第10話
まぶたを透過する明るい陽射しに僕は目を開く。
落下防止の柵のついた子供用のベッドの上。
もう、朝なのか。
赤ん坊になってからは、記憶が跳んだような感じで起きることがよくあった。
体が眠気に負けて、落ちるように眠ってしまうからみたい。
「ふぁ」
小さなあくびをひとつして、目をこすり、僕は小さい体をベッドの上に起こして、テディベアのように伸ばした脚で固定する。
覚め切らない頭で考えたことは、昨日は何を教えてもらったんだったっけ。
ということ。
元・異世界人の僕にはいくらなんでも尋ねるべきことが多すぎた。
ここまでで知れたことも少なくはない。けれど、それらの情報は僕の知る世界とはちぐはぐだった。
まるで、一万キロも旅をして、千年も時間を遡行したみたいな街並みと生活様式、そして文化。
不可解な色の髪や瞳を持つ人々。魔法を使う父に、常識離れもいいところの強靭な体を操る母。
それらだけでも、この世界はやはり僕の元々いた世界とは大きく異なるのだということはよくわかった。
加えて、ニックから聞かされた情報。
まず、ふつうに神様がいる。僕が遭った《裸神》だけではなくて。
それも、空の上とか高度の高いところから見下ろしているというだけではなくて、神様によっては地上や海上を徘徊したりしているらしい。
昨夜、ニックが聴かせてくれた詩の中にもそんな神様が出てきた。
そんな徘徊する神様に会ったという人も、稀にだけどいるらしい。
次に、ふつうにモンスターがいるらしい。
先日、イルマから聴いた話にニックの解説を求めたところ、そういう答えが返って来た。
昨夜のニックの詩はそのあたりのことを歌った詩だった。
――《ルエルヴァ
……それは、少し昔の物語り。《人族》と《エルフ》と《ドワーフ》が、《
その戦争は《
その《魔族戦争》が始まったばかりのころの物語り。
人族とエルフとドワーフは、人族に産まれた三人の《
世はまさに、《三英雄の時代》。いかに《
押されに押された魔族と獣人は、《夜の神トリニティス》と《義侠の神ヴォルカリウス》に願った。
「あれらの人族どもは、神々の恩寵を笠に着て暴虐の限りを尽くしています。どうか、われらにもお
ときに地上を行き、地を這うものらをみそなわしていた
同時に、英雄たちの勢いを見るに、《福音》を授けるほどの猶予はないとも思召された。
そこで《義侠の神》は、魔族の祖たる《
「山と産まれ、疾く育ち、どの種族よりもなお強い、新たな種族を貴様らに授けよう」と。
そうして《天魔》らと、太古からある《妖獣》ら、その王とを
しかし、《天魔》のいくらかはこういった。
「このようなものどもと
そこで今度は《夜の神》が、それらの相手を見繕われた。
《夜の神》は、この世の彼方から、とても強く、とても見目麗しい怪物らを連れて来られた。
それら怪物は、《魔物》と呼ばれる《巨人の王》の死体から産まれたものら、その王たる怪物。
《天魔》らと、《魔物》ら、その王とを
こうして、どのようなものに増して、山と産まれ、疾く育ち、どの種族よりもなお強い種族が産まれた。
二柱は、これらを《
《魔獣》は、同じ血を持つ魔族に従い、押し寄せる《三英雄》を押し返す。
《巨人》の呪いを血に持つものは、乱暴に。
《妖獣》の霊威を宿すものは、不可思議に。
だから《魔族》がいない今の世では、《魔獣》は従うものもいないままに、かつて敵した三種族を襲うのだ……――
――……《エルフ》に《ドワーフ》に、《
それらの言葉とイメージは、ニックの挿し絵つきの本のおかげで、ある程度結びついていた。
この世界には、人類のほかにも同等レベルの知的生命が存在しているらしい。見たことはないので、ほんとうに今でもいるのかどうかはわからないけど。
それが、《エルフ》や《ドワーフ》、《魔族》や《獣人》。
たとえば、こちらで言う《エルフ》は前世の『Elf』に、《ドワーフ》は『Dwarf』のイメージに近いということは、挿し絵とニックの説明からわかったことだ。
