夜明けの星に約束

島村ゆに

第1話

「珍しいこともあるもんだ」

 ディルはため息をついて棚から瓶を取り出した。

「しょうがない。高山植物なんて、あんたんとこでしか取り扱ってないし」

 ディルは前髪をうるさそうにかき上げてルイを見る。

 ルイはディルを正面からみつめ、その灰色がかった青い瞳に彼の陽気な顔を映していた。

「夜出歩くのは危険だからって……まあ、大体あんた、昼間でもこの辺りはうろつかないし。あんたの嫌いな色街だもんなあ」

 ディルは乾燥した植物の入った瓶をルイに手渡すと、同じ手でひらひらと煽るように振った。

「ほっといてくれ。で、いくら?」

「ん~……ここんとこにちゅっとしてくれたらただでもいい」

 ディルがにやりと笑いながら頬を指さすと、ルイの眉が寄せられた。

「そういう冗談も好きじゃない」

「まあそうカリカリすんなって。そんなんで本当に客商売してんのか?」

「だからほっとけって!」

「俺はあんたの心配してんだ」

「いらん」

「なあ」

 ディルは両手を腰にあて、またため息をついた。

「あんたいつまでも男の格好してさ、そりゃ女にしちゃあ背が高いからばれないだろうけど、いい加減、俺だってずっと本気であんたのこと心配してんの、気づいてくれてもいいんじゃないか?」

 ニヤニヤ笑いを引っ込めたディルの真剣な表情から、ルイはふいと目をそらした。

「また、そうやって……。いつまでも逃げ切れると思ってるのか? あんたのじいさんはきっとあんたを見つけ出すぜ。何しろトラム一の魔法使いなんだし……」

「祖父の話はやめろ。ほら、代金!」

 ルイは懐から革袋を取り出すと中から2枚の銀貨を出し、カウンターにたたき付けた。

「多いよ」

 ディルは銀貨を1枚つまむとルイに向かって差し出す。

 受け取ろうと差し出したルイの手を、ディルはしっかりと掴んだ。

「離せ」

「……俺はずっと本気だ。あんた一人じゃいつじいさんに連れ戻されるか、そうじゃなきゃ奴らに……」

「今そんなことを言うな。私だってどうしようもないんだ」

 ルイはディルの手を振り払った。

「あんたの魔法の腕は知っているつもりだ。あのじいさんの孫なんだしな。だが結界が緩むこともあるだろ? 俺たち二人ならなんとかなる。この店を引き払ってどこかに逃げたって、俺は全然かまわねえ」

 ルイはディルに背を向け店の扉に向かった。

「ルイ」

 呼び止められ一瞬立ち止まる。

 扉に手をかけたルイは肩越しにディルを見つめると、彼に聞こえない小さな声でつぶやいた。

「ありがと」

 開いた扉から冷たい冬の空気が流れ込み、ディルは一瞬ルイが空気にとけ込んだように思った。

ディルの薬草店から通りに出る。

 色街のはずれにあるディルの店は、夜中客で賑わっている。

 そのためわざわざ明け方の、ディルが店を閉める少し前、客も引けるだろう頃合いを見計らってここに来たルイだったが、いつまで経ってもこの街の雰囲気には馴染めなかった。

 着飾った女達の嬌声。

 酔った男達の息。

 ディルが生活のためだけにこうした色街特有の店をやっているのは仕方のないことだったのだが、それにしたってあれほどの腕がある魔法使いが、どうしてこんな――と、ルイはいつも不思議に思う。

