものなのかもしれないな。どうする? 店に出るのはやめるか?」
ディルの言葉にルイは弾かれたように顔を上げる。
「……確かにまずいんだけど、でも、私まで遊んで暮らすわけには……」
ルイは寝たまま動かないキリムとヴィーを思い浮かべた。
「いや、それはそれで俺が養ってる気がして嬉しいんだが」
ディルは何を思ったのかにやけた顔をした。
「ダメだよ、ディル。私は家賃だって払うつもりでいるんだから」
「……ううん、その心意気はいつもかってるんだがなあ、ルイ。そろそろ俺に甘えてくれてもいいだろう」
「さっきの今じゃあ信用ならないよねえ」
台所の扉が開いてヴィーがにやつきながら店に入ってきた。
「ヴィー? 今の話、聞いてたのか?」
ディルが驚いて振り返る。
「ふふふ、ディル。あんたってば惚れた女にはとことん弱いんだね。まあ悪くはないけど、ルイを甘やかすのは良くないな」
「ガキの癖に生意気言うな」
「ま、見た目に騙されるのは誰でも同じだよね。でも俺みたいに中味が伴わない場合もある」
ヴィーはにやにやとキリムによく似た笑い顔を作った。
「ひとついい方法があるんだけど、ルイはやる気があるのかな?」
ヴィーの見せる表情に、ルイの心臓が一度大きく跳ね上がった。
「私に変化の術を覚えろだって?!」
ルイはその場で飛び上がりそうになった。
「思ってるより簡単なんだよ。要は想像力なんだ」
ヴィーは自慢げに背中を反らす。
「自分が男だって思えばいいのさ。そうすれば男になる。ルイの魔力はサラデルのクソじじいに匹敵すると俺はふんでるから、絶対大丈夫。集中力もあるしね。第一、実際の物理的な防御魔法だとは言っても、必ずしも敵の剣を跳ね返せるものじゃないんだ。ってことは、ルイの魔法は完全に物理的に作用してるってこと。幻惑するものの方が相手の心の弱さを利用する分だけ精神力の強いものには有利だし、普通はこっちを使うもんだ。そうじゃないってことは、ルイには充分能力が備わってるってことだね」
ルイはヴィーの言葉にぽかんと口を開けた。
「……ええっと……よく、わからないんだけど……」
ヴィーは驚いて目を丸くした。
「あれだけのことができるのに、その理屈がわからないの? 驚いたな。魔法学校を出たのなら、技術理論もやっただろ? 忘れちゃった?」
「あ……うん、なんとなく覚えてるけど。でも習ったことないし、変化の術なんてもっと高度なものじゃない?」
「まさか。俺が一瞬でできるのに?」
「だから、それはヴィーにかかった呪いの所為だろう? 私には……」
「ああ、そりゃ確かにそうだけど……ううん……」
ヴィーはキリムとよく似た仕草で顎に手をやって考え込んだ。
「まあ仮にだけど、俺は今、殺されたとしたらこの、女の子のままだ。ナイフには戻らない。そのときとった姿のままでいる。つまりこれは呪いの所為。男の時殺されたら男のまま。ナイフの時は……殺されはしないけど、死んだらナイフのまま。わかる?」
ルイは頷く。
「まあ、大体……」
「俺がルイに教えたいのはそうじゃない。ルイが男になったとき殺されたとしたら、そこでルイは女に戻る。そういうこと」
「ああ、なるほど」
ディルが頷きながら言った。
「本人の集中力が切れるまで、ってことだな。それなら結界とそんなに変わらない」
「まあね。ただ、結界の場合はそれほど強い集中力がなくても物理的に補助ができる。でもこれは、集中力が切れたらそれで終わりだからね。多少は、慣れれば安定してくるものだけど。ルイなら魔力自体が大きいから、物理的な呪文は作用が長く続く。一晩店に出るくらいなら大丈夫だよ」
ヴィーはにこにこしながらルイを見上げた。
