第三章一節前半


 第三章 ゼムとの死闘


       1


 大臣たちが帰って、すぐに『忘却の時刻』は失せた。半漁人状態の静流の親父さんが、見る見るうちに人間の姿へ戻って行く。隣に座っている静流のお袋さんも、静流本人もだった。濡れてから元に戻るときは手間どるようなことを静流から聞いていたが、今回は違う。さっきの状態は、あくまでもかりそめの水中だったらしい。

「いや、突然のことで驚いたと思うが、すまなかったね。実は、そういうことだったんだ」

 親父さんが俺に説明してから、ふと気づいたように立ちあがる。

「ちょっと失礼」

 立ちあがって居間からでていった。洗面所らしい部屋をあけて入る。同時に、静流とお袋さんもソワソワしはじめた。

「お待たせ」

 少しして親父さんがでてきたら、入れ替わるようにふたりも洗面所に入って行った。自分の姿がきちんと人間のものになっているか、確認してるらしい。気持ちはわかるぜ。俺だって“変貌”したあとは、似たような心境になる。――そういえば、静流は下着を切って、スナップで留めて、いざ人魚に変身ってときは、すぐにスナップがはずれて、姿勢が変にならないように云々って言ってたっけ。いま、下着を脱いで、それをとめなおしてるのか。

 ――いかんいかん、こんなときに何を想像してるんだ俺は。

「大臣の無礼は私が代わりに謝ろう。あれで想像できたと思うが、私のいた国は、ああいうところでね」

「北朝鮮とか、かつて存在したソビエト連邦とか、東西ドイツとか、そんな感じですか?」

「そう思ってくれたら、ほぼ正解だな」

「なるほど」

 ろくなところじゃないってのは、親父さんの表情からも容易に想像がついた。まァ、わからなくもない。身の程知らずで無茶苦茶やる連中ってのはどこの世界にもいる。俺たちのいる国は、もとは大日本帝国って、勘違いも甚だしい国名をつけていた。

「そういえば、小父さんの故郷って、なんて名前の国だったんですか?」

「名前などなかったよ」

「は?」

「海に国境はないからな。そもそも、他国が存在するから、区別するために、こちらも国に名前をつけねばならん。他国を他国と認めなければ、こちらが名乗る必要もない。本来、この世に存在していいのは海のものだけ。――言っていることがわかるかな」

「なんとなく」

 俺はうなずいた。人間は狼に狼と名前をつけたが、狼自身は、そんなことどうでもいいと思って生きている。当然ながら『自分は狼である』などと、人間の言葉で自己紹介もしない。――そんなところか。

「あの大臣の態度からも、こっちの世界を、かなり馬鹿にしてるって感じは受けましたからね」

「実際、その通りなんだ。私は知っているからいいが、国の民たちは、いまも地上のものを軽視しているのかもしれない」

 静流とお袋さんが洗面所からでてきた。そんなところに静流はやれない。

「一国のお姫様ってのは驚きましたけど、よかったねとは言えないわけですか」

「その通りだな。だから私は、静江と一緒にこちらへきたんだよ」

 王族という立場を利用しての亡命だったと考えていいらしい。静流が心配そうな顔でやってきた。

「お父さん、まさか、やっぱり帰るなんて言わないわよね?」

「それは大丈夫だ。あそこから離れるとき、何があっても二度と戻らんと決意したからな。こちらの世界で、自分たちの力で生きていくと決めた。さっきも言っただろう?」

 親父さんが静流に笑いかけた。それはいいんだが。

「あのゥ」

 俺は、恐る恐る声をかけた。静流と両親が振りむく。

「どうしたの?」

「ということは、静流姫様、ということですよね?」

 俺、いままで、とんでもない態度をとっていたわけだ。常識で考えて、どこぞの国の王族様とタメ口なんてとんでもない。強利と華麗羅を呼び捨てにできないのと同じである。ビビる俺を見て、静流が苦笑した。

「どうしたの秀人くん。静流姫様、なんて」

「だって、そうじゃないか。――そうじゃないですか」

「怒るよ?」

 怒るというより、静流は少し困った顔をした。

「いままでどおりでいいじゃない。私だって、むこうには戻る気ないんだから」

「でもさ。なんて言うか。――たまには旅行で行ってみたいとか、自分のルーツを探るために、少しのぞきに行ってみようとか、そういうのは」

「それは、まァ。少しは思うかも」

 静流は考えながら返事をしたが、それでも、すぐに俺を見つめた。

「でも、永久にむこうに行こうなんて思わないな。秀人くん、『S&S』で、死ぬまで暮らしたいって思う?」

「――あァ、それは思わないか」

 言われて俺は気づいた。電気もガスも水道も、通ってるんだか通ってないんだかわからんような世界で生活したいなんて思うもんか。TVも携帯もないんだぜ? 親父たちも言っていた。「こっちは酒がうまくてTVがおもしろい」って。お袋がワイドショーに毒されるのもあたりまえか。そもそも、病気になったって、ペニシリンがあるかどうかも不明なのだ。盲腸になったら死ぬしかないし。誰が行くかそんなところ。

「それは、いいけど。でも、普通に考えれば、やっぱり、静流はお姫様なわけで」

「秀人くんは、私がお姫様だから仲良くなろうとしたの?」

「違うよ。そんなの知らなかったし」

「なら、それでいいから」

「うん。――まァ、そうか」

 なんか、気後れしながら俺は立ちあがった。

「あの、俺、帰ります」

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