 同じ魔法学校に通った二人だが、ルイには大臣である祖父がいる。

 ディルは下級ではあるが貴族の出身で、二人とも色街に縁のあるような暮らしはしていなかった。

 卒業を目前に控えたある日、ディルの父が領主に謀反を企てたという罪で逮捕された。

 濡れ衣ではあったが晴らすことができず、ディルの一家は離散。

 今では生きているのかさえもわからない。

 流れ着いたこの色街で、今の薬草店の店主に腕を買われたディルはそのままその店を継いだ。

 ルイはといえば、横暴な祖父に反抗し家出。

 生活のためにディルと同じく魔法の腕を活かしているに過ぎない。

 思えば、あのまま祖父のいいなりになっていれば、こんな街に来ることもなく――などと考えることもあるルイだった。

 それほど嫌うこの街の、ディルの店を訪れたルイにはわけがある。

 常連客の貴族の一人がどうしても欲しいと言った薬。

 それを調合するにはディルの店でしか扱っていないこの高山植物が必要だった。

「だけど……あの人、健康そうだけど、この薬、どうするんだろう」

 ルイは懐に入れた瓶の口を触りながらぼんやりと客の顔を思い出していた。

「きゃあ!」

 突然路地から女の悲鳴が聞こえた。

 その方向へ振り返ると、娼家の一つから黒い人影が飛び出してきた。

 人影は背の高い男だった。

 長い黒髪が夜風になびき、その顔を隠してはいたが殺気だった雰囲気は隠しきれない。

 ルイは反射的に魔法で身を守る結界をはった。

「ほう」

 髪に隠れた男の口から感嘆の息が漏れた。

「咄嗟に出たとはいえその結界」

 ルイを見据えて男は近づいてくる。

「丁度いい」

 物理的な侵入は許さないはずの結界をやすやすと破り、男の腕がルイの腰に回された。

 ルイはその腕の冷たさに身震いした。

「何処へ行きやがった。あの野郎」

 悲鳴の聞こえた路地から男達が飛び出してきた。

「うちの一番手を馬鹿にしやがって、金も払わねえで逃げるたあ、ふざけた野郎だ」

 男の一人が罵りの声を上げる。

「あれで一番だと? ふざけているのはどっちだ」

 ルイの腰をしっかりと抱きかかえたまま、黒髪の男が嘲った。

 男達がその声に振り向く。

「そこにいたのか、にいさんよ。うちの値段、わかってて言ってんだろうな?」

 男達は手に手に剣を持ち、ルイと黒髪の男に向かって斬りかかってきた。

 だがそこにはルイが物理的攻撃をかわすための結界をはっている。

 冷たい金属音だけが通りに響き、男達の剣はことごとく欠けていった。

「……な、なんだ? こりゃ」

 ルイは自分の結界がちゃんと働いていることを確認し、驚きに目を見開いた。

 それなのにこの男は、その結界をまるで存在しないがごとくに侵している。

 背の高いルイの、さらに頭一つ分上にある男の顔を見ようと、ルイは無理矢理振り返った。

 男の黒い瞳とルイのブルーグレイの瞳がかち合った。

 男はにやりと微笑んだ。

「こんちきしょう!」

 娼家の用心棒達は欠けた剣で懲りもせず、ルイと黒髪の男に向かって何度も斬りつけてきた。

 そのたびに空しく弾き返される剣。

 それを呆然と見ていたルイの耳元に、ふいに男の唇が寄せられた。

「送っていく。自分の家を思い描け」

 一瞬戸惑ったルイだったが、次の瞬間にはすでに目の前の光景は見慣れた自分の部屋になっていた。

 ルイはそれを見てもすぐには動き出せず呆然としていた。

 男がぐいと力を入れてルイの腰を引き寄せたので、彼女はその反動で我に返った。

「いいな、おまえ」

 男はルイの髪に顔を埋めた。

「は、離せ!」

 ルイは拳を振り上げて男に抵抗したが、その手は軽々と押さえ込まれてしまう。

 掴まれた腕を引かれ、ルイは男に正面から向き合った。

 男は楽しそうにルイの顔を見つめている。

「名は?」

 男に問われてルイは眉を寄せた。

「離せ! 誰が答えるか! 出てけこの野郎!」

「おっと、ご機嫌斜めだな。俺が名乗れば答えるか?」

「名前の問題じゃない! 離せって!」

「まさか。こんな女にお目にかかるなんてそうそうあることじゃない」

 ルイは驚いて動きを止めた。

「なんでわかる? 知ってる人以外にはばれたことなかったのに」

「抱き心地」

 微笑みながら言う男にルイは怒りを募らせた。

「俺はおまえが気に入った。いいだろ?」

「なにが?!」

「名前は?」

「だからなんで教えなきゃならん!」

 男は諦めたようにルイの腕を掴んでいる手を緩める。

 すかさず引き戻した腕をルイは反対の手でさすった。

「おまえがそうして男のなりをしているってことは、誰かから逃げているか、そうでなきゃ自分の身を守っているか、そんなとこだろう。俺が守ってやるから、俺の女になれ」

「は?」

 ルイは腕をさすりながら男から一歩後ずさった。

「おまえ、腕は確かだ。充分に交換条件になる」

「なんの?」

 ルイは男の言うことが理解できず困惑した表情で男を見上げた。

「おまえが逃げている相手から俺がおまえを守ってやる。だからおまえは俺を、さっきみたいに結界の中にいさせてくれればいい。悪い条件じゃないだろう」

「ちょ……ちょっと……」

 男は外套の前を開くと腰にさしていたナイフを取り出した。

 その鞘ごとルイの前に差し出す。

「俺はこれの正式な主だ。おまえも魔法使いなら聞いたことがあるだろう。これは『夜明けの星』」

 ルイはそのナイフの名前を聞き絶句した。

 魔法使いなら一度は耳にしたことのある魔法の剣のうちの一つ。

 その中でも『夜明けの星』は、ある生き物を剣に変えたという幻のナイフである。

 ナイフが主と認めた者以外がそれを使えば、どのような不幸が待ち受けているのかわからない。

 だが、一旦その主と認められたのであれば、それはどんな魔法でも無効にすることができるという。

 まさかそんなものが自分の目の前に現れようとは、大臣の孫であるルイでも思いも寄らなかった。

「わかるだろう? おまえなら。咄嗟にとはいえあれだけの、物理攻撃をかわす結界をはれるおまえだ。これが本物かどうか」

 確かに男の言うとおり、ルイにはそのナイフから漂ってくる並々ならぬ力が手に取るように感じられた。

 間違いなくこの男は『夜明けの星』の主だ。

 現に彼はルイの結界をやすやすと破って彼女を抱きしめ、その上一瞬で彼女の家に帰ることができた。

 『夜明けの星』の主としての彼でなければ考えられないことをやってのけている。

「……だ、だからって……」

「俺はこいつを信じている。だからおまえに出会えたと思っている。どうだ? 悪い条件じゃないだろう」

 ルイはごくりと唾を飲み込んだ。

 この男と『夜明けの星』を信じれば祖父から逃げ切れるかもしれない。

 あの冷たい両親と、厳しい祖父の元に帰りたくはない。

 ルイは昔ディルの家に遊びに行ったことを思いだした。

 今では散り散りなあの一家は、とても温かくルイを招き入れ、もてなしてくれた。

 帰るのならあのような家に帰りたい。

 ディルもきっとそう思っているだろう。

 存在しない暖かい家庭を思うのは、二人の共通した願いだった。

「さあ、どうする?」

 男に問われてルイは意識を現実に引き戻された。

「……確かに、あんたの言うことには一理ある。だけど」

「なんだ?」

 ルイは自分の小さな家の中を見回した。

 そこには小さなベッドと簡素な台所、商っている薬草の保存棚と本棚、小さな衣装箱くらいしかない。

 ここで男と二人暮らすのか――。

「……こ、ここで暮らすわけには……。ベッドもひとつしかないし……食器とか……」

 男は声を上げて笑った。

「そんなもの『夜明けの星』に俺が願えば一瞬で叶う。まあ俺はおまえと同じベッドでもなんら問題はないわけだが」

「私が困る!」

 睨み付けたルイに男の笑い声は侮辱と感じられた。

 こんな奴とは、いくら『夜明けの星』の主でも、絶対暮らしたくない!

「そうか、残念だ。おまえ、案外抱き心地良かったぞ。あの娼家の一番よりも」

 ルイの顔が怒りで真っ赤になった。

「そ、そそそそそそーゆーあれだから……!! その口……なんとかならないか!」

 ルイはこの手の冗談が嫌いだ。

 ディルでさえもその環境になれてこうした口の利き方をするのがなんとなく嫌で、あまりつきあわなくなったというのに。

「堅い女だな。それ以上に腕は確かだが。俺には捨て置けん」

「捨ててくれ」

 ルイはがっくりと全身の力が抜けた気がした。

「とにかく、俺たちは利害が一致すると思わないか? 別に同じベッドで眠らなきゃいいだけのことだろ? ここが狭いってんなら、すぐにでも別の家を用意できるんだぜ。こいつに俺が願えば」

 ルイはその言葉に顔を上げた。

「そうだ、た、確かに」

「だろ? 悪い話じゃない。じゃあ、決まったな」

 男は『夜明けの星』をしまうと右手をルイに差し出した。

「俺はキリム。おまえは?」

 ルイは差し出されたキリムの手を見つめ、それからキリムの顔を見上げる。

「故郷は何処?」

 ルイの問いにキリムは苦笑した。

「忘れたな。さあ、名前を教えてくれ」

「ルイ……」

 怖ず怖ずと告げたルイの手を、キリムは嬉しそうに握りしめた。

 結局すぐに朝を迎えた為、ルイは薬の調合を始めることにした。

 落ち着いて思い出してみれば、この薬を依頼した貴族は今日の午後、ここに取りに来ることになっている。

 早めに仕事を終えておかなければどうなることかわからない。

 貴族というのは気まぐれで、早朝使者をよこすこともある。

 キリムはルイが仕事をすると告げると頷き、ルイのベッドに横になった。

 すぐに穏やかな寝息を立て始めた彼をルイは恨めしく思った。

 誰の所為で眠れなくなったのか。

 昨夜、色街にでかけなければキリムと出会うこともなかったし、一緒に暮らす羽目になることもなかった。

 一眠りした今頃起きだして、仕事を始める筈だった。

 ああ、だけど、ディルの店に行かなければこの高山植物は手に入らない。

 ルイはぶつぶつと心の中で文句を言いながら調合のメモを書き付けていった。

 昼前に薬は出来上がった。

 ルイがストーブでシチューを温めていると、キリムがもそりと起きあがる。

「食事は?」

 ルイに声をかけられてキリムはゆっくりと頷いた。

 長い髪をかき上げながら、キリムはルイが調合にも使っているテーブルについた。

「なんだか……薬草臭いな」

 キリムはテーブルの匂いを嗅いで文句を言う。

「嫌なら出て行ってくれ」

 ルイは乱暴にキリムの前に皿を置く。

 ほわりと湯気が立ち上り、シチューの香りがキリムの顔を包んだ。

「いいな。女の手料理なんて久しぶりだ」

「あーそ。これからは当番制にする」

「なに?」

「だって当然だろう? 私たちは対等だ。利害が一致するだけだし、ただの同居人。私はあんたの妻じゃない」

「素直じゃないな」

 キリムはテーブルに肘をついてルイを見た。

「おまえも女なら、俺を見てなんとも思わない?」

 ルイはそう言われ、口元に運んでいたスプーンを止めた。

 明るい日差しの元でよく見ると、キリムは整った顔立ちをしていた。

 黒い髪は艶やかだし、瞳は強く人を惹きつける印象がある。

 背はルイより高いし、昨日抱き寄せられた感触では体もかなり鍛えてある様子だった。

 ――抱き寄せられた――

 思い出してルイは赤面し、キリムから顔を背けた。

「悪くはないだろう?」

「悪い」

 ルイはシチューを頬張ってキリムを睨み付けた。

「照れる必要はない。おまえも明るいところで見れば悪くない」

「悪くない?」

 ルイはぱたりとテーブルに手を落とした。

 ――そうだ、私は母に似ていなかったから嫌われていた。

 思い出したくもない、華やかな容姿の母。

 彼女は若い頃周りからさんざんもてはやされていた。

 結婚しルイを産んでからまったく男達に顧みられなくなった自分を呪っていた。

 なぜ男達から騒がれることがそれほど大事だったのだろうか、ルイには理解できない。

 母は男達が離れていったその原因をルイの所為にした。

 子供が自分に似て美しくないからだと。

 理不尽な理由でルイは母親から嫌われていた。

 ――その目の色は父親にそっくりよ。

 妊娠した妻を顧みず、愛人の家に入り浸った夫に。

 おまけに髪の色は母の大嫌いな義母、ルイの祖母と同じ色。

 その色を見るたびにおかあさまを思い出すのよ! 近寄らないで!