「だからね、教えてあげるから、練習しよう」
ヴィーはルイの手を取って台所へ戻っていった。
「ちょ、ちょっと、ヴィー。そんなに引っ張らなくても」
「ディルは仕事を続けてて」
扉を閉める前にヴィーはディルに向かって声をかけた。
ふたりはキリムが眠っている長いすの前を急ぎ足で通り抜け、階段を駆け上がり屋根裏に続く梯子へと向かう。
「ヴィー、ちょっと待って」
ルイは階段を駆け上がって少し息を弾ませる。
「ん? なに?」
ヴィーは既に屋根裏にいて、梯子のてっぺんを握りルイを見下ろした。
「屋根裏は寒いから、台所でいいよ」
「ストーブつけたよ。ほら」
ルイが梯子を登り屋根裏を覗く。
真新しいストーブが真ん中に置かれ、既に屋根裏は暖かくなっている。
梁を避けて屋根に向かった煙突までちゃんとつけられていた。
「いつの間に……」
ルイが呟く。
「さあ、ルイ。よく見ててね」
ヴィーは洋服を脱ぎ始めた。
次々脱いではベッドに放っていく。
「ちょ、ちょっと! ヴィーってば何してるの?」
「服を着ていたら男になるときどうなるのかわからないだろ。裸の方がわかりやすい」
ルイはその場に凍り付いた。
「あんた、男の体、知らないだろ。ちゃんと化けないと彼女たちは手強いぞ」
全て脱いでしまったヴィーはくるりとルイに向き直った。
「ゆっくりやるからよく見ててよ」
ルイはごくりと唾を飲み込む。
「ヴィー?」
「なに?」
「じゅ、呪文だけ……覚えればよくない?」
「何言ってるの? あんたあの防御魔法を習ったとき、盾ってものがどういうものなのか見なかったの?」
「そ……そりゃ確かに……見た……けど……」
「見ないと自分の頭の中で想像できないだろ? 当然集中力も鈍るよね。魔法使いならそれがどんな失態を招くか承知してるはずだろう?」
ルイはヴィーから目線をそらして頷いた。
「じゃあやるよ」
ヴィーはそういうといつもの――それはとうてい人が関知できる早さではないが――何倍も遅く、少女から青年へとゆっくり変身していった。
完全に青年へ変化したあと、ヴィーはくるりと一回転した。
「はい、できあがり。ちゃんと見てた?」
ヴィーが変身している最中、ルイの顔は青くなったり赤くなったりとめまぐるしく変化していた。
だが今は俯いてしまっていてヴィーからその表情を伺うことは難しい。
ヴィーは裸のままルイに近寄り、彼女の顎に手をかけると上を向かせる。
真っ赤な顔をして涙をためているルイ。
「……ヴィー……。そこまで……や、やらないと……ダメ?」
「うん、だめ」
ルイは困惑した表情でヴィーを見ている。
ディルならその顔ひとつで何でも言うことをきいてしまいそうな表情だった。
「ちゃんと見ただろ? 男ってのはこうなってる。彼女たちはそれを隅々まで知ってる。外から誤魔化すなんてできないと思った方がいい」
「……う……うう」
「ディルに甘えたくないんだろ? 自分でちゃんと暮らしていくんだろ? だったらこのくらいやれるはずだ」
ヴィーはルイの顎から手を離すとベッドに行き腰掛けた。
「さあ、集中して。呪文は必要ないから。今は俺が補助する。それができたら呪文を教えるよ。ひとりでできるようにね」
ルイはヴィーの前に立った。
「目を閉じて、頭の中で自分の体が男になると思うんだ。集中して……。……って、あ、そうだ」
ヴィーは立ち上がり目を閉じたルイに近寄ると肩を抱き寄せた。
「集中するときだけいい呪文がある。それを教えてあげる」
ヴィーはそういってルイの耳元で何かをささやいた。
ルイは口の中でそれを呟きながら、自分の体が青年のヴィーのようになることを想像した。
