第2話
まず、頭痛。
次に、吐き気。
さらには、全身が重く、血管に溶かした鉛でも流し込まれたかのような。
硬くて冷たい床の感触を後頭部と背中に感じつつ、オルレイウスはまぶたを開いて揺れる世界を直視する。
妙齢の髪の毛を後頭部でまとめ上げた、いかにもお堅い女性。
その整ってはいるが能面のような顔がオルの揺れる視界に入った。
エプロンを外したロングスカートの濃緑のメイド服に身を包んだ彼女は呆れたように立ったまま、床に仰向けになったオルの姿を見下ろしていた。
メイド服は袖から襟元までぴったりと合わせられて彼女の肌は見えないが、細い体に似合わないその豊満な胸がなんだか威容を誇っているようにも見える。
「オルレイウス、困りますね……」
「……また、倒れていましたか?」
「ええ、それはもう盛大に。我がデモニアクス家の当代が購入した初めての奴隷、しかもかの《優良者》と名高き《
寝ているのに身体が回っているような感覚。
まるでアトラクションのコーヒーカップを全力で回し続けたあとみたいだ。
起き上がろうとしても起き上がれない。
「あなたはなぜ、毎回そう頻繁に倒れるのですか? なにやらとても強い怪物をレインフォート様と共に倒したと私は聴いておりましたが?」
「……デモニアクス家とわが師の名を汚さぬように努力します」
「自助努力は当然です。それ以上のことを私は望みます」
「え?」
「聞けば、オルレイウス、あなたは早くも冒険者ギルドに登録したそうですね?」
「……ええ」
「では、デモニアクス家の初代当主様が《
「……なんとなくは」
「ならば、デモニアクスゆかりの者として果たすべき義務は承知していますね?」
「……わかりません」
彼女――オルが奴隷を勤めるデモニアクス家、その家政婦長、ロジーナ・ゲイナモルトは大きな胸を揺らしてふしゅー、と鼻から太い息を噴いた。
「《
「……でも、ロジーナ家政婦長? 僕はまだ《
「あなたはいつ、《最上位冒険者》になるつもりですか?」
「ですから、僕はまだ冒険者としての門戸を叩いたばかりで」
「では、《見習い》の上の《
「……クァルカス師匠の話では、ひと月ごとに査定があって、規定の難度の依頼を規定数こなしていれば」
「では、あなたは最短半年で《最上位冒険者》になれるわけですね?」
「え? いや……ええっ?」
面食らうオルをしり目にロジーナは宣言する。
「まずは次の査定とやらで確実に《
当代、つまりデモニアクス家の現当主。それはあの傍若無人なレシル・モリーナ・シュバリエ・デモニアクスのことを指す。
オルの意識が遠のいた。
……さて、オルレイウスの状況について解説が必要と思われる。
オルレイウスは今年、数えで十三歳になる転生者である。
彼はおおよそ二月前、《妖鳥王》《エンヘン・ディナ》との決闘の末、レシル・モリーナ・シュバリエ・デモニアクスの奴隷となり、同時にクァルカス・カイト・レインフォートの徒弟となっていた。
それだけならば、オルレイウスとてこんなに苦労はしていない。
問題はその際に彼の主人レシルが出した条件だった。
「服を着ろ」
流れる銀髪。白い肌。銀色のまつ毛の奥の灰銀の瞳が少し高いところから見下げるようにオルを睨んでいた。
《ルエルヴァ共和国》の《
客観的に見て美女、加えて天然の鬼畜。それなりの巨乳。
そのレシルが《ルエルヴァ共和国》・首都ルエルヴァ市内の第三区とやらにある豪邸の前でオルにそう告げた。
その言葉を言われたのは、これまで共にひと月あまりも旅をして来た師匠・クァルカスやそのパーティー《テオ・フラーテル》のメンバーと別れたあと。
その場にはオルとレシルと、久々に実家に寄るというレシルの妹リシル・グレンバルト・デモニアクス・ミアドールしかいなかった。
「お姉さま? それはどのような」
「リシルは少し黙っていなさい」
レシルと同じような白い肌に銀髪の少女。しかし、その瞳が与える印象は姉のレシルとは大きく異なる。
丸く大きな目に大きな瞳。銀色のまつ毛を
《ルエルヴァ共和国》《ルエルヴァ神官団》所属、《
若いが才女として名高い心優しき《
姉妹の間にそんな会話が交わされている間、オルは眼前の光景に仰天していた。
城柵のように巡らされた細く背の高い鉄柵。その柵門の両側は赤いレンガを積み重ねて建てられた門柱。
柵の向こう側、広い芝生を横切る石畳の通路の先に見えるのは、この世界の故郷の城よりも低いが幅のあるほぼ直方体の三階建ての洋館。
窓の数が部屋の数だと仮定すれば三十部屋は固い。さらには奥行きがある。
前世にもこれほどの豪邸はそうなかったんじゃないだろうか? と。
「聴いているのか?! 奴隷!」
「あ、ああ。……服を着ろ、という話でしたね? 僕は既にこの一張羅を身につけていますが?」
オルは自分が着ているローブの袖をつまんでみせる。
「お前、その下には何を着ている?」
「……特に、なにも」
レシルの白い肌がみるみる真っ赤に茹で上がっていく。真っ赤というよりは、もう赤黒い。
オルも察した、これは羞恥などではなく憤怒が理由だ、と。
「……いいか?
