第19話



「お嬢さま、どうぞ坊ちゃんにあんまり無茶なことは……」

「もう、相変わらず心配性ね、ガイウスは。あたしが可愛いオルに無茶なことさせるはずないじゃない?」

「全裸で城の壁を登らせることが無茶ではなかったなら、なんなのですか?!」


 僕は石積みの隙間に指を入れて、両足のポジションを確かめると片手を放して地上を見下ろした。

 イルマと並んで立つ、我が家に新しく来た従僕、年老いたガイウスの赤い顔が小さく見えた。


「イルマ? もういいですか?」

「いいわよ! ……ね? 大丈夫でしょ?」


 イルマは満足そうな顔で僕に返事をして、ガイウスに笑いかけた。


「……ああ、貞節と純潔の女神アルヴァナよ、お目こぼしを!」


 そうやって手を合わせて天を仰ぐガイウス。

 彼は熱心な《アルヴァナ教徒》なのだ。


 この世界の至上神である《純潔神アルヴァナ》は、いろいろと尊名が多い神様だ。

 まあ、ほかの神々も多いんだけど、《アルヴァナ》は特に多い。


 《技能神》《天上レヌスの主宰者》《機知神》などなど……。

 その中でも、特に重要視されるのが《盾と鎧の処女》や《貞節の支援者》という尊名。


 天上にいる彼女は処女神だし、裸を見せるのは褒められたことではない。つまり、セクハラになるからってことらしいんだけど。

 しかしながら、それはもちろん基本的には大人の話。僕みたいな子供に即座に神罰を下すほど《アルヴァナ》は心が狭くはないらしい。


 ただし、《アルヴァナ教徒》のガイウスからすると、これはやっぱりアウトみたい。


 僕は城壁を蹴って、地面へと飛び降りる。

 そして、無事に、必死に手を組み合わせているガイウスと満足そうな笑みを浮かべるイルマの目の前に着地した。


 遺憾なことに、全裸である。


「坊ちゃん! もうすぐ六つなのですから、坊ちゃんからもお母さまに、どうか!」


 ガイウスのすがるような眼差し。


 無茶を言わないで欲しい。

 僕だって、散々イルマの説得を試みたのだ。




――おおよそひと月前。

 僕を庭に連れ出したイルマは言った。


「さあ、お服を脱ぎましょうか?」

「イルマ? 僕の《技能スキル》が向上してしまいますから……」

「大丈夫よぉ。……いいかしら、オル? ニックが言うには、問題なのは《五官・内臓系技能》と《学術系技能》。特にニックが不安がっているのは《学術系技能》でしょう?」

「そうですけど……?」


 イルマは自信満々で大きな胸を張った。


「なら、頭を空っぽにしていればいいだけだわ!」

「考えるな……感じろ、と?」

「いい言葉ね! まさしくその通りだわ」


 そんなカンフーマスターみたいなこと急に言われてできるわけがない。

 しかし、イルマはできると言った。


「あたしも持っているけど、《雑技系技能》の《操御術系》には《無心》って《技能》があるわ。《身体操御》の上位技能なのだけど、それを習得しちゃえばいいのよ」

「だけど、イルマ? そんな簡単に特定の《技能》が習得できるのでしょうか? それに、習得できたかはニックに《鑑定》してもらわなければ……」

「はい、お服脱いで! 始めるわよぉ……まずは正しい型で上段からの素振りを千回!」

「……せっ……」

「もちろん、なにも考えちゃダメよ! 形が狂ったらあたしが正すから、オルは体を動かし続けるの! さあ!」


 こうして、僕の鍛錬は問答無用で開始された。

 イルマに言われた通り僕はなにも考えなかった。とりあえず、今は考えるだけ無駄だと思ったんだ。


 ただただ、おんなじ動きを繰り返す。途中、イルマに肘を支えられたり、足の位置を直されたりする。

 最初のうちはイルマの動きや視線が気になったけど、それも徐々に意識のうちから遠のいていった。


 振り下ろし、構え、振り上げ、また振り下ろす。

 単純なルーティンが僕の意識の関与を拒絶する。まるで、単純作業をこなしている自分を俯瞰しているみたい。

 それも段々億劫になって、僕は見ることも聞くこともやめた。


 ただ、体が動くままに任せて、僕はその通りに動くだけ……。



「…………ルっ! オルっ!」


 その声と共に、僕の体が宙に浮いた。

 そして、背中に衝撃。僕の視界に夕暮れの空が映った。

 イルマの満面の笑みが視界に登場する。


 投げられた? どうやって?