広い肩、引き締まった筋肉、力強い手足。
そして自分の体の中心から熱い何かがわき上がってくるのを待った。
魔法に集中するときの、あの全身を包む高揚感。
頭だけは冴えわたり、周りの状況が全て手に取るように理解できる状態。
その瞬間を。
そして――
――キリムが飛び起き、ディルは香水瓶のふたをあやうく落としそうになった。
「なんだ?!」
「ルイの悲鳴だ!」
ふたりは同時にそれぞれ叫び、キリムはそのまま階段を駈け上げる。
ディルは台所へ飛び込みキリムの後を追った。
屋根裏への梯子をディルが登ろうとしたとき、キリムの足がちらりと見える。
上がりきると全裸のヴィーが気を失ったルイを抱きかかえていた。
「この馬鹿が! ルイに何をした!?」
キリムがヴィーに向かって怒鳴る。
ヴィーはにやりと笑うだけ。
「早く服を着ろ!」
そういってベッドに脱ぎ散らかしてある洋服を手に取ったキリム。
「なんだこりゃ。女の子の服じゃないか! てめえ本気でルイになにかするつもりだったのか?」
ヴィーは相変わらずにやにやするだけで、キリムには何も答えない。
ルイをベッドに横たえるとキリムが持っていた洋服をひったくった。
そのまま着るようにヴィーがそれをひらりと被ると、女の子の洋服だったものが男物のシャツに変わる。
「一体ルイに何をした?」
ヴィーに詰め寄るキリムに、後ろからディルが声をかけた。
「もしかして、失敗したのか?」
キリムはディルに振り向いた。
「おまえ、知ってたのか? ヴィーがルイに悪さをしようとしたのを」
「いや、悪さって……。魔法を教えるんだって」
「この馬鹿を信用するな。『夜明けの星』は主にしか従わないんだぞ」
キリムの言葉にヴィーはため息をついた。
「失礼だな、キリム。俺は気に入った人間には親切なんだぞ。ディルが言ったとおり、俺はルイに魔法を教えていただけだ」
「じゃあなんで素っ裸なんだ」
ヴィーは洋服を着ながら笑い出した。
「ルイは男の体を知らないんだもん。見せてやらなきゃ男に変身できないだろ」
「なに?」
「だからあ、変化の術を教えてやったってこと」
キリムはヴィーの襟元を掴んだ。
「おまえがルイに魔法を教えるだと?」
「そうだよ。あんたは魔法の素養がないから教えなかったけど、剣術は教えてやっただろ」
「いつの話をしてる! この馬鹿」
キリムは軽くヴィーの頭に拳を落とした。
「それで? ちゃんと覚えたのか? そんなことを理由に何度も素っ裸でルイに迫るようじゃ、俺はおまえを二度と人間には戻さないぞ」
「おお、怖い。非道い主だねえ。やだやだ」
ヴィーは肩をすくめて首を振った。
「ヴィー、どうなんだ? ルイはなんで気絶してる?」
ディルがキリムの背後から声をかけた。
ヴィーはくすくすと笑い出した。
「ああ、もう、そりゃ立派な男になったんだよ。だからびっくりして倒れちゃったんだ。おかしいったらありゃしない。なんでこんなに箱入りなんだか」
ヴィーは腹を抱えて笑い転げた。
「本当か? それ」
キリムは横たわるルイの胸をがしっとわしづかみにした。
「わ! 何するんだ! この」
ディルが後ろからキリムを叩いた。
「痛っ……。おい、ヴィー。小さいがちゃんと胸があるぞ」
ヴィーはげらげらと笑い転げる。
「当たり前だよ。気絶したから集中力が切れちゃったんだもの、元に戻ってる。あんたって、ほんっと魔法がわかってないよねえ」
青年のヴィーはルイの足許に腰掛けたまま笑い続けていた。
「ああ、おかしい。ルイが気づいたら今度はひとりでやれるように教えるよ。一度やっちまえば体が覚える部分もあるからね。剣術と同じさ。さあ、今はゆっくりさせてやろう。ディルは仕事に戻って、キリムは昼寝でもしてなよ」