「ルイ?」

 キリムに呼ばれ、ルイはスプーンを握りなおした。

「どうした?」

「容姿のことを言われるのは嫌い」

 それだけ言ってルイはシチューを口に運んだ。

「で、食事当番だけど」

 皿洗いを終えてルイがキリムに切り出した。

「1週間交代ってことで」

 キリムは食後の茶を啜りながらルイを見上げた。

「俺の料理の腕を考えてモノを言った方が賢明だ」

「なぜ? 『夜明けの星』に願えばどんなご馳走だって一瞬だろ?」

 キリムはぐっと喉を詰まらせた。

「むしろ私が料理しない方がいいくらい。違う?」

「それはそうだが……料理に使ったことはない」

「今試してみたら? 食後のデザートに果物でも」

 キリムはカップを置くと唸った。

「見たこともない南国の果物なんてどう?」

「俺はお前の手料理が食べたい」

「果物は作れない」

「ううむ」

 キリムは唸りながら目を閉じた。

 どうやら『夜明けの星』に本当に願っているようだ。

 唐突に部屋中に果物の香りが充満した。

 見るとテーブルに一つの果物が載っている。

「これ?」

 ルイが指さすとキリムは唸ってから指で果物をつついた。

「初めてやってみた。食えるんだろうか?」

 ルイは果物を持ち匂いを嗅いでみた。

「美味しそうな匂いだけど……」

 ルイはそのまま果物を持って台所に行き、ナイフで皮を剥いて四つに切った。

 それを皿に盛るとキリムの前に差し出す。

「食べてみて」

 キリムは恐る恐る一つつまんで口に放り込み咀嚼してみる。

「甘い」

「そう!」

 ルイは微笑んで果物を食べた。

「うん、いい。『夜明けの星』って便利」

「だけどなあ……」

 キリムはまた一つつまんで口に放り込んだ。

 もぐもぐと口を動かしながら喋る。

「できることは自分でやるもんだ。昨夜のような緊急事態じゃないんだし」

「家事は当番制! 私はあんたの家政婦じゃない」

 ルイが唄うようにそういうと、キリムは思いっきり眉根を寄せた。

「後悔するなよ」

「なにを?」

「俺の料理を食うってことをだよ」

「だから、それは『夜明けの星』に頼めばいい」

 キリムは唸ってから頭をかきむしった。

 すっかり昼食を終えた頃、ルイの部屋の扉が静かに叩かれた。

 薬の調合を依頼していた貴族から使者がやって来たのだ。

「お約束の薬、できていますよ」

 ルイは愛想良く微笑んで使者に薬を手渡した。

 使者はルイにお辞儀をすると、部屋の隅のベッドに腰掛けているキリムにも頭を下げた。

「お宅のご主人様はこのようなお薬は必要ないのでは? それでもご心配なら、ちゃんとしたお医者様に診ていただいた方がよろしいですよ」

 ルイがそういうと使者は難しい顔をしてうつむいた。

「殿には……新しい……その……」

「え?」

「つまり、ご主人様には新しい愛人ができたのです」

 ルイは辛そうに告げる使者に驚いた。

「このようなこと、人様に言うべきでないのは承知しています。ですが、わたくし、秘密を一人で隠しておけるだけの器量がないのです。もう、辛くて……奥様に……申し訳なくて……。なのにご主人様はわたくしを、こうしてルイ殿の使いにお出しになったり、愛人との取り次ぎをお命じになります。わたくしには耐えきれない!」