 それに、体が汗でびっしょり濡れている感じ。

 いったい、どれだけの時間、僕は考えることを止めていたんだ?

 中天に近かった太陽が傾いて沈むぐらい……四五時間は経過している?


「良さそうね、オル? たぶん、あなたは《無心》を習得してる。少なくともその下位技能の《複雑反射》まではいっているわ! ……これで心配は無用ね!」


 そうして、イルマとの遊びは再開された。



 それでも僕はいろいろと主張した。

 僕が《無心》とやらを獲得していたとしても、安心はできないんじゃ?

 それが《学術系技能》の抑制に効果を発揮している保証はないんじゃない?


 僕は《アンデッド》みたいになりたくないし、イルマやニックからもらったものを汚すつもりもない。

 イルマとの鍛錬は確かに楽しいし、成長できることは僕としても嬉しい。

 だけど、その代償が将来の可能性だというなら、僕にとって一番大事なことはイルマとニックの老後の安定なんだから。


 でも、最終的にはいつもイルマは涙さえ浮かべて「オルは《剣士》になるの!」の一点張りだ。




 僕はもうたくさんのものをイルマから貰ってる。

 そのイルマに泣かれたら僕にできることなんてない。イルマの幸せは家庭の平穏で、僕の幸せだ。つまり、僕の世界の最大幸福に等しい。

 それに、イルマだって譲歩してくれてる。僕に魅力的な提案さえしてくれた。



「でもね、ガイウス。イルマは僕の《魔法》の勉強は邪魔しないし、《剣術系技能》を鍛えるだけだって……」

「壁を登ることのなにが、剣術の修行なのですかっ?!」


 もっともだ。

 ガイウスが正しい。ぐうの音も出ない。


 イルマがやれやれ、という顔をしてる。


「ガイウス、あたしだってこうやって鍛えてたじゃないの?」

「お嬢さまは、全裸ではなかったっ!!」


 ガイウスの禿げ上がった頭に血管が浮いている。

 はち切れるんじゃないだろうか?


「ガイウスだって知ってるじゃない? オルの《福音ギフト》こと。可哀想だと思わないの?」

「それとこれとは別の問題ですっ!!」


 息を荒げて反論するガイウスが胸を押さえていた。

 どうも心臓が飛び跳ねているらしい。


 まただ。まずい。


「ガイウス、落ち着きなさい。あんたにポックリ逝かれたら、あたしだって悲しいわ」

「……ならば、この老僕めを慮って、どうかせめて屋内で……」

「あ。もちろんニックには内緒よ?」

「……お嬢さま……ご無体な……」


 ガイウスが胸を押さえながら、地面に膝をついた。

 呼吸が荒い。

 僕は慌ててガイウスへと駆け寄った。


「――『今や体は打ちひしがれ、心は摩り減っている。塩辛い荒波が航海者を揉むように、旅塵と垢が旅の脚を汚すように。それでも夜は悲憤と苦熱に幕を引く。眠りはまぶたに落ちるもの。我が友が求めるものは憩いと安らぎ。優しきとばりの女王よ。《幻惑神》の名にかけて、我に力を与えたまえ。我が友の苦痛を拭え!』」