「おまえはどうするんだ?」
キリムは怪訝な顔をしてヴィーを見下ろす。
「どうって、ルイにはちゃんと教えなくちゃねえ。こんなに簡単に覚えてくれるとは思ってなかった。学校時代の先生達は、ルイに教えるのが楽しかっただろうね」
ヴィーは微笑んでルイの髪を撫でる。
ディルが頷きながらルイの顔を見下ろした。
「そうだな。ルイはあんまり家から出してもらえないからって、いつも本ばかり読んでたし、じいさんの書斎のお陰で知識はばっちりあったから、教授達も楽しみにしてた。成績も良かったし、周りの期待も大きかった」
「そうだろうね。そのじいさんの血ってのもあるかもね」
ヴィーはルイの寝顔を見ながらにこにこしている。
「早く気づかないかなあ。ちゃんと教えたくてうずうずしてくるよ。教え甲斐のある子だね」
ヴィーがルイを褒めるのを聞いて、ディルは気分が良くなった。
「ほらほら、ふたりとも、下に戻って。ルイが気づいたら驚くだろ」
ヴィーに促されてふたりは梯子を下りていった。
***
「あんた、どう思う?」
キリムは台所に戻ると長いすに座ってディルに言った。
「どうって……別に……俺はルイが新しい魔法を覚えてくれれば、それで」
「それであいつが素っ裸でルイに迫ってもいいって言うのか?」
「いや、それはどうかと思うけど……ルイが男の体を知らないってのもうなずけるし」
「どうだかわかんねえぞ。ヴィーの野郎、口だけは達者だからな」
キリムはイライラと足を組み替えた。
「まあいいじゃないか。とりあえず俺は仕事に戻るから、あんたはまたルイの悲鳴でも聞こえたら大急ぎで上がってくれよ」
ディルはそういって店へ向かった。
キリムは立ち上がると階段の下へ行き、そしてまた長いすに戻る。
「ヴィーのやつ、本気でルイを好きになりやがったな。魔法を教えるなんて、初めてじゃねえかよ。……くそ。ただでさえディルなんていう邪魔者がいる上に……」
キリムは親指の爪をぎりっと噛んだ。
***
気がついたルイは目の前に赤い髪があるのを見る。
「……ヴィー?」
「うん。お茶でも飲む?」
ルイは上半身を起こす。
上からのぞき込んでいたヴィーはベッドに座り直した。
「お茶はいい。……私、成功した……よね?」
「うん」
ルイは頭を抱えて大きなため息をついた。
「びっくりした……」
「すぐに慣れる」
ちらりと見上げたルイに微笑みを返すヴィー。
「落ち着いたら正式な呪文を教えるよ。ひとりでできるようにね」
「……ん……」
ルイは青年の姿のヴィーを足許から頭までゆっくりと見る。
それから急に顔を真っ赤にするとまた頭を抱えた。
「戸惑うのもわかるけど、ルイ。ディルに迷惑をかけたくないのなら頑張るしかないね」
ルイは大きく頷いた。
「完全に男になったら、その髪も染めるのをやめればいい。あんたのじいさんが探しているのは銀髪の女の子なんだから、男ははじめから除外されるさ」
ルイは弾かれたように顔を上げる。
「どうして私の髪の色なんか知ってるの?」
ヴィーは首をかしげてから微笑んだ。
「あんたの夢に出てきたばあさんと同じ色なんだろ? それに、ディルの頭の中にあるあんたの髪は銀色に光り輝いてる。まるで宗教画の女神のようだ」
ルイは口をぱくぱくとさせた。
「あんたにも見せてやりたいくらいだよ。それはもう神々しくて……。ディルはそんな気持ちであんたを見てるんだろうね」
ルイは口を閉じると項垂れた。
「……そうなんだ……」
「だから誰がなんといおうと、あんたの髪は綺麗だよ。染めなくていいなら面倒も減っていいじゃないか」
ルイは項垂れたままシーツを掴む。