 そういうと使者は泣き出してしまった。

 ルイのところにたびたびやってくるこの貴族の召使いリレルは、まだ少年だった。

 ルイは元々気さくな性格で、ディルがするような冗談がなければ、生真面目なリレルなどとはすぐに仲良くなれる。

 彼がルイに気を許し、こうした愚痴を言うのもそのためだった。

「リレル……しっかりしてください。私でよければ話くらいいくらでも聞きますよ。今はさあ、涙を拭いて。ご主人様にちゃんと届けてくださいね」

 リレルは袖で顔を拭きながらうなずき、ルイに薬の代金を支払うと何度もお辞儀をしてから帰って行った。

「よかった……キリムのこと、詮索されないで……」

 ルイはリレルが帰ったあと扉の前でつぶやいた。

「ルイ」

「わっ!」

 自分の真後ろでキリムの声がしたので、ルイは飛び上がった。

「何の薬だ? まさかとは思うが腎虚で男を殺しちまうやつじゃないよな?」

「……だ……!! 誰が!!」

「俺なら薬なんか使わなくても……」

 言い終わる前にルイはキリムの鼻っ面をひっぱたいた。

「なにする!」

「だから、そーいう口をなんとかしろ!」

「照れてるのか?」

「違う!」

「さっきのぼうずとはそんな話してたじゃないか」

「リレルは生真面目な性格なんだ。あ、……愛人とか、そういう……貴族の生活には慣れてない。可哀相に気の使いすぎだ」

 キリムは口の端を上げ自分のあごを撫でた。

「なるほどねえ。それでおねえさんからご指導ってわけ。年下好みなのか」

「そういう考えから離れろ」

 彼女の腰に伸びてきたキリムの腕を振り払い、ルイは大股でベッドへと向かった。

 ベッドへ腰掛けるとまだ扉の前で突っ立っているキリムを睨み付ける。

「これから寝る。あんたはそこから一歩も動くな」

「そりゃ無理だな」

「なぜ」

 キリムは嬉しそうにつかつかとベッドに近づいた。

「活きのいい魚がまな板に上がるってことだろ。黙ってみてるなんて勿体ない」

「は?」

「通じないか」

 キリムは困惑するルイにため息をついた。

「つまり、おまえが眠ったら……」

 ばちんと音がしてルイの手のひらがキリムの鼻先に当たった。

「わかった! 言わなくていい」

 そういうとルイは口の中で金縛りの呪文を唱え始めた。

 キリムが気づいてにやりと笑う。

「無理だ。『夜明けの星』の主だぜ」

 ルイは途中で気づき、思いっきり落胆の表情をした。

 力なくうなだれるとベッドへ腰掛ける。

「……どうしろって言うんだ……」

 キリムはベッドに近寄りルイの足下に跪いた。

「冗談だ。何もしないから眠れ。美人ってのはな、たくさん眠らないとできないものだ」

 ルイは疑いの眼差しをキリムに向ける。

「なんだよ、その顔」

「何もしないってのも信用できないが、美人が眠りで作られるってのも信用できない」

「いい加減に俺を信用しないと、本当に食っちまうぞ」

 三度、ルイの手のひらがキリムの鼻先に当たる。

「その口が信用できない」

「しょうがない」

 キリムは立ち上がると先ほど食事をした椅子に座った。

「ここに座って動かない。それでいいだろ」

 ルイはまだ睨み付けている。

 キリムはテーブルに向かって座り直した。

 ルイの目にはキリムの広い背中が映る。

「これでいいだろ。とにかくおまえ、疲れてるんだ。寝ろ」

 ルイはキリムの背中から目を離さずにベッドに横たわった。

 そのままずっとキリムの背中を睨み付けているつもりだったのに、ルイは疲れからか瞬く間に眠りに落ちた。

 その直後、振り向いたキリムはルイの寝顔を見てほうっとため息をついた。

「『夜明けの星』ってのは本当に便利だよな。よく眠って疲れを癒せよ、疑い深い美人の魔法使いさん」

 キリムの腰に収まった『夜明けの星』の、柄にはまっている赤い宝石がきらりと輝いた。

 ――あたたかい――

 ルイは全身が温かく落ち着いた空間に浮かんでいる。

 そこからゆっくりと自分の体が動き出す、そんな目覚めの感覚を楽しんでいた。

 ――あたたかくて気持ちがいい。

 だけど、ストーブの薪はそんなにたくさん入れてないから、そろそろ切れる。

 ――ああ、シチューはまだ残っていたかなあ。

 そういえばジャガイモの買い置きがなくなってたんだっけ――

 ルイの思考が徐々に現実のものとなり始める。

 ベッドから起きあがるつもりで寝返りをうとうとしたとき、ルイの肘に違和感があった。

「ん?」

 背中に何かが当たる。

 そしてルイの腹にはあたたかくて大きなキリムの手が――

「わあっ!」

「起きたか」

 ルイは飛び起きてキリムをベッドから押し出した。

「痛て」

「な……!! なにしてる!」

「約束通り、なんにもしてない」

「うそ! だ……だだだだ」

「抱いて寝てただけだ」

「だっ!!」

 キリムはベッドから落ちて軽く打った腰をさすりながら立ち上がった。

 にやにやと笑いながらルイの近くに腰掛ける。

「なかなか良かった。ただひとつ文句をつけるなら、もうちょっとこの辺が、こう……」

 言いながら両手を胸の前で覆って見せたキリム。

 そして何度目かのルイの平手は、またまたキリムの鼻先に炸裂した。

「あんたに構ってる暇はないんだ。金が入ったんだし、薪の補充と食べ物も少し買い出しに行かなくちゃ」

「買い出しって、もうとっくに店は閉まってる時間だ」

 キリムはすっかり日の暮れた窓の外を指さした。

「この辺りはね。色街の方なら夜にしか開いてない店はある。行きたくはないけど生活必需品だ。この際わがままはいってられない」

「色街、ねえ」

 ルイは外出の準備をしながら突然気づいたように手を止めた。

「あんたは行けないね。昨日の今日だもんね」

「本当に、なあ。残念だなあ。別の娼家も試してみたかったんだが……」

 ルイは軽蔑の眼差しでキリムを見上げる。

「そういうおまえだってやばいんじゃないのか? あの路地の奥に市場がある。そこに用があるんだろ。薪だってあそこの店が安かったし」

 ぴく、とルイの眉が跳ね上がった。

「安い? 薪が? このご時世に? 一束いくら?」

「う~ん、確か銅貨が3枚だったかなあ。随分安いなあと思ったんだが」

「安い。いつもいってるとこだと5枚はとられる」

「ほら、な。もうちょっとほとぼりが冷めるまでここから出ない方がいい」

 ルイは腕組みをして考え込んだ。

「でも買い物はしなくちゃ。お腹だって空くし今年は特に寒いし」

 ルイは外套を羽織ると扉に向かった。

「おまえ、大事なことを忘れてないか? 俺は『夜明けの星』の主だぞ」

「……へえ。できることは自分でやるんじゃなかったの? 大したご主人様だねえ」

 口をとがらせてイヤミったらしくルイはキリムを眺めた。

「非常事態は別だ。さて、晩飯は豪華にいくか?」

 ルイはごくりと唾を飲み込んだ。

 そういえば家を出てから豪華な食事など食べたこともない。

 だがルイの家の食卓はその豪華さとは裏腹に、冷たく味気ないものだった。

「おまえもな、もっと食って、ここんとこに肉、つけろ」

 キリムが胸を指さしたので、ルイは頬を膨らませてキリムに近寄った。

「余計なお世話! なんでその口、直らないかな」

「ときめかないか?」

「バカじゃない?」

「あー、そう。じゃ市場へいってこい。おまえだってあそこの用心棒達に顔を覚えられてるぞ。あ~あ~、危ねえなあ」

 ルイはぐっと喉を詰まらせたような声を出した。

「さあどうするね? お嬢さん。あそこに行って女だってばれたら、そりゃ体で返せって話になるだろうな。そうするとあんたが必死に守ってるものも全部ぱあ」

 キリムはルイの顔をのぞき込んで楽しそうに笑った。

「非道い奴! どうしてこんなのが『夜明けの星』の主なんだ」

 キリムはにやつきながら腰から『夜明けの星』を引き抜いた。

「こいつはな、女なんだよ。だからいい男にしか所持を許さない」

「……女? そりゃまあ確かに生き物を剣に変えた、とか、古代の賢者が魔法をかけたそうだけど、女なんて聞いたの初めて」

「そうかい?」

 キリムはそういいながら『夜明けの星』を両手で捧げ持った。

「夜明けの星よ、主に従い姿を現せ」

 ルイはあまりのまぶしさに目を閉じた。

 次の瞬間、甲高い少女の笑い声が聞こえてきた。

「バカじゃない? やっぱあんた。きゃはははは」

「ヴィー! 出て早々にそれはないだろ」

「だってあんたって、やっぱり女難の相」

 真っ赤な髪をした少女がけらけらと笑いながらキリムの足を蹴飛ばしている。

「あの娼婦ときたら、なにが一番売れっ子だって。あんただってすぐに見抜いて飛び出したじゃん。あそこまでいっといて、バカみたいになんにもしないでさ。お次にみつけたのはこの女。あれより相当マシだけど」

 少女はびっくり眼で立ちつくしているルイに近寄った。

「しっかりしな。あんたも魔法使いでしょ。こいつと一緒にいる限り、あんたはこいつになにを注文しても構わないんだよ。どうせ俺がすることなんだから。それとも、こいつがお気に召さないんなら、俺がいい男になってお相手しようか。少なくともこいつよりはマシ」

 少女の口のききように、ルイの瞳はますます丸くなる。

「ヴィー、止めないか。こいつにはその手の冗談が通じないんだ」

「わかってるよ。あんたが女に嫌われるなんてそうそうあることじゃないから面白かった。けどね、随分お嬢さん育ちのようだから、少しは世間ずれしてもらわないと困るな。俺を連れ歩くんなら」

