第三夜『背中を喰い破る翼』

 幼稚園バスから降りたあたしは、お迎えにきたおばあちゃんと手を繋いで、すぐ近くにある自分のお家まで帰って来た。

「ただいまーーあ!」

元気な声で叫んで玄関を上がる。

 すると、お台所のテーブルに向かい合って、パパとママが座っていた。眉毛の間に皺を寄せて、なんだか怒ったみたいな顔をしている。

 あたしが帰ってきた時には、いつもは二人ともお仕事で居ないのに、今日は一体どうしたというんだろう?

 首を傾げていると、後からきたおばあちゃんまでその中に加わって、なにやら難しそうにお話を始めた。

 大人たちの様子もそうだし、なんだか不穏な雰囲気を感じたあたしは、三人が囲んでいるテーブルの端っこに手をかけると、顔半分だけ出してみんなを覗き込む。

「パパ、ママ、どうしたの?」

「ああ、お帰り彩乃」

するとあたしが居るのに気づいて、パパが言った。

「どうしたの?なんの おはなし してるの?」

もういっかい尋ねる。そしたらこんどはママが、

「なんでもないの彩乃。大人の話だから、あっちに行っていなさい」

と言って怖い顔をする。あたしは追い払われてしまった。

 つまんないの……。

 そう思ってあたしは、おもちゃがおいてあるリビングに行くことにした。リビングでは先に、妹が一人で遊んでいる。

「おかーり、はなはるおねーたん……」

 にこにこ笑う妹。でも遊んでいるそれは、良く見るとあたしのおもちゃだ。

「みあっ!(仮名) ダメっ! これ あたしのだもん!!」

あたしはそれを見るなり怒って妹に駆け寄っていった。だっこしている縫いぐるみを力ずくで奪い取る。

 そうしてバシッと、妹を叩いた。

 妹は泣き出した。

こいつはすぐ泣くから嫌いだ。おやつだって半分こしなくちゃならないから嫌だ。それにこいつが生まれてから、ママはあたしのことすぐ怒るようになった。『お姉ちゃんでしょ?! 妹にはやさしくしなきゃダメじゃない!!』って。

――でも、だってこのワンコはあたしのお友だちなんだもん。みあが、あたしので遊んでるのが悪いんだもん!

 けど現実問題、目の前では妹がビィビィ泣いている。

 ああきっと怒られる……と思っていたら、やっぱりママが走ってきた。それで、

「ああよしよし」

って、妹をだっこした。そうして……やっぱりやっぱり! あたしのこと怖い顔で見て怒るんだ。

「彩乃っ! ダメじゃない! お姉ちゃんでしょっ?!」

「……。……うぅ……」

 なんであたしが怒られなきゃならないの? なんでママはみあには優しいの? ママはあたしのこと嫌いなの? その腕のなかは、ほんとはあたしの物なのに……。

「……うわぁぁぁーーーーん……!!」

もう悲しくて悔しくて。ついにあたしは泣き出した。

 そうして、泣きながら思ったんだ。憎しみを込めて強く強く。

 ――みあなんか、いなくなっちゃえば いいんだ!!

 って。


 その日の夜のこと。

 お風呂から上がってテレビを見ていたら、パンツだけ履いてバスタオルにくるまれた妹を抱っこして、パジャマ姿のお父さんがやって来た。きっと一緒にお風呂に入ってたんだ。パパは床に敷かれたバスタオルの上に立つ妹の髪を、別のタオルでごしごし擦っている。

 その様子をなんとはなしに眺めていたら、私は妹に変なところがあるのに気づいた。

「……パパ、みあの せなか、どうしたの……?」

妹の背中には、右と左とおんなじ高さ、おんなじ位置に、鏡写しみたいに対照な形で、赤いみみず腫れがあったのだ。横に細長い、ちょうど『ヽ』みたいな形。曲がったところを背骨側にして、肩甲骨の、ちょうど下ぐらいの場所にある。

「……どうしたの? かゆいの? あたしの、あとぴーみたいに……」

 ちょっと、不思議に思って訊いただけなのに、そのとたんパパが、昼間の時みたいに難しい顔になった。

「……なんでもないよ、彩乃。なんでもないんだよ」

 ……へんなの。


 それから、更に何日か経った。覚えてないけど、日にちにしたら多分数ヶ月くらいは経ったんじゃないかと思う。

 あたしは普通に、朝起きて朝ご飯を食べて、幼稚園に行って帰ってきて、ちょっと遊んだら今度はお夕ご飯を食べてお風呂入って寝るっていう生活をしてたけど、その間大人たちはみんな、なんだかずっと暗い顔をして、ときどき妹を囲んでは何かお話をしていた。

 始めの内は気になって、何度か理由を聞いたけど、『これは大人の話だから』『彩乃には関係ないの』と追い払われて、誰もその中身を教えてはくれなかった。だからあたしもその内、これは訊いちゃいけない事なんだと思って、最近では集まっているのを見かけても、何も言わなくなっていた。