「さあ、それじゃあ正式な呪文を教えよう。さっきの感覚は覚えているよね?」
ルイは引き結んだ口のまま顔を上げ、ヴィーに向かって頷いた。
***
調合が終わったディルは一度大きく伸びをした。
「店を開ける前になんか食っておこう」
そう呟いて台所の扉を開く。
キリムはルイが読みかけていたものなのか、本をテーブルに広げたままにして階段の上を睨み付けていた。
ディルが入ってきてもそちらを見もしない。
「おいおい、どうかしたのか?」
「……静かすぎる……」
2階を睨み付けたまま動かないキリム。
「静かならいいじゃないか。あ、俺、なんか食べるけど、あんたも……」
ディルが言いかけたとき、屋根裏の梯子を下りてくる音がした。
キリムは椅子から立ち上がり、ディルは手に取ったヤカンをまた元に戻した。
少女のヴィーが身軽に階段を駆け下りてくる。
「ルイ! 早くおいでよ」
その後ろから、戸惑う足音がはっきりとわかるほどおずおずとルイが降りてきた。
「なんだ、見た目は変わらないな」
ディルが微笑んでルイに言う。
「まあね。元々男の服装だし、背が高いからそれほどは違って見えないけど」
ルイは心細げにキリムとディルを見た。
キリムは黙って椅子から立ち上がり、大股でルイに近寄る。
ルイの前に立っていたヴィーを抱き上げて横に避けた。
「ちょっと! キリムってば何する気なの?!」
ヴィーの文句をよそに、見上げるルイの瞳を見つめたままルイに詰め寄る。
「……キリム……?」
ルイが困惑した表情をすると――
キリムはいきなりルイの股間に手をやった。
「!!」
ルイが驚いて後退る。
キリムはすぐにルイから手を離し、その手をじっと見つめる。
「馬鹿! キリムったら何するのさ!」
ヴィーが背後からキリムの腰の辺りをぽかぽかと叩いた。
「俺が教えたんだからできるに決まってるだろ! そんなことして確かめるなんて、バカバカ!!」
キリムは叩かれているのを全く無視すると、ルイに近寄りその手をとった。
「俺は、おまえが男でも愛する自信があるっ!」
「はあ?!」
ルイとヴィーとディルが一斉に声を上げた。
「どんなだろうとおまえだから好きなんだ、ルイ」
ルイは目と口をめいっぱい広げたままキリムを見上げていた。
「何をヴィーにそそのかされたのか、それともディルがいじめたのか? 俺ならそんなことはしないぞ。男になる必要なんかない。そんな余計な苦労をさせるなんて言語道断、男の風上にも置けない。だがな、それがおまえの決めたことなら認める。おまえにはそれが大事なんだ。愛するものの大事なことを認めないのは真実愛してなどいないということだ。俺は違うぞ。おまえが女でも男でも、おまえに惚れたんだ。それだけはかわらない」
「キリムぅ~。何か、何か勘違いしてない? ねえってば、ちょっと」
ヴィーがキリムのベルトを掴んで引っ張った。
「うるさいな。いまいいとこなんだからナイフになってろ」
「もう! キリムみたいな馬鹿に口説ける理論なんかないだろ。女は押し倒せばそれで落ちるって思ってるんだから。ちょっと話聞いてよ」
キリムはルイの手を離してヴィーに振り向いた。
「なんだとヴィー。おまえ本当にちょっとは黙ってないと今すぐナイフに戻しちまうぞ」
「ああ、もう、だから話を聞いて! ルイはね、俺たちがディルに厄介になってるのが嫌なんだ。だからちゃんと3人分の家賃を払おうって思ってるわけ。それで仕事をね、ディルの店で引き受けるつもりなんだよ。でもここのお客は貴族のお姫様じゃない。そう簡単にだませないんだ。いくら男の格好をしててもね。だから俺が変化の術を教えたの」
キリムはヴィーの話を聞いてからまたルイに振り返る。