ただ、《
挿し絵がなんだか曖昧だったし、性質も今ひとつぴんとこなかったからだ。
《
個別の語彙というものは、やっぱりなにか実物ではなくてもしっかりとした絵や模型がないとイメージしにくい。
《三英雄》とやらはともかく、彼らの《
詩の内容に関していえば、先日聴いた詩のように昨夜の詩も、原因譚のひとつのように僕には思えた。
人間が転生するという事実を説明するための、魔獣というモンスターが人間を襲うという事実を説明するための創作のように。
だけど、ニックによればこれらの詩はまぎれもない事実を歌っているのだという。
考えてみれば、記憶を持った転生者がいなければ、転生しているという事実は判明しない。おそらくは、僕のような人間が過去にもいたのだろう。
卵が先か鶏が先か、なんて話はここでも通用するように思う。
神話が先か、事実が先か。
なによりも、神様がこの世界にいることは確からしいのだし、彼らがずっと事実を記憶しているのなら、これらの伝承の真偽もわかるのだろう。
それらとは別に、ニックの語る詩を聴いて、まず僕が考えたことは、『神様って、何?』ということだった。
別に人族の味方というわけではないようだし、モンスターを産み出したりもする。
《魔獣》とやらを産み出した行為は、まるで、その《魔族戦争》という戦争を長引かせるためにやっていたみたいだ。
じゃあ、その《夜の神》と《義侠の神》とやらは、悪い神様なのか?
そうニックに問い質せば、そんなことはない、という。
むしろ、今でも人族を見守っている頼りになる神様だ、と。
では、当時の人族が悪かったのか? と問えば、ニックは。
「オル。なにが悪いかということは、神々が決めることではないんだよ。……神々は、その御心に副ったものにこそ恵みを下される。そして、人がそれぞれ異なるように、神々もまた異なるというだけさ」
と言った。
……僕だって、今は子供だけど、元々は子供じゃない。ある程度、割り切れないものがあるということは承知してる。
でも、これじゃあ、あまりにも神様とやらの胸先三寸じゃないだろうか?
だいたい、人族や、今はいないという魔族に力を貸すことに、神々にどのような利益があるというのだろう?
争いの大元には、大方プライドや利害や妥協がつきまとう。それが前世の常だった。
でも、ニックの話を聞いていても、神々がどのようなプライドや利害や妥協に動かされているのかわからない。
神々はなにをしたいのだろうか? そもそも、神の定義とはなんだろうか? と問えば、ニックは。
「神々は、自らを奉り、その意思に適ったものをこそ愛されるのさ。神々の定義とは、この世界をどのようにでも変えられる種族である、ということ。でも、神々は一柱だけではない。だからこそ、あの神の意には適っていても、この神の意には副わない。……なんてことがあり得る。しかし、この世界が均衡を保っているのは、上に《純潔の女神》を、下に《慈愛の女神》――《冥府の女王》を奉っているからだ。特に、この二柱の意思は神々の間においても尊重されるようだよ」
と言ったのだった。
……やっぱり、ニックの言うことが僕には今ひとつわからなかった。
神々とやらは、この世界を自由気ままに変えられる?
いったいどれほどに? そして、どのように?
なぜ、神々は自分の意思に適う人間を偏愛するのだろうか? その人間が神々になにか利益でももたらすのか?
それに、実際に人と似たような容姿を持っているはずの神々、つまり実体があるはずの神々が、なんで間接的にしか《魔族戦争》とやらに参与しなかったのか?
《夜の神》や《義侠の神》とやらは、ほかの神々に遠慮したとでもいうのだろうか? では、それらの神と、《純潔の神》や《冥府の女王》とやらの関係は?
関係といえば、ニックは神々のことを『種族』だ、と言った。
つまり、神々にも血縁や始祖があるということなのだろうか?