 僕の喉から《魔力オド》が流れ出る。

 少しいびつで、なんだか頼りない感じしか掴めない。


 それでも、ガイウスの荒い息は治まり、真っ赤だった顔色がゆっくりと元の赤らんだ顔色に戻っていく。


「……坊ちゃん、……この老僕めに」

「ガイウス。ゆっくり息を整えて。……《幻惑魔法》です。根治ができるわけではないですから」


 両手足で地面に踏ん張って、ガイウスはゆっくりと深く息を吸って吐きだした。


 僕がイルマのいたあたりを振り返ると、その姿はなく、離れた家の中から飛び出してくるところだった。

 その手に薬草が一束握られている。


「ガイウス! 面倒かけないで!」


 そうしてイルマはガイウスを仰向けに寝かせ、薬草を握りつぶして緑色の汁をガイウスの口の中へと落とした。

 鎮静効果のある薬草だ。



 ガイウスが僕らの家に来て以来三週間ほど。これが日常となりつつある。

 僕はいちおう全裸のままでも《魔法》が使えたけど、全裸では《魔力》がうまく感知できないことがわかった。

 ガイウスのおかげと言えば、そうなのだろう。


 最初にガイウスが倒れたときには、咄嗟に発動した《魔法》が強すぎて僕まで眠りこけてしまった。

 ガイウスはそのまま永眠するところだった。

 イルマが起きていて、僕らを叩き起こしてくれなければ、ほんとうにそうなっていたかも。




「オル? ……オルレイウス!」


 ニックの険しい声に僕は顔を上げた。


「よだれが垂れてるぞ?」


 ニックが僕の口元へと腕を伸ばして自分の袖で拭いてくれる。

 僕はちょっと申し訳ない気持ちでそれに従う。


「どうしたんだ、オル? 最近、身が入っていないようだが? 詩編もあまり憶えられていない」

「……ガ、ガイウスがいろいろと教えてくれるので……」

「そうかい? それならいいけれど」


 実際に、ガイウスは僕の家庭教師役でもあった。一般教養を教えてくれている。

 ガイウスが家に来て以来、イルマは本格的に復職したらしく、朝にはニックと共に出かけるようになっていた。


 だけど、イルマは必ず昼ごろには城を抜け出して帰宅した。

 そして、僕を全裸にさせると、本格的な剣術の訓練を施して、また城へと戻っていく。


 さすがにそろそろニックにバレるんじゃ?

 だけど、僕の懸念とは裏腹にニックが気づく気配は今のところない。


「イルマが家にいなくなって寂しいのはわかるけどね、オル。きみもそろそろ貴族としての自覚を持ってもいいころだと私は思う」

「……ええ、ニック」


 僕は大人しく頷いて、《幻惑魔法》の勉強へと戻る。


 ニックから初めに習ったのは《幻惑魔法》だった。

 《幻惑魔法》は自分の《魔力オド》によって相手の精神に干渉するものだ。



 《魔法》にはいくつか系統がある。

 それは《魔力》によって干渉する対象や喚び出す現象によって分類されている。

 《炎熱魔法》だとか《凍冷魔法》だとかがそれ。


 ニック自身は複数の《魔法》を操れるらしい。

 しかし、器用貧乏になるよりは一芸に秀でるほうが良いという教育方針らしく、自身がもっとも得意とする《植物魔法》と《幻惑魔法》を僕に教えてくれている。

 僕としては、もっと派手そうな《魔法》も使ってみたいのだけど、ニックによればそういうメジャーな系統の《魔法》は使う人も多かったらしく、《呪文》が冗長になっているから実戦向きではないと言って教えてくれない。

 それに、《炎熱魔法》なんか憶えている暇があったら、世界情勢に耳を澄ませたほうがいいとも。



 ニックは僕をいわゆる文官畑で、かつ《魔法使い》にしたいようだ。

――だけどイルマと僕の目的は少し違う。


 イルマが提示した折衷案、《魔法剣士マジック・ソードマン》。

 その言葉に僕の中の中学二年生が暴れ出したことは言うまでもない。


 もちろん、この世界のことをきちんと勉強して貴族になっても恥ずかしくない人物になると決めている。

 責任を負って生きていくつもりもある。


 でも、ちょっとだけわがままも許して欲しい。

 《魔法剣士》なんて、なれるものなら一度はなってみたい。


 イルマは未だに僕が『アガルディ侯爵家』を継ぐことには反対みたいだけど、《剣術技能》を極められるように努力すると約束したら渋々承諾してくれた。

 あとは、どのタイミングでニックに打ち明けるかなのだけど。



 〓〓〓



〈――ルエルヴァ共和新歴百四年、ザントクリフ王国歴千四百六十一年、ヘカティアの月、二十三夜


「ニコラウス。最近のイルマの様子をどう思う?」


 今日は玉座ではなく、執務室の小さな椅子に腰掛けたマルクスが突然そう言った。

 《グリア諸王国連合》への加盟によって予想される《愛の神》の《神殿》を訪れる巡礼者の増加について話していたはずだったのだが?


