第2話 死神の手だった
私は、どうも覚えの無い夜道を独り歩いて、恐らく帰宅の途中なのだろう。まるで方角も定まらない、何か闇雲に路地のような所を、散歩する感覚で徘徊していた。空に月は見えないが、不思議と小路は仄かに輝いて、足を踏み外すことも、家の塀に突き当たって、痛い思いをする心配も無かった。そのうち小路の景色は、あまり変わらないけれど、辺りががやがや騒がしくなって、いつの間にか人出の多い所に出ていた。まるで夜祭りか、参詣に来たように、人がこちらからあちらへ流れを作っていた。私もそれに逆らわず、身を任せた。このまま皆と同じ方へ歩いていれば、いいと思っていた。いや、何も考えず誘われるまま、ただ付いて行ったに過ぎなかった。
と、突然と強引に呼び止められ、手をぎゅっと掴む者がある。びっくりして振り返ったのが、手は人垣の中から突き出していて、誰のものかまるで分からない。私が必死に人の体を解きながら、手の持ち主をたどって行くと、どうも見覚えのある顔が現れた。過去にどこかで出会った人物だった。が、まるで誰なのか、名前が思い出せなかった。こちらが苦笑いを浮かべても、向こうは顔色一つ変えない。神妙な面持ちで、弱ってしまった。呼び止めたのが、正しいことをしたとでも言うふうな態度だ。彼は何も言わず去ってしまった。私が立ち止まったのを確かめて、去ったように思えた。
それからも、色々な手が私を掴んで、立ち止まらせた。今度は生け垣の中から、か細い手が飛び出している。見た目と違って、しっかりと私を捉えてなかなか放さなかった。その次は暗い横道から、引っ張られた。硬く大きな手だが、どこか遠慮勝ちに私の手を引いた。そのまた次には、道沿いの人家の窓から手だけ出して捕まえた。まるでそっちに行ってはいけないと止めるようで、何だか気味が悪い。私はいけない方へ向かっているのか。そう疑いながらも、しばらくするとまた人の流れに戻ってしまっていた。それで、私はそのたびに誰かに手を掴まれ、立ち止まらされるのだった。
やがて道は途切れ、眼前に底無しの沼が広がった。まるで地獄のような沼には、溺れたたくさんの人であふれていた。みんな顔まで泥水を被って、必死に手を伸ばしていた。今度は、私が手を掴む番だ。しかし、助けられるのは一人だった。そこは、一枚の板が渡してあるだけで、幾人も乗ることはできない。たちまち板が折れ、真っ逆様に落ちてしまうだろう。――確かに誰かの手を掴んだはずだった。
私は目を覚ますと、先ほど手を握った顔が心配そうにのぞいていた。病院のベッドの上だった。私は大変な事故に遭って、九死に一生を得たと言う。危篤の間、医師は家族や知人に手を握ってやって下さいと頼んだのだろう。
あれは、最後の試練だったのだ。確かに私はあの恐ろしい底無しの沼で、誰かの手を掴んだはずだ。今もその手の感触は残っていた。きっとその人が、私をこの世に引き止めたのだ。しかし、誰の手を握ったのか思い出せない。妻だったか、知人だったか、両親だったか、それとも……。
怪我は順調に回復し、まだ足は不自由であったが、車椅子でなら外にも出られるようになった。
「ちょっとここで待っていて下さいね」
看護婦が少し目を離した隙に、それは現れた。私の乗った車椅子を追い掛けて、病院の長い廊下の床にはたくさんの手が現れ、引きずり込もうと襲って来た。私は必死になって、その手から逃れた。逃れるうちに階段の前に来てしまった。あっと思った瞬間に、車椅子が先に落ちた。体が転倒しそうになったとき、誰かが手を差し伸べた。それは、紛れもなく私の手だった。寝間着に包帯だらけの私自身だった。
それで、全ての記憶が霧の晴れるように甦った。あの底無しの沼には、妻や知人、両親、昔に出会った様々な人が溺れそうになって、助けを求めていた。その中に、私自身の姿もあったのだ。私が最後に掴んだのは、私自身の手だった。――そう思った。
寝間着に包帯だらけのもう一人の私は、そっと私の手を離してしまった。そのまま闇に落ちた。私が掴んだのは、死に神の手だった。
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