 ルイは言われていることがよく飲み込めない。

 目をぱちくりさせながらキリムに向き直った。

「……流石に……主が主なら剣も剣と……」

「それは逆」

 ヴィーは片手で髪をかき上げてからその場でくるりと一回転した。

 次の瞬間にはキリムと同じくらい背の高い青年に変身していた。

「俺がこんなだからこいつもこんな」

 親指でキリムを指さし、ヴィーは楽しそうに笑った。

「ね?」

 優しい笑顔でキリムの首に腕を回して微笑むヴィー。

「……凄い……変化の術……。ここまで使えるなんて……」

 ルイはヴィーがナイフから少女、そして青年へと変身したことに感嘆のため息をついた。

「サラデルのクソじじいがかけた呪文の所為。あのじじい、てめえだけとっとと川を渡りやがって、俺を置いていきやがった。俺は元に戻る魔法を知らない」

「も、戻れるの?」

 ヴィーはルイの問いをきき、にっこりと微笑んだ。

「なに? やっぱ生身の男がいい? そりゃそうだよな。女なら誰でもそう思う。俺みたいないい男なんてそうそういねえだろ」

 キリムはヴィーの額を指でつついた。

「いい加減にしろ。女になっとけよ。おまえ、男だとほんとたち悪い」

 ヴィーはつまらなそうに唇をとがらせた。

 次の瞬間、少女の姿に戻っており、キリムの腕にぶら下がっている。

「まあそういうことだから。ルイ、あんた、何、食いたい?」

 ルイはぽかんと口を開けてヴィーを見つめた。

「な、何……って……」

「それよりも薪、かな。この部屋寒すぎる」

 床に何かが置かれる音がして、部屋の中に乾燥した木の匂いが漂った。

 ルイが音のした方を振り向くと、ストーブの前に薪の束が置かれている。

「ここ狭いからさ、一束ずついれりゃいいだろ。すぐに引っ張れるし、どってことない。早いとこ燃やしてくれよ」

 ヴィーに向かってルイはうなずき、慌ててストーブの天板を開けると薪を放り込んだ。

「それからさあ、ルイ。食事はどうすんの? 食材にしとく? できてるものでも構わないけど。こいつの料理なんてほんと、止めといた方がいい。俺が用意する」

 キリムがしたり顔でうなずいた。

「キリム……そんなことが自慢なの……」

 ヴィーが呆れてキリムを見上げる。

 二人がじゃれつくように笑い合っているところへ、ルイはおずおずと近づいた。

「あの……できれば、その……お肉が食べたい……。もうずっと、ベーコンの細切れみたいなのしか食べてない」

 ルイがそういうとヴィーは満面の笑顔でキリムから離れた。

「いいよ、ルイ。そうやって俺を頼ってよ」

 ヴィーがスキップしながらテーブルに近づく。

「これももうちょっと綺麗にしよう」

 そういうと両手をテーブルにつきだした。

 ゆっくりと広げていくヴィーの両手の間にはあっという間に豪華な食事が並んでいく。

 鶏の丸焼き、牛肉のシチュー、子羊のパテ、付け合わせの野菜も盛りだくさん。

 薬草の匂いが染みついたテーブルには白い布がかけられ、小さな花瓶にはルイの好きな花。

 銀の食器に高級な陶磁器。

 グラスにはワインが注がれボトルも一本置かれていた。

「わあ……テーブルがいっぱいになった」

 ルイは幸せそうに目を細めた。

「ルイ、笑うと美人だね。あんたは魔法の腕だけじゃなく見かけもいい」

 ヴィーに言われてルイは笑顔を凍り付かせた。

「容姿のことは……」

「言われたくないんだろ? でも本当のことさ。髪も染めるのはやめな。あんたの本当の髪の色はとってもいい。その染料は染めなければ落ちるだろ」

 ルイは厳しい顔をしてヴィーを見た。

「気にするなって。俺がいればあんたを守ることなんて簡単。あんたは女に戻って、前みたいに綺麗にしてればいいんだ。追っ手からも守ってやる」

「ヴィー!」

 キリムは叱りつけるようにヴィーの名を呼んだ。

「おまえ、また人が眠っている間に心に入り込んだな! そうやって他人をからかうのもいい加減にしろ」

「からかってなんかいない。あんたがルイを気に入ったからだろう。俺だって気に入った。俺たちはルイを守るんだ。二人で」

 ヴィーは嬉しそうに微笑んだ。

「サラデルのクソじじい以来の力を感じる。あんたはきっと俺の呪いをといてくれる。だけど今すぐじゃない。……さ、めし、食って」

 ヴィーはルイの隣に回り、椅子を引いて腰掛けるように促した。

「鶏は俺が切り分けてあげるよ。ルイは胸の辺りがいいよね。脂肪が少ない。ああ、皮も食べなくちゃだめ。これは肌にいい」

 甲斐甲斐しく切り分けるヴィーの横で、キリムは面白くもなさそうに片肘をついた。

「おまえの主は俺だっての」

「だから?」

 ヴィーが挑戦的に微笑むのでキリムはますますむっとした。

「ヴィーは食べないの?」

 取り分けられた皿を受け取り、ルイは申し訳なさそうに訊ねる。

「俺はただのナイフ。ものなんか食わない」

 にっこりと微笑むヴィーに、ルイは不思議な安心感を覚え始めた。

「さて、腹も一杯になったし」

 キリムが立ち上がってベッドに向かった。

 ルイはまだ残っている食事を見ながら腕を組む。

「どうしたのさ、ルイ」

 ヴィーが不思議そうな顔でルイを見上げた。

「これ、どうしようかと思って……。勿体ないし」

「心配すんなって。俺が別のところに保管しとく。あんたいい嫁さんになれるよ。お嬢さん育ちのくせに経済観念は発達してんな。あ、薪の追加は置いといたから」

 テーブルに向かってヴィーが手を一振りすると、食事は全て消え失せた。

 ルイに微笑んだヴィーはくるりと背中を向けキリムに近づいていった。

 それを見たルイが叫ぶ。

「あ! ……ちょ、ちょっと! ベッドはひとつしかないんだ、3人は……」

 ルイが言い終わる前にヴィーは元のナイフに戻った。

「……それはいいんだけど……」

 キリムと二人きりで夜を過ごすのか――

「どうしてそう信用のない目で俺を見るかな」

 キリムがため息をついてベッドに腰掛ける。

「大体はじめっから信用がおけないことしてるじゃないか」

 ルイは椅子の背を握りしめた。

「人が寝てる間にこっそり潜り込んで」

「寒いかと思ったからだ。あんまり寒すぎると眠れないだろうが」

 なるほど一理ある――だがそういう問題ではない。

 ルイの貞操の危機だ。

 ――さて、こうなったら仕方ない。

 あきらめてふたり、一つのベッドで眠るか――

「いやいや、まさか……」

 ルイがつぶやいたとき、扉が激しく叩かれた。

 キリムとルイは見つめ合い、ふたりして扉を振り返る。

「まて、俺が出る」

 キリムが立ち上がり扉に近寄った。

「誰だ?」

「リレルです! ルイ殿! 大変なんです!」

 キリムが扉を開けると、リレルが部屋の中へ転がり込んできた。

 勢い余って床に倒れ、両手をついて涙でぐしゃぐしゃになった顔をルイに向ける。

「どうしたんですか?」

「ルイ殿! ルイ殿! ご主人様が……!」

「なんですか? まさかとは思いますが、書き付けた分量を守らなかったりしたんじゃ……」

 リレルは細い悲鳴のような声を出し、一度大きく息を吸い込んだ。

「とにかく、とにかく、ご一緒してください!」

 床に四つんばいになったままのリレルを、後ろからキリムがひょいと抱き上げた。

「ぼうず、ご主人様のいるところを思い描け。ルイ!」

 キリムはルイに左手を差し出した。

 ルイは急いでキリムの左手を掴む。

 担ぎ上げられたリレルは驚いたままキリムの顔を振り返り――

 そうして、リレルの主人である貴族、エブシャンの愛人宅へと3人はやって来た。

 ルイの目の前には苦しそうに胸をつかんでベッドに横たわるエブシャンと、心配そうにそれを見ている美しい貴婦人。

 豪華な室内はどうみても貴族の家だが、それよりも目を引くのは貴婦人の着ているドレス。

 どこでどう意匠されればこうなるのか、真っ白な胸元が限りなく露出している。

 たわわな果実――。

 ルイは同性ながらも思わず凝視してしまった。

 リレルがキリムの腕から解放され、エブシャンへと駆け寄る。

「ルイ殿、助けてください」

 我に返ったルイは急いでベッドへ行った。

「分量を守りませんでしたね」

 そういってエブシャンをのぞき込むと、苦しい息の下から涙目が訴えている。

『私が悪かった。助けてくれ』

 ルイは目を閉じ呪文を唱える。

 エブシャンの息が一度止まり、激しく胸が上下したと思ったらいきなり口から黒い固まりを吐きだした。

 ルイはそれを手で受け取り、サイドテーブルにあったちり紙に包むとゴミ箱に放り込む。

 エブシャンはその後大きく息を吐き出してから何度か深呼吸をし、ほう、と吐息をついた。

 ルイは微笑んでリレルに振り返る。

「薬は吐き出させました。あとは大量に水を飲ませてください。何も入ってない、ただの水ですよ。間違ってもお酒はダメです」

 リレルはそれを聞くと大急ぎでその部屋を出て行った。

 ルイはサイドテーブルにあった水差しから、隣のコップに水を入れエブシャンに差し出した。

「飲めますか?」

 エブシャンは苦しそうに上体を起こすと胸を掴んだままコップを受け取る。

 一口ごくりと飲み干した。

「丸1日、何も食べずに、そうして水だけ飲んで過ごしてください。薬の成分が薄まります。体内から出て行ってしまえば楽になりますから」

 ルイの言葉に驚いてエブシャンはごほごほと咳をした。

「……丸……1日……? それは、困る……。朝から会議が……」

「自業自得ですよ。あなたは健康なのに無茶なさるから。まだお若いからこれくらいで済んでいますが、お年寄りならそのまま川を渡っているところです。会議などお休みなさい」

「……ルイ殿……ご存じのようにわたくしは、今……」

 エブシャンは心配そうに両手をもみ絞る愛人をちらりと見上げた。

 ルイは呆れたようにエブシャンを見下ろす。

「ここにいるのがばれるとまずいのでしょう。それも含めて自業自得だというのです」

 エブシャンの縋るような瞳とルイの冷たい視線がぶつかる。

 廊下から激しい足音がして、デカンタを持ったリレルが駆け込んできた。

「おかわりはいくらでもご用意致します。この家で一番大きいものに水を汲んで参りました」

 リレルは大きなデカンタを両手で抱えていた。

 そのままフラフラとテーブルまで近寄り、どかっと大きな音を立てて置く。

「リレル、ご主人様はこれから丸1日ここに籠もられます。その間の仕事は全てお休みです」

「え!」

 リレルはルイの言葉にぽかんと口を開けた。

「ご主人様を死なせたくなかったら、ベッドに縛り付けてでも水を飲ませ続けなさい」

「そ……! それは……」

 リレルは哀れむ気色でエブシャンを見た。

「ルイ殿のお言いつけとはいえ……あの……」

「仕事は休みです」

 ルイはリレルに厳しい顔をしてみせた。

 ふ、とルイの肩に柔らかな手が置かれる。

 エブシャンの愛人、リーヌの手だった。

 ルイが驚いて振り向くと、そこには今にもこぼれんばかりの涙をたたえた青い瞳があった。

 そして胸元は眩しいばかりに白い。

「ルイ殿」

 ルイはごくりと唾を飲み込んだ。

「我が殿は、明日のお仕事はどうしても外せないのです。とてもとても大事なお仕事で、今後の殿の一生を決める大切な大切なお仕事なのです。どうか、どうか何卒、今すぐにでも、殿が回復する魔法を」

