第三章一節後半

「秀人くん、さっきから、いつもと違うわ」

 玄関先で、静流が俺を見あげながらつぶやいた。

「なんだか、すごく遠慮してる。お父さんたちの前で礼儀正しくしてるときとも違う感じ」

「だって、ほら、それは」

 言いかけて、俺は口ごもった。

「お姫様みたいだとは思ってたけど、まさか、本当にお姫様だなんて想像してなかったから」

「まだ言ってるの?」

 静流があきれたような眼をした。

「私だって、自分がお姫様だなんて、ついさっきまで知らなかったんだから。そんなの気にしないでよ」

「うん、まァ、そうなんだけど」

「秀人くんがそんなんだったら、私も楽しくないし。ね、これからも私たち、ちゃんと付き合っていくのよね?」

「それは、そうだけど」

「じゃ、堂々としてて。私だって、秀人くんが格好いいと、うれしいし」

 静流がほほ笑んだ。

「おとぎ話にあるでしょう? 人魚は、好きな人と離れ離れになったら、泡になって消えちゃうんだよ?」

「え」

「だから私、秀人くんと、ずっと一緒にいたいから。どこかの国に行ったりしないから。安心してね」

 なんか、すげー積極的なこと言われた。静流って度胸あるんだな。感心しながら、俺は手を振った。

「あのな。また、メール送るから」

「うん、それじゃァね」

 静流も手を振り、玄関の扉が閉じられた。さ、帰ろう。

「それにしても、お姫様だったとはな」

 まさに衝撃の新事実である。早めに告白しておいてよかったぜ。こんなこと、先に知ってたら、それこそ委縮して何もできなかったと思う。いや、いま現在も委縮してるわけだが。常識で考えたら、日本政府がVIP扱いする要人だ。いままで、よくおおやけにならなかったもんだな。

 それはいいとして、俺はどうすればいいのか? TVにでてくるアイドルタレントと、なんかの拍子で交際することになった小市民って、こんな気分なんだと思う。映画で言ったら『ローマの休日』。結局は身分違いの、わずかな時間の――いやいや、馬鹿なことを考えるのはよせ。

 告白して、手をつないで歩いたときとはべつの気分で、俺は頭のなかがフラフラしていた。いま、どこを歩いているのか、よくわからない。目の前が白濁している。

 考えてて気づいた。白濁だと?

 ようやく異変を察知し、俺は周囲を見まわした。もう日は沈み、世界は夜に染まりつつある。それでも、はっきりと見えた。上空から白い霧が降りてくる。

『忘却の時刻』だ。それも、潮の香りがするタイプである。

「名前を聞いておこうか」

 背後から声がした。振りむくと、あの大臣と一緒にいた、蟹の甲羅を着こんだボディガードらしい男が立っている。『忘却の時刻』は、一緒にいた魔法使い姿の女だけじゃなくて、こっちの男もつくりだせるらしい。俺は男の顔を見すえた。

「人に名前を聞くときは、まず自分から言うもんじゃないのか?」

「ふむ、失礼したな。それがこちらの流儀か」

 男が言い、胸を張った。

「俺はゼムと言う」

「そりゃどうも。俺は佐川秀吉ってもんだ。人べんに左で川、秀でてない吉日と書いて佐川秀吉だよ」

 キナ臭い気配がするから、俺は偽名を使った。ゼムが鼻で笑う。

「殿下が、貴様を佐山くんと言っていたがな。それがこちらの流儀か?」

「これは失礼。そうだったな。嘘はやめとこう。正直に言うが、俺は佐山秀人ってもんだ。人べんに――」

「あァ、それはいい。とにかく、佐山秀人だな」

 スゥ、とゼムが両腕をあげた。なんか、ヤバい感じがする。俺は腰を落とした。持っていた宿題の袋を地面に置く。

「それで、なんで俺の名前を聞いた?」

「名前を知っておけば、いろいろと調べられるのでな。たとえ殺しても、もみ消しが効く」

 とんでもないことを言うと同時に、ゼムが一気に間合いを詰めてきた! やっぱりかこの野郎。俺は思い切り右の廻し蹴りを放った。ゼムは俺を普通の人間と思いこんで気を抜いている。油断してる相手にフェイントなんか必要ないという考えからの、力まかせの大振りだった。バットなら三本くらいは楽にへし折れるパワーをこめていたが、まさか、ゼムが防御すると同時に、蹴り足に激痛が走るとは。

「痛ゥ!」

 わけがわからず、俺は右足をひいた。この感覚は尋常じゃない。ケンケンで飛び離れ、俺はちらっと右足を見た。太腿とふくらはぎに、ボールペンくらいの太さで、長さは三〇センチ前後ある赤い棒が何本か刺さっている。ただの棒ではなく、注射針みたいになっているのか、刺さった棒の反対側から、すごい勢いで鮮血がほとばしりはじめていた。

「くそ、なんだこれ」

 俺は足の棒をつかんで引っこ抜いた。――金属の感触じゃない。なんだこれは。

「大イセエビの触角だ」

 律儀にゼムが説明しくさった。

「我が国の秘薬を塗って乾燥させることで、地上の連中が使っている鋼以上の硬度を発揮し、岩石も貫けるようになる。なかがくり抜いてあるのは見ての通りだ。刺せば全身から鮮血をまきちらして死にいたるぞ。さっきの蹴り、少しは心得があるようだったが、油断したな」

 ゼムが言うと同時に、手を背後にまわした。すぐに前に持ってくる。両手ににぎられたのは、同じくイセエビの触角らしい赤い棒の束である。

 普通の人間と思いこんで気を抜いていたのは、俺のほうだったようだ。

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