「そうなのか?」
「……う、うん……」
ルイはこくこくと頷いた。
「ルイが頑張るつもりなんだから、俺たちおまけが昼寝してる場合じゃないだろう? 協力しなきゃね。まあキリムは眠っててくれた方がありがたいんだけど」
ヴィーの言葉にキリムはまたまた振り返る。
「ここは女を相手に商売してる店だ。店員は男の方が人寄せにはいいだろ? ディルは見た目が優しげだし、ルイが男になったのならますます評判になる。女ってのはいい男が揃ってる店が好きだしね」
ヴィーはキリムにそういうとディルを振り返った。
「どう?ディル。いい思いつきでしょ。ふたりで店をやったらきっと繁盛するよ」
ディルはヴィーに向かって頷いた。
「確かにそうかもな」
キリムはヴィーを睨み付けながら歩き出し、ヤカンをストーブにかけたディルに近寄った。
「おい」
「ん?」
「あんたはルイが男でも商売が繁盛すればいいのか?」
「……あー……まあそこはほら、色々と……なあ」
ディルはキリムに顔を近づけるように合図をする。
「で? ちゃんとルイは男になってたか?」
小声でキリムに訊ねた。
キリムは無言。
「どうなんだよ」
ディルがせっつく。
「……ちょっと俺はへこんだ」
「てことは……」
「……見本はヴィーだ……」
「……ヴィーの……?」
ディルとキリムはふたり同時にルイを振り返った。
「な、なに?」
ルイは驚いて座ろうとしていた椅子から立ち上がる。
「いや、気にしないで。ルイもお茶を飲むだろ?」
ディルの言葉にヴィーが返事をする。
「ディルってば、まだ俺に頼まないの? ……もう……」
「ああ、いや、その」
ヴィーは椅子の上に立ち上がると3人に向かって言った。
「さあ、食べたいもの、飲みたいもの、なんでも好きな物を言って!」
声高らかに、『夜明けの星』は人々の願いを叶える神のごとく威厳を放つ。
「やだ! ほんとう!」
ディルの店に入ってきた女が3人。
それぞれが大声で叫ぶ。
「マリーベルの言ってた通りだわ」
「素敵ねえ。お城の騎士様みたい」
笑いながらカウンターに3人が駆け寄った。
「いらっしゃいませ」
ルイはにこにこと女達に微笑む。
「ねえねえ、あなたは香水を調合するの?」
「あら、お化粧を教えてくれるんでしょ?」
「違うわよ。肌のお手入れをしてくれるのよ」
3人は勝手にルイの仕事を決めつけているようだ。
それともマリーベルの宣伝効果なのか。
「香水は今まで通り、ディルに頼んでください。私はお手入れの方法でも教えましょう」
「や~ん。言葉遣いが貴族みたい。ディルと違って育ちがいいのね。お友達なんでしょ?」
「ええ、同級生です」
「あら! じゃあ腕は間違いないのね」
「あたし、お願いするわ。このところ乾燥気味なの。何かいいものない?」
ルイは鏡がある壁へと向かう。
鏡の横には化粧品が並んだ棚がある。
「どうぞ、こちらへ。この香油は如何ですか。香りはお客様にあわせて調合することもできますよ。石鹸とおそろいにしては如何ですか?」
「あら、そんなこと、今までディルは言わなかったわよ」
「トラムでは流行ってるんですよ」
「トラムって言ったら大都会じゃない。ご出身なの?」
「ええ。そちらで学びました。お化粧も」
「まあ。どうりでディルとは違う雰囲気なんだわ」
「ディルだって化粧品は確かにいいもの作るけど、こういうところはわかってなかったものねえ」
女達の言葉に、カウンターに肘をかけてぼんやりと眺めていたディルがむっとした。
ルイは苦笑しながら女の一人を椅子に座るように促す。
「どうぞ、こちらへ」
女はうきうきした足取りで鏡の前に立ち、すとんと椅子に腰を下ろした。