 リーヌはルイの手を両手で握りしめた。

 その温かさ、柔らかさ、そして直向きな表情と青く大きな湖を思わせる瞳。

 見下ろしたルイの視界は彼女の姿で埋め尽くされる。

 ――白く浮き出るように輝く胸元を背景に――

 ルイは思わずぶるぶると首を横に振った。

「そんなものはありません。体の中に残った薬を排出させるしか方法は……」

「ルイ殿」

 はっと気づくとルイの背中にリレルがしがみついている。

「お願いいたします!」

「リ、リレル!」

「お願いです。殿は明日の仕事に全てを捧げていらっしゃるのです。どうか」

「そんな大事な仕事の前に、のほほんとこんなこと……」

「ルイ殿ぉ……。お願いですぅ~」

 リレルは大声で泣き出した。

 前門の虎後門の狼とはまさにこのことか。

 ルイは気が遠くなりそうになりながらも、処方した薬を中和する方法なんかあったっけかなあ~と微かな記憶を探り始めた。

 そうして――

「あ!」

 ルイが大声をだす。

「良い方法があるんですね!」

 リーヌとリレルは二人同時に叫んだ。

 ルイはとにかく二人を振り払い、またベッドに横になったエブシャンに振り返る。

「申し訳ありませんがお代金は今回の倍程いただきますよ、エブシャン殿」

「……いくらでも払う……。朝までに治るなら」

「その言葉、忘れないでください」

 ルイは踵を返すと今まですっかり忘れていた存在、キリムに向かって走り寄り、がばっと抱きついた。

「おおっと、嬉しいね」

「ディルの店に連れてって!」

 ルイの言葉はエブシャンとリーヌの寝室に響き渡った。

 大きな音を立てて台所に何かが転がり込む。

 ディルは混み合いだした店を気にしながらも、台所に続く扉を開いた。

 そこにはルイと、彼女が抱きついている見知らぬ背の高い男。

「ルイ! どうして裏口なんかから……っていうか、それ誰?」

 ディルはキリムにしがみついているルイを睨み付けながら近寄った。

「ディルー! 頼んでおいたアレ、入ったのー?」

 ディルがルイの肩に手を伸ばしたところで、客が大声で店から呼んだ。

 ディルは舌打ちをして振り返り、店に戻っていったが台所との扉は開けたままにしておいた。

「こっちこい!」

 ディルはルイにそういうと、愛想笑いを作って接客に戻った。

「まずいなあ。めちゃくちゃ機嫌悪そう……」

 ルイは、これはいつもより高値をつけられそうだと危ぶんだ。

 考えてみれば慌てて家を飛び出してきたから財布も持ってない。

「ツケだなんて言ったら大変だ」

 ぶつぶつと文句を言いながらキリムから離れる。

 何気なくキリムを見上げると、なにやらやたら嬉しそうにルイを見ていた。

「……なに?」

「いや、やっぱちゃんと正面向いて抱き合わないとなあ」

 ルイはすっかり癖になったかのようにキリムの鼻先に平手をお見舞いした。

 ディルの店は丁度混み始める時間帯だったようで着飾った女達が溢れていた。

 ルイがひょいとディルの後ろから顔を覗かせると、客の一人が微笑んだ。

「あら、新しいお店の人? 素敵じゃない」

 ルイの後ろからキリムも現れる。

「まー、こっちもいい男だわ」

 ディルは愛想笑いもどこへやら、思いっきり眉を寄せてキリムを睨んだ。

「どうしたの? 人手が足りないならいつでもあたしが来るのに」

 別の客がディルにしなだれかかる。

「友達なんだ。ああ、あんたは確かこれだったよな。男を惹きつける香水」

 ディルはカウンターの下からピンク色の瓶を取り出した。

「はい、金貨1枚ね。そっちのあんたは肌がつやつやになるオイルだったよな。ほらよ」

 今度は緑色の瓶を一本取り出した。

「こっちも金貨1枚だ。ほら、お望みのものはこれでおしまいだろ。さっさと店に戻れよ」

 女達は嬉しそうに懐から金貨を取り出してディルに手渡す。

 ピンクの瓶を買った女は両手でディルの手を握りしめながら渡した。

「ありがと。いい男が揃ってるんならまた来るわ」

 ひらひらと二人の客が手を振りながら出て行った。

 まだ店には数人の女がいる。

「ああん、ディル! さっきの女が買ってった香水、あたしにも頂戴よ」

「あんたはそれより、もっと化粧の方法を覚えるべきよ。ほら、ディル、こないだ新しい白粉を調合したって言ってたじゃない」

「あたしそんなの聞いてないわよ。あたしにも頂戴!」

 それぞれがカウンターに詰め寄ってわめき散らす。

「順番だ、順番。ひとりずつな。予約は受け付けてるから、あんたらにあった品を調合する。そのかわり、普通より高くなっても文句は言わせないぞ」

 ディルはカウンターにある紙に客から聞いた要望を書き出していった。

「ええっと」

 ルイがおずおずとディルの顔色をうかがう。

「お客様方には大変申し訳ないんだけど、こっちはかなり急いでまして……」

「倍増しだぞ」

 冷たくディルに言われて息を詰まらせるルイ。

「やあん、ディルったら機嫌が悪いわあ。どうしたの?」

「こっちのおにーさん、同業者? この店、変わった薬草とかも置いてるもんね」

 客達はそれぞれが自分の希望を言うと、その下に名前を書いていった。

「これでいいわよね。じゃあ明日また来るわ」

「こっちの素敵なお兄さん、明日もいる?」

「けんかしてるなら早く仲直りなさいな。あ、あたしの店にも来てね。ディル、機嫌直すのよ」

 女達は気を利かせ、手っ取り早く注文だけすると帰って行った。

「営業妨害だな」

 ディルは書き付けた紙を持ち上げるとインクを乾かす為に息を吹きかけた。

「悪気があるわけじゃないんだ。急だったんで……その、財布を……忘れて……」

「なんだと? ツケなんかきかねえぞ」

「うん、だから、その……」

「大体なんだ? その黒くてでかい奴」

 ディルは紙を持ち上げたまま顎でキリムを指した。

「……ええっと、わけありで……」

「わけもなく男と抱き合って人んちの台所にいるってのはないだろ」

 キリムはそれを聞くとにやりと笑った。

「あんた、妬いてるな」

 図星をつかれてディルは顔を真っ赤にした。

「なんだとてめえ」

 慌ててルイがディルの肩を押さえる。

「ちょっとまって、まって。今けんかしてる場合じゃないんだ。昨夜の高山植物、確か中和する薬があったよね? あれ、欲しいんだ」

 ディルはルイを据わった目つきで睨んだ。

「なんだ? この男に使おうって思ってたら必要なかったってか?」

「ディール! 馬鹿なこと言ってないで。私の客が分量を守らなかったんだ。とりあえず吐かせはしたけど、早く効果を落としたいって言うんで……つまりその、急いでるんだってば」