「…………僕だって、イヤだ……」
「ああんっ?!」
「……なんでもありません。レシ……ご主人様」
「いいか。……しかしながらレインフォート殿の要請だ。デモニアクス家当主として契約は守らねばならない。加えて、お前は《優良者》レインフォート殿の徒弟なのだろうが? ……ならばそれなりの格好をせねば、師のレインフォート殿の恥となると骨に刻み込め!」
「しかし」
「口ごたえは許さん!!」
レシルの憤怒を目の当たりにしておろおろしていたリシルが、意を決したような顔で敢然と口を開いた。
「お姉さま! オルレイウスにもどうやら事情」
「リシル? 何です?」
「が…………なんでもありませんわ」
リシルの勇気はしょぼかった。
「……まずは下着、続いてシャツ、ズボンに靴下、もちろん靴も! ベストと……タイも身につけろ! そうでなければ、貴様にこの屋敷の門はくぐらせない!」
「ばかな……っ!」
オルは絶句した。
いったい、今いくつ衣服を重ねろと言った? 七つ? 今はひとつだけでも、こんなに弱体化して虚弱になっているのに?!
「なにを馬鹿なことがあるものか! 当たり前だ!!」
「……っ!」
オルは衝撃を受けていた。
常識外れだと思っていたレシルから、諭されてしまった。……そう、間違いなく非常識なのはオルの格好と《
「ま、待ってください。……そんなにも身に着けたら僕、死んでしまう……」
「お前、なにを言っている?」
きょとん顔。レシルにきょとん顔されたことにオルはさらに衝撃を受けた。
実際そうだ。自分はいったいなにを言っているんだ? オルとてそう考えざるをえない。
服を着るのなんて当たり前のことだ。それで死んでしまう人間なんて……。
いや、違う。この《
オルは気を取り直して、口を開いた。
「実は、僕は《
「おい、ふざけるな!」
「ふ、ふざけてなんかいません! 聴いてください。僕が与えられた《
「いい加減にしろ! お前のような
オルは再度絶句した。
同時に思ったことは、ただでさえ会話ができないレシルに、オルが授けられた《
「お、お姉さま? ……よろしいでしょうか?」
「リシル。耳に障るような話を聞かせて悪かったわ。……とりあえず、あなたは先に屋敷に」
「オルレイウスが言っていることはほんとうのことだと思いますわ……」
「は?」
今度はレシルが絶句する番だった。
リシルは続ける。
「考えてもみてください。なぜ、オルレイウスはわたくしたちが彼と出会った晩、あのような格好だったのでしょう? それなのに彼は二百体もの《スノウ・ハーピー》を撃破しましたわ。さらには、お姉さまも言ってらしたように思いますけど、お姉さまがオルレイウスを闇討……手合わせされたときにはそれほどの実力ではなかったと仰せでしたわ」
「待ちなさい、リシル? ……今、私がこの
「とにかく! よろしいかしら、お姉さま。……オルレイウスは《妖鳥王》を討ったときも……そのぅ……なんというか……」
「全裸?」
「そのような装いだったと聞いております! ですから、オルレイウスの言うことには整合性があると……」
赤面しながら尻すぼみになっていくリシルの言葉。
しかしながら、レシルという超大型台風の風向きがどうも変わったらしい。
「……ふぅむ。リシルが言うことには確かに一理があるように……」
「レシル、僕は」
「ご主人様だ!
「ご、ご主人様。……僕はこの《
考え込むように沈黙するレシル。
「……はなはだ不本意ではあるが、お前の死はレインフォート殿の評価の低下に直結する恐れがある。……それさえなければ、
なるほど。オルはまたひとつ理解していた。
レシルの頭の中に基本的人権という概念は存在しない、と。
加えて、彼女はリシルの言葉と、オルの師匠になった《優良者》クァルカスを非常に尊重しているのだ、と。
長考していたレシルがやっと口を開いた。
「パンツだ」
「え?」
「最低でもパンツを穿け」
「いえ、しかし……」
「でなければ、《エンヘン・ディナ》の《魔材》の所有権を主張して、私から己が身を買い戻して消えろ」
それは、できない。
オルにとって《妖鳥王》《エンヘン・ディナ》は好敵手であり、決闘の勝利者だ。
敗北者であるオルが彼の遺体を自由にすることなど、あってはならない。
「……選べ。パンツを穿いて我が家の門をくぐるか、《妖鳥王》の討伐者として名乗りを上げて去るか……ふたつにひとつだ」
「……………………」
――そして、オルレイウスはパンツを穿くことにした。
ちなみに、解説はオルの影の中に潜む《蛇》《ピュートーン》がお送りしている。
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