「失礼します」
ルイが女の頬をそっと手のひらで包む。
女はルイの手のひらの優しい感触に頬を上気させた。
「なるほど、確かに少し乾燥気味ですね。今の白粉はディルの調合ですか?」
「……ええ、そうなんだけど……下地がね。香油がなくなったものだから、ちょっと以前の物を使っちゃったの」
「いけませんね。ちゃんとこちらの品を使ってください。それから化粧落としも完全にして、すぐに香油を塗ることです。こうして」
ルイは指先でゆっくりと女の頬を撫でた。
「マッサージしてくださいね。手のひらで香油を温めるようにして。そうすれば大丈夫ですよ」
女はルイの指先の動きにうっとりとしている。
「……ああいうのはやっぱり女じゃないとわかんねえよなあ」
ディルはほおづえをついて眺めていた。
しばらくしてまた店の扉が開く。
今度はふたり、別の女が入ってきた。
昨夜ディルに注文をした女達だ。
「いらっしゃい」
ディルが声をかける。
「こんばんは、ディル。ねえ、新しい人ってあそこの人?」
「マリーベルが純情な人だって言ってたわよ。あたし達みたいな女の子と遊んだりしないの?」
「おいおい、入っていきなりそれかよ。うちの商品に用があるんじゃないのか?」
「やあねえ、もちろん、昨夜の香水のことできたのよ。でも、あの人も見てみたかったの」
二人は化粧品の説明をしているルイを眺める。
「なんだか優雅な感じの人ねえ。王子様みたい」
「やーね、あんた。見た目ならディルだって充分王子様よ。田舎者だけど」
「おい」
ディルは注文の書き付けと、調合した香水の瓶を持ちながら眉を寄せる。
「あら、ディル。嫉妬してるのね」
「今まではひとり、この店で大変だったものねえ」
ふたりは笑い出した。
「ねえ、ねえ。彼、なんていうの?」
「ルイだよ。専門は薬草なんだ。女になれてないんだから、あんまりからかうなよ」
「その割には化粧品や流行に詳しそうじゃない?」
女達が香水瓶を受け取り料金を支払う頃、またまた店の扉が開く。
今度はひとりの女が入ってきた。
「いらっしゃい」
「ディル! マリーベルにお馴染みさんが入っちゃったの。後で来るらしいから」
「ん? なんでそんなこと……」
「あら、だって、新しい人に化粧品の予約したって言ってたわよ」
「はあ? なにを……。宣伝もいいがどうなってるんだか」
ディルの店は女達でごった返す。
香水を受け取った女達が帰ろうと扉を出て行くと、入れ替わりに3人、入ってくる。
「ディル。新しい人ってあの人?」
「カッコイイじゃない。うちの店に来ないかしら」
「あんたの友達なんだって?」
3人一斉にディルに話しかける。
「ねえ、名前、なんていうの?」
「どこかの王子様だってほんと?」
「あら、貴族の暮らしが嫌で逃げ出したんじゃなかったの?」
「おいおい、おまえらも、なに勝手なこと……」
「マリーベルがあちこちの店で、夕方からずっと宣伝しまくってるわよ」
「あんたと恋仲だとか」
ディルは顔色を変えた。
「……どうしてそんな話になってるんだよ? マリーベルか?」
「あたしはソフィーに聞いたのよ」
「あら、変ね。リサの話とは違うわ」
「勝手に噂を広めるなよ」
ディルが呆れて頭をかいた。
それからも、店の扉はひっきりなしに開いたり閉じたり。
女達も入れ替わり立ち替わり、ディルの店はストーブの暖気がこもる暇もない。
「なんだよ。普段こんなに来ねえだろ。おまえらいい加減に仕事しろ!」
カウンターの中にまで押し寄せてきた女達に、ディルは大声で言った。
大勢の女達の背後で、遠慮がちにまた扉が開く。
扉の近くにいた女が振り向いて声を上げた。