 ディルは鼻から思いっきり息を吐き出すと持っていた紙をカウンターに置き、店の商品棚へと向かう。

「今日は割引はねえぞ。銀貨2枚だ。きっちりとな。手持ちがねえなら日が経つにつれて上げていく。今日中に持ってくれば2枚。明日なら3枚。明後日なら4枚だ」

「ディルぅ~」

 ルイは泣きそうな声を出した。

「さっきは女から金貨1枚ずつとりやがって。ぼったくりだな」

 キリムがぼそりと呟いた。

「なんだと! でかいの。嫌なら別にいいんだぜ。ルイの客が死のうが俺には関係ねえ」

「やめー!! 二人とも、そんな暇ない!」

 ルイは急いでディルの手から中和剤をひったくるとキリムに飛びついた。

 キリムはにやりとディルを見下ろす。

「悪いね」

 ディルが憎々しげにキリムを睨み付けるとルイがディルに振り向いた。

「これにはわけがあるんだ。かならず話に来るから!」

 ルイが叫ぶと抱き合った二人の姿がかき消えた。

 ディルはたまりにたまった怒りをカウンターにぶつけた。

 消えたときと同じように唐突に、しかも二度目の入室。

 エブシャンと愛人の寝室は、二人が消えたときと殆ど何も変わっていなかった。

 心配そうなリレルとリーヌ。

 相変わらず苦しそうな息をしているエブシャン。

 最初と違うのは、二人が現れたときの、リレルとリーヌの安堵の表情だ。

「ルイ殿!」

 二人してルイの名前を叫ぶと駆け寄ってくる。

「お、お待たせしました。これ、効き目を早く排出してくれる薬です。分量を守って下さい。必ずですよ」

 リレルとリーヌは拝むようにしてルイに頷いた。

「スプーンに一杯です。リレル、持ってきて」

 リレルは凄い勢いで寝室を飛び出すと、あっという間に戻ってくる。

「ではスプーンに一杯、ご主人様に飲ませて」

 リレルはエブシャンを抱き起こしているリーヌのそばに駆け寄り、瓶からスプーンに取り出した液体を差し出した。

「さあご主人様」

 エブシャンは苦々しい顔をしてスプーンを口に入れる。

「すぐに水!」

 ルイが叫ぶとスプーンを離したリレルがコップを差し出した。

 エブシャンはスプーンをくわえたまま顔色を変えている。

 リレルがスプーンの端を持ち直すとエブシャンは口を開け、リレルからコップをひったくり一気に飲み干した。

 それから激しく咳き込む。

「ご主人様! ……ル、ルイ殿、大丈夫なんですか?」

 リレルが振り向きルイに問う。

 リーヌはエブシャンの背中をさすりながら涙目になっている。

「大丈夫です。苦いだけですから……相当ね」

 ごほごほと咳き込みながら、エブシャンはルイを見上げた。

「……に、苦いなんて……もんじゃ……」

「それも併せて自業自得ですから。文句を言っても始まりません。半時ほどすれば効いてきます。血流も落ち着きますから、歩くのにも不便はないでしょう」

「……そ……そうか……」

 エブシャンは少し恥ずかしそうな気配を見せた。

「さて、申し訳ありませんが、お代金はちゃんといただきますよ」

 ルイはリレルに向かって手を出した――筈なのに――

 ルイの手はリーヌの両手にしっかりと握りしめられた。

「ありがとうございます、ルイ殿。ここに……」

 リーヌは握ったルイの指先に口づけすると右手を離し、胸元から金貨を3枚取り出した。

「これはお礼も含めております。今後とも、どうぞよろしく……」

 ルイの手のひらに、そのぬくもりを伝える金貨をリーヌは乗せた。

 あまりのことに呆然とするルイに、背後からキリムが近寄る。

「えーっと、ちょっと急ぎますんで、この辺で。お館様も奥方様も、ごきげんよう」

 キリムはそう言うとルイの腰に手を回し、後ろから抱きしめた。

 二人の姿はエブシャンと愛人の寝室から音もなく消え去った。

 我に返ったルイはキリムの手が自分の腰にまわされたままなのに気づいた。

「いつまで抱きついてる!」

 ルイが肘を後ろに突き出す前にキリムはさっと身を引いた。

「それはないだろう。びっくりした顔して固まってたから助けてやったんだ」

 びっくり――?

 そうだ、確かに驚いた。

「……あんなこと……されると思ってなかったから……」

「そりゃそうだろうな。お嬢さん育ちのあんたじゃ男の口説き方なんて知らないだろう。ありゃとんでもない魔性の女だぞ。あのお屋形様、長生きできりゃいいけどな」

 ルイは口を引き結んで握った手を開き、中の金貨を眺めた。

 エブシャンの愛人の胸元が、思わず知らず目の前に広がる。

 ルイは金貨を握りなおすと頭をブルブルと振った。

「しかしすげえ胸だったなあ。あのドレスもそれに合わせたんだろうが、なにしろ迫力が違う」

 キリムは感心しながらベッドに腰掛けた。

 ルイは胡乱げにキリムを流し見る。

「あそこまでなれとは言わねえけど」

 そういってキリムはルイを見る。

「やっぱもうちょっとくらいはあってもいいよな」

 ルイはキリムを無視して外套を羽織り、棚から財布を出すとポケットに突っ込んだ。

「さっさとディルに払いに行ってこようっと」

「おいおい、俺は無視かよ。あの優男、あんたの男なのか?」

 キリムは慌ててルイの後を追う。

「あんたは来なくていいよ。ディルの店は色街の外れにあるんだ。あの路地は通らないけど、前は抜けなきゃならない。ここで待ってて」

「そうはいかないな」

 キリムは扉を押さえ、ルイの前に腕を出す。

 前を塞がれたルイはキリムを見上げた。

「今日中に払えば銀貨2枚ですむ。早く行かなきゃ」

「俺と一緒じゃあいつに会えないのか? やっぱりあいつとできてるのか? 他の男と一緒に会うのはまずい関係なんだな?」

「ディルは幼なじみだ。別にそんな関係じゃない。あんたはうちにいてくれていい。あの路地に近づいて、昨夜の店の用心棒があんたに気づいたら大変なことになるだろ」

 ルイは顔をしかめてキリムに言った。

「それはおまえも同じことだ、ルイ。どうしてさっきみたいに『夜明けの星』に頼らない?」

「今は急いでない。そりゃまあ確かに、今日中ってことだと急がなきゃならないけど。それでも銀貨の1枚くらいはなんとかなるほどお金が入ったんだし」

 ルイはキリムから目をそらしてドアノブを見た。

「ルイ、なんで目をそらす。俺とあいつを会わせたくない理由があるんだろ?」

 ルイはドアノブから更に足下に視線を落とした。

「そうじゃなきゃ俺と一緒に行ったって構わないだろ。さっきみたいに抱きついて、ディルの店に連れてって、って、どうして言えない?」

「……けんかを……」

 小さな声でルイは言った。

「けんかをしてるところを見たくない。私の知ってる人が言い争ってるのを見たくない」

 ルイは毎日けんかばかりしていた両親の姿を思い出した。

 毎日、毎日、本当に、どうしてけんかをする原因がこんなにも、この家にはあるのだろう――。

 キリムはぼんやりと視線を落としたままのルイの肩を掴んだ。

「誰があいつとけんかなんかするもんか。俺の方がいい男だし、おまえは俺のもんだって決まってるからな」

 ルイが驚いて顔を上げるとキリムはそのままルイを抱き寄せた。

「もう場所は知ってるのと同じだ。『夜明けの星』が運んでくれる」

 キリムが言うが早いか二人はディルの店の台所に立っていた。

「ねえ、ディルぅ」

 鼻にかかった甘ったるい女の声がする。

「どうしてあたしの店に来てくれないのぉ?」

「だから何度も言ってるだろ。おまえの店が開いてる時間は、俺も商売してるんだっての」

「ああん。だから昼間でもいいって言ったじゃない」

「何言ってるんだ。寝てる癖に」

「あら、どうして知ってるの?」

「おまえ有名だぞ。店がひけると寝てばっかりで、ちっとも化粧や手入れをしないんだってな。商売道具なんだから、肌の手入れくらいするもんだ。香油の処方、してやろうか? 肌、乾燥気味だ。小じわが増える」