「……やけに大人しくはないだろうか?」


 言われてみればそう思わなくもないが、イルマは幾分、気まぐれな気質だ。

 先日の《軍務長官》復帰の件にこそ初めは難色を示したが、《グリア諸王国連合》への加盟と、戦力の供出の際の出兵に関しては、ふたつ返事で承諾した。

 復帰に関しても翌日には考えが変わったようで、機嫌良く頷いた上に、以来日々、騎士たちの訓練に高官の会議にと精を出しているはずなのだが。


 それを大人しいと言われても、なんとも言えないものがある。


「思い出すのだ、あのときのことを。……イルマが国を出奔する前のことを」


 その話は私もイルマと詩から耳にして知っている。

 イルマもそのことを反省しているようではある。


 《戦豹パンテラ》の名を大陸に広めたのも、その一件だ。


 しかし、過去の一件がどうしてマルクスの懸念の種となっているのだろうか?


「よいか、ニコラウス。イルマはなにかを計画しているとき、必ず大人しくなる。必ずだ」


 イルマがいったいなにを計画しているというのか?


「それはわからん。……だが、なにかよからぬことに違いない……心せよニック」


 そう言われても私からはなんとも言えず、とりあえず下城した。



 帰宅するとイルマが先に帰っていた。

 オルは、私の書斎で勉強に励んでおり、ガイウスが寝込んでいた。

 かなり高齢のガイウスは最近では寝込んでいることがある。


 少し不安になる。彼を喪えば、イルマもオルも悲しむだろう。

 特に幼少期から慣れ親しんでいるイルマが心配だ。彼女が父の訃報を聴いたときのことを思い出す。

 私はガイウスに寄り添い、脈をとり、彼の症状に合わせて薬を調合することにした。


 ガイウスは元は奴隷としてレイア家に買われたらしい。

 給金によって、自らの身を買い戻したあとも、そのまま勤め続けていて古くから《ザントクリフ王国》のことも知悉している。


 きちんとオルレイウスのことも教導してくれている優秀な教師役だ。

 ガイウスは代え難い人材だ。もう少し長生きしてもらわなければ。



『なあ、ニコラウスよ。お前さん、まだ気づかないのかね?』


 オルが寝付いたあとの子供部屋。《ピュート》は私に向かってそう言った。

 オルレイウスが向かうべきではない場所、彼がおそらく指標としての役割を果たしてしまう場所ということならば見当がついている。

 だが、それを《蛇》に確かめるほど私も愚かしくはない。


『オルの様子がおかしいと思わないのか?』


 それは私にも思うところがあった。オルの学習速度が少々落ちている。

 その上、私の講義中に居眠りをすることまである。

 しかし、これまでが順調過ぎたと考えれば、いくらか仕方のないことだろう。


『予知してやろう。お前さんは吠え面かくことになる』


 《予知の神》でもある《陽の神》を崇めている形の私に、予知をしようとはこの《蛇》はおかしなやつだ。


……しかし、どうも、なにかが引っかかる。なんだろうか? この微妙な違和感は。


 なぜ《蛇》は私を話し相手に選んだのだろうか?

 オルにも友好的に接すれば、きっと話し相手には困らなかったはずだ。


 いくら恨みがあっても、それはオルの家族である私にも同様のはずだろう。

 なぜ、私に接近しようと試みるのか?


 日記を記している今も、なにかが喉につかえている気がする。

 私は、この《蛇》に関してなにか見落としているのではないだろうか?〉

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