「あら可愛い坊やねえ。ここはあんたが来るような街じゃないわよ」
店の中に立った少年は声をうわずらせて女に言った。
「そ、そう仰って、どちら様もこの界隈の方々は……。わ、わたくしを子供扱いなさらないで下さい。これでも立派に務めを果たしているのです」
「あらあら、ごめんなさいねえ。わかったわ。この店に用があるのね」
女は振り向いて大声を出した。
「ディル! 小さなお客さんよ」
女達の群れが扉からカウンターに向かってさっと割れた。
鏡の前に立っていたルイがそちらに目をやると、リレルがおずおずと女達の間を歩いてくるのが見える。
「リレル!」
「ルイ殿!」
リレルは小走りにルイに近寄る。
ルイがリレルの手を取ると、女達は一斉に声を上げた。
「きゃー! 可愛い」
「なに? どういう関係?」
「あの子、貴族の召使いじゃない?」
「王子様に召し使い」
「やだ、もしかしたら恋人かもよ」
そんな言葉を聞くと、女達はいっそう大きな歓声を上げる。
「あーもう、おまえらうるさいんだよ。買わないんなら、さっさと仕事に戻れよ! ほらほらほらほら」
ディルが女の一人を無理矢理押し始める。
「やだ! もう! ちょっと!」
「あーあ、怒らせちゃった」
「やあん。日頃おじさんばっかり相手にしてるんだから、少しくらいいいじゃない」
「いいから用のないやつは帰れよ。あと、予約は明日以降だ。今日はもう終わり!」
「ええ~!!」
「あたしまだ白粉買ってないわ」
「いいから、明日だ。今日は帰れ!」
10人ほどいた女達全てを店の外に押しだし、ディルは扉に鍵をかけた。
「まったく。マリーベルのやつ、あることないこと言いふらしやがって」
「いいじゃない。お陰で随分香油が売れたよ。この棚にあるやつ、売れ残ってたんでしょ?」
ルイがにこにこしながら言った。
「ところでリレル。よくここまで来られましたね」
リレルは安心したようにルイを見上げる。
「アパートに伺ったんですよ。そうしたらいらっしゃらならなかったので、大家さんに言付けをしていこうと思いまして」
リレルは一度深呼吸をした。
ディルの店は化粧品の臭いで溢れている。
リレルは胸苦しいのだとルイが気づき言った。
「台所に行きましょうか? ディル、いいかな?」
ルイはカウンターにいるディルに向かって言った。
「いいぞ」
ルイとリレルはディルの後ろを通って台所に入る。
ディルも後に続いた。
「あっ!」
リレルがキリムを見て声を上げる。
キリムの隣には少女のヴィーが立っていた。
「その節は、どうも」
キリムに向かってぺこりと頭を下げるリレル。
「おお、坊主か。お館様はお元気か?」
「おかげさまで」
長いすに座っているキリムに、リレルは何度も頭を下げた。
ヴィーは黙って長いすの前に立ちリレルを見ていた。
リレルはキリムに礼をしながらもヴィーが気になってちらりと見る。
ふたりの目があった瞬間、ヴィーはにっこりと微笑んだ。
リレルの頬が真っ赤に染まる。
「リレル、こちらにどうぞ。今お茶を入れますから」
ルイがテーブルにつくようリレルを促す。
リレルはルイに向かって頭を下げてから、ディルが引いた椅子に腰掛けた。
その斜向かいにディルが腰を下ろす。
「あの……」
リレルはヤカンをストーブに置いたルイに声をかけた。
「大家さんのところで、こちらに引っ越したと伺って……」
ルイは怪訝な顔をしたがそれにはヴィーが答えた。
「俺が行ってきたんだよ。大家さんにここの場所を書いた紙を渡して、家賃の残りも払っておいたから」
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