 女は驚き急いで目尻の皮膚を引っ張った。

 そして持っていた小袋から小さな鏡を取り出すと必死で確認するようにのぞき込む。

「やーね、もう……ああ、びっくりした」

 ディルはくすくすと笑う。

「あたしまだ18よぅ。小じわなんかないわよ」

「そうやって手入れを怠ると老けるのは早いぞ」

 脅すようにディルが言うと、女は首をかしげて微笑んだ。

「あんたそうやって商売してんのよね。口は上手いけど、あっちはどうなのよ? 怖くてあたしんとこ来られないんじゃないの?」

「バカ言え」

 ディルは女のまねをして首をかしげた。

「俺の味は病みつきになるぞ」

 女は甲高い笑い声を上げる。

「本当ぉ? 嘘じゃないなら証明してよ~。店が終わったら来て。あたし、寝ないで待ってるから」

 女は細い指先でディルの胸元に文字を書いた。

「絶対ね。約束」

 そういって女の腕がディルの首に巻き付く。

 店と台所を隔てる扉の隙間から、ディルを責めるような視線が漂ってきた。

 女を送り出し、扉を閉め振り返る。

 ディルの前にはルイとキリムが立っていた。

「よっ!」

 キリムが機嫌良く右手を挙げた。

「借金の返済に来たんだが、お取り込み中だったんでとりあえず待ってた。ほら、ルイ。金払ったらさっさと帰ろうぜ。俺たちの愛の巣に」

「あ、愛の巣ぅ?」

 ディルの声が裏返る。

「ル、ルイ?!」

 キリムの横に立つルイの眉はこれ以上ないくらい眉間に寄っていた。

「はい。銀貨2枚」

「ルイ……い、いつでも……よかったの……に……」

 受け取るディルの手は震えていた。

「……早いほうがいいと思って……。安くて済むし」

「や、や、そうだけど……まさか営業時間中に来るなんて……」

「閉まってからじゃ明日になっちゃう。それだと3枚になるじゃない」

「いや……いや、その……あれは言葉のあやってもんで……」

「お商売がお上手でおよろしいこと。私にはとても真似できませんものでね。お陰で万年貧乏暮らしです。羨ましいですわ、ディルさま」

「ル~イ!」

「キリム、帰ろうっ! 愛の巣じゃないけど狭い我が家に!」

「ルイー!」

 ディルは閉店の札を急いでカウンターから取り出した。

 ものすごい勢いで扉を開くと表に札を出し、扉には鍵をかける。

「待て、待ってくれ。話し合おう」

「話すことなんかないよ。私たちは友達だし」

「友達だ。ああ、友達だ。友達だから誤解は解いておかないと」

「誤解? 誤解なんかするような場面にあったかなあ」

 二人のやりとりにキリムはニヤニヤとしている。

「誤解だとも。ああ、誤解だ。あの女は単なる客で、別になんの関係もない」

「関係もない女があんな……その……」

 ルイはさきほどの女がディルにキスをしていた場面を思い出す。

 そのお陰で、ありがたいことにリーヌの白い胸は消え去ったのだが、あの女のドレスもリーヌに負けず劣らず胸が露出してはいた。

 ――でかけりゃいいってもんじゃない――

 ルイは己を振り返る。

「あれはだな、あいつらの商売上の……その、仕事上の口説き文句なんだ。決して本心から言ってるわけじゃ……」

 いつしかディルの額には大粒の汗が浮いている。

「じゃあなんなの? ディル。あんたが私に言ってた言葉も商売口上だったってわけ? ああ、そう」

「あんたに言ったのは商売なんかじゃないだろう。もう学生の頃からずっと、あんたのことが好きだって、俺はちゃんと言ってきた筈だ」

「友達だもんね」

「友達としての好きじゃないって。何度も言ってるだろう。俺はあんたに頼られたいんだ」

「他の女と……キ……あんなこと! ……して、……なにが頼られたいだ」

 ディルはふと、ルイの感情が自分に向けられているのに気づく。

 普段めったに見せないルイの深い心。

 ――もしかして……?

「……ル、ルイ? なんか知らねえけどもしかして妬いてる? だったらめちゃ嬉しいんだけど」

 ディルの鼻先にもルイの平手が炸裂した。

 キリムが思わず自分の鼻を両手で覆う。

「嫉妬する理由がない。誰にも彼にもあんなことをしてるんだったらもっと信用がおけない! 友達なら尚のこと!」

 ディルは涙目になりながらルイを見る。

「だから、仕事上の付き合いだって。それに俺、商売女とは寝たことなんか一度もない」

 その言葉にルイの眉が跳ね上がった。

「じゃあ商売じゃない女となら……ね……寝……?」

 ディルは両手で鼻を覆った。

「……ち、違うって。それこそあんた以外に……いや、あの……」

 ディルは突然もうひとりの人物がここにいることに思い合ったったようにキリムを見る。

「他人様がいるところで言うような話じゃないな」

 ルイもキリムを振り返る。

 キリムはにやつきながらルイとディルを交互に見やっていた。

「まあまあお二人さん、俺のことは気にしないで続けてくれ。遺恨があっちゃあ別れてからも悔いが残るってもんよ」

 キリムの言葉にディルが噛みつく。

「別れる? 誰が?」

「あんたとルイさ。学生の頃からってんなら腐れ縁だろ? まあルイには俺という新しい男ができたんだからあんたとは別れる。それが筋ってもんじゃないか。さっきのはちょっとしたやきもちだよな、ルイ。昔は自分の男だった奴が別の女に言い寄られてるなんて、あんまり気持ちのいいもんじゃないもんな」

 ルイの肩を抱き、キリムはぐいと引き寄せた。

 ルイはそれよりもキリムの言った言葉に気を取られていた。

 ――昔は自分の男だった奴が別の女に言い寄られてるなんて、あんまり気持ちのいいもんじゃない――

「なるほど」

 ルイはキリムに肩を抱かれたまま頷いた。

「ほらな」

 キリムは嬉しそうにルイの言葉に同意した。

 ルイはキリムを見上げる。

「違うよ。あんたの言葉に同意したんじゃない。……あ、いや、理解はしたけど」

「なんだよ。理解したんならこいつと別れて俺の女になるってことだろ」

「違うんだ」

 ルイはキリムの手を叩いて離させる。

「さっきディルがあの女といたとき、なんていうか、こう、腹が立ったんだ。それでそのままディルに当たってしまったんだけど、母もこんな気持ちだったんだなって」

 ディルは一歩ルイに近づいた。

「ルイ。あんたの母上は美人だけど、あんたと母上は違うんだ」

 ルイはディルに微笑んだ。

「うん、わかってる。……でも、母が毎日父に対して怒っていたのはこういうことだったんだなって、今頃気づいた。自分のものだって思ってた父が愛人の家に入り浸りになって、帰ってこなくなって、自分のものじゃなくなったのが許せなかったんだ……。人なんてものでもなんでもないのにね」

 ルイは小さな声で呟いてからディルに向き直った。

「ごめんね、ディル。私たちは友達だけど、ディルが誰と仲良くしようが私が怒ることはないんだよね」

 ディルは驚きに目を丸めてルイの肩を掴んだ。

「ルイー! それはないだろう。さっきは勢いよく妬いてくれたのに、なんでそういつも自分一人でわかったようなことを言って気持ちを抑えちまうんだよ。いいんだってば、俺にならいくら当たっても」

「……んー、だけど、私に怒る権利はないよ。妻じゃないし」

「わーあああ!」

 ディルはルイの肩を揺さぶった。

「だからそういうことも全部含めて俺を頼ってくれって、ずっと言ってるじゃないかー! いいんだって、束縛してくれよ! 頼むよ、ルイぃ!」

「なんだ、そういう趣味なのか」

 キリムが横から口を挟む。

 ディルはキリムを睨み付けた。

「消えろ、部外者」

「部外者じゃないぞ。当事者だ。さっきから言ってるように、俺はルイの新しい男なんだ。おまえは用なし」

「誰が決めた!」

 ルイがキリムの鼻先を引っぱたく。

 キリムとディルが同時にそれぞれ自分の鼻を両手で押さえた。

 ルイの細い指先は、いつも的確に鼻先の一番痛い部分にヒットする。

「ああ、なんだかこんがらがってきた。とにかく、今日は薬の代金を払って帰るよ。はい、ディル。銀貨2枚ね」

 ルイは財布から銀貨を出してディルに差し出した。

「ルイ……あのさ、まあ、その、今日はちゃんともらっておく。だけどいまだけだから。……それと」

 ディルは受け取りながらキリムを見上げた。

「今日はもう店じまいしちまったから、奥で食事でもしていかないか? こいつのこと俺にちゃんと説明してくれよ。友達なんだから、それくらいはいいだろ?」

 ルイはディルの顔をまじまじと見つめてから頷いた。

「そうだよね。私もあんたには説明するつもりだった。そうだよ、早いほうがいいよね」

 ルイはキリムを見上げて頷いた。


   ***


 ディルの家の台所はルイの家より倍は広い。

 というより、ルイの借りている狭いアパートの一室全部と同じくらいの広さはある。

 1階は店と台所や水回り、2階に部屋が二つあり、そのうちのひとつは前店主のものだった。

 店主はディルを跡継ぎと決めると、まるでそれを待っていたかのように急逝してしまった。

 家族のいなかった店主はディルを息子のように可愛がり、この店の全てをディルに託した。

 広い台所は羨ましい。

 ルイはいつもそう思う。

 ――祖父の家にいた頃は料理なんてしたくてもさせてもらえなかった。

 魔法学校の授業で薬品の調合を覚えると、ルイは料理もそれに似たものだと気づき、ついには有り余る好奇心に負け料理の勉強まで始めた。

 そしてそれは祖父の不興を大いにかった。

 ――おまえは手の荒れるような仕事をする必要はない――

 つまりそれなりのところへ、祖父の家と釣り合いの取れるの貴族との結婚は、ルイが生まれる前からすでに決められたものだった。

 ルイはそれを知らずに育ってきた。

 そして魔法学校を卒業したあと知らされた。

 それまで祖父の横暴さには黙って耐えてきたルイだったが、卒業前に仲の良かったディルがいなくなったことも重なり、彼女の中の何かが弾け飛んだ。

 祖父の鼻先にいつもの平手打ちをくわせたあと家を飛び出し、一家離散で行方のわからなかったディルを探し出し現在に至る。

 始めの頃はここの店主も元気だったし、3人でよく食事を一緒にしたものだった。

「なにがあるの?」

「えーと、タマネギとハムだろ……卵も……と、そういえばニンジン、隣のばあさんにもらったっけなあ」

 ルイとディルは二人で材料を出し、キリムの目の前に並べて何を作るか話し出した。

 キリムはしかめ面をしてテーブルの上で指をとんとん言わせている。

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