それは、この世界を読み解く上で、非常に重要なことのように思えた。
――そして、なによりも《巨人の王》。
その言葉は僕の中で、あのきわめて大きいおっさん、《裸神》と直結した。
僕はニックに、ぼくが会ったのはその《巨人の王》か、と訊いた――
――だけど、ニックの答えは、『ノー』。
ニックによれば、《巨人の王》はすでに肉体を分割されて遺棄されているらしい。
それで、《巨人の王》が神々を呪ったすえに、《
加えて、僕が会った存在はきっと多くの神々のひとつだろう、とも。
ニックによれば、《巨人》と神々には大きな隔たりがあるし、なにより転生というものは神々の御業なのだから、と。
僕はそれを聞いて安心した。僕は、全能とも思える神々の敵対者ではなかったらしい。
そうして、赤ん坊の僕はまぶたの重さにあえなく夢の中へと墜落した。たくさんの疑問を抱えたまま。
昨晩のニックと僕の問答は、そうして打ち切られたんだ。
そうして現在。
今朝、僕が目覚めたときには、もうニックはいなかった。どうやら仕事に行ったらしい。
子供用のベッドに身を起こして、昨夜のことを振り返って思案していた僕の目に、イルマのうきうき顔がドアップに映し出される。
イルマの気配はいつもすぐ近くに来るまでわからない。
「オル、お目覚めね? 今日は何して遊ぼうか?」
「おはようございます、いるま。それでは、だっこを、きぼうします」
「心得たわ!」
そう言うやいなや、イルマは僕の体を優しく抱え上げた。
やっぱり、今日もイルマ提供のアトラクションで家の中を縦横無尽に駆け回ることになるだろう。
一通り遊んで、ご飯を食べて、少し眠ったらきっとニックが帰ってくる。
ニックが帰宅したら、次は《魔法》についてもっと深く教えてもらおう。
そんなことを考えながら、僕は今日もイルマに振り回される。物理的に。
〓〓〓
〈――ルエルヴァ共和新歴百年、ザントクリフ王国歴千四百五十七年、アウトラの月、一夜
夏至を通り越し、月が替わった。
今夜は、冷や汗が止まらなかった。
オルは聡い。
私が少し、詩の中に《巨人の王》――《巨神族の王》のことを歌っただけで、それを彼の会ったものと結びつけた。
わざわざ、ほかのいろいろなものについても織り交ぜたというのに、彼が私に投げかけた質問は、神々のこととそのことだけ。
ほんとうに生きた心地がしなかった。
さすがに、巨人とされている《巨神族》の情報に、まったく触れないで生活を送るということは不可能だ。
私の口から聞かなくとも、彼が成長すれば、ほかの者の口を通して聞いてしまう可能性はいくらでもある。
ならば、事前に。そう考えた結果だったのだが……。
だが、これで彼が《巨神族》の存在について疑問を覚えることは少なくなるだろう。
それでも猶予が与えられているというわけではないのだが。
いつ、《巨神族》が帰還しようとするのか知れたものではないのだ。
……オルには、彼が授けられた《
そのためにはオルに、その《
納得しさえすれば、オルも《
その前に、私には確認しなければならないことがあった。
《
ここ数日というもの、私はイルマの目を盗み、オルが眠ったあとで彼にそっと産着を着せてみていた。
やはり結果は、芳しくない。
小さな手を少し産着の袖に通しただけで、オルの息が荒くなり、顔が
さっきは無理をして、両腕を両袖に通したところでオルの息が止まった。
すぐに産着を剥ぐと、息が戻る。
いつのまにか止まっていた私のほうの息が、口から漏れた。
イェマレンの鑑定結果によれば、衣服一枚で即座に命に関わるというようなことはないはずなのだが。
肉体の強度や、《
事は慎重さを要するが、あまり悠長に構えていることもできない。
……明日は、マルクスがオルの顔を見にくると言い張っている日だというのに。オルが裸で生活していることを見咎められた場合、なんと言うべきか。
それ以前に、イルマがマルクスの来訪を喜ぶとも思えない。私は、まだマルクスの来訪をイルマに告げられていない。
いろいろと勘案することが多い。気が重くもなるというものだ……〉
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