 でも、本当はそのおかげで余計に不安だったのである。

 それに、みんなが妹の事で難しい顔をしているのだけはなんとなく分かっていたから、だれもあたしを相手をしてくれないのが、すごく寂しかった。

 あたしは沈んだ大人たちの顔色だけを見て、何も解らないまま、心の中に不安だけをどんどん溜め込んでいった。


 そうしてある日の夜の事。

 いつものようにお風呂あがり。テレビを見ていたら、私の後にお風呂に入っていたママが、妹を連れて出てきた。

 また何となく気になってみていたら、ママは蓋が緑色の、オロナイン軟膏の入れ物がちっちゃくなったみたいなものを出してきて、はだかんぼの妹の背中に、何やら一生懸命、その中身を塗り始めた。

 丁度、前見たとき、赤くなっていたところへ。何度も、何度も、しつこいくらいに……。

 しかしその光景を見ていて、私は急にぎょっとした。

「ママ……」

私は思わず立ち上がって、ママの傍らまで歩いて行く。

「ママ、みあのせなか……まえとちがう……」

 前見たときは、こんなんじゃなかった。こんな、赤い所がこんもりと盛り上がってはなかった。

 まるで、背中の内側から何か、生えて来ようとしているみたいな……。

 しかもママは、その盛り上がったところに、一生懸命そのお薬を塗り込んでいるのだ。

「ママ、みあ、病気なの?」

 そういえば、思い当たることもある。

 妹は、(実際に現実でもそうだったが)言葉を喋るのがあまり得意ではなかった。あたしは、幼稚園に上がる頃にはもう大抵、話したいことなんてすらすらと言えるようになっていたけど、妹はそうじゃない。言いたいこともうまく言えないし、それに何をやってもあたしより遅い。そのことで癇癪を起こすこともあって、あたしはそんな愚図な妹が余計にキライだった。

 でもそれが、最近ひどくなってきているように思えるのだ。

 何て言うんだろう、今まで覚えていたはずの言葉を言えなくなっちゃったり、前まで出来ていたことが出来なくなっちゃったり……。

「ママ、みあって、さいきんヘンだよね」

「花春……」

するとママは、またあの、沈んだ難しい顔になってあたしを見る。

 ああ、これは、聞いちゃいけない話だったのね。あたしはママのその表情で察して引き下がろうとしたんだけど、でもママはその顔のまま、言葉を続けてくれた。

「みあの背中にね、羽が生えてくるよ」

 え、はね!?

 びっくりして、思わず訊きかえした。

「はねっ? それって とりさんの はね?」

「うん」

「とべるように、なる……?」

「……。なるよ」

「すごいね、ママ!!」

あたしは目をまんまるくして感動した。だって、羽だ。鳥さんみたいに空も自由に飛べるようになる、羽だ。

 でもそう思うのと一緒に、それがあたしじゃなくて妹に生えてきたのが、すごく残念だった。

「ママっ、あたしにも はえてくる?!」

ママは悲しい顔をして、それ以上は何も答えてくれなかった。



 それから更に、また何日も過ぎていった。

 家の中の空気は、前にも増して沈んでいく。誰も笑わない。それに大人たちは、だぁれもあたしの事なんて構ってくれない。

 それがぜんぶ妹の所為なのを、あたしは知っていた。

 妹は、前にも増して喋らなくなっていた。どんどん話せる言葉が減っていって、歩くのもうまくいかなくなってきた。気に入らなければ泣く。

 まるで赤ちゃんに戻っていくみたいだ。そのせいだろうか、最近では病院に入院したり、退院したりを繰り返している。

 お母さんは相変わらず、妹の背中にあのお薬を塗り続けているけど、でもあたしはなぜか、そのお薬に気休め程度の効果しかないことを知っていた。その証拠にほら、背中のミミズ腫れは前なんかよりもっとずっと大きくなっている。もう「腫れている」なんて言葉じゃ足りない。「瘤」だ。すごく大きく盛り上がって、服を着ていてもはっきり分かるくらいの瘤になっているのだ。

 けど、それでもやっぱりあたしは、妹がうらやましくてたまらなかった。

 だって、みんな病気の妹の事ばっかり構って、あたしの事なんか放ったらかしなんだもの。

話しかけても『後でね』って、『今忙しいから』って、あたしの事なんか目に見えてないみたいにする。

 それにほら、お母さんが言っていた、妹の背中に生えてくるという羽。空を飛べるようになるなんて、すごくすごく羨ましい。それが、どうしてあたしではなく、みなに可愛がられている妹あるんだろう……?

 もう不安に思う心は、いつの間にかなりをひそめていた。代わりにあたしの心の中へは、日に日にドロドロしたものが沈み、こずんでいく。

――みあなんて、いなくなっちゃえばいいのに。

そう考えるときは、だんだん増えていった。それは、憎悪にも似た嫉妬だった。


 そんなある日の事だった。幼稚園から帰ってきて玄関を入ると、家の中がとても騒がしかった。

 どたどたどたっ! ガシャンがちゃんっ! 

 リビングの方から、走り回るような足音、何かが落ちる音、それに崩れる音がする。

 古い家だから、余計に響いて良く聞こえる。

――なに?! なにがおこってるの?

 びっくりして、でもとても怖かったから、恐る恐る音の聞こえる部屋まで忍びよっていった。

 閉じている磨りガラスの引き戸をそっと開けると、その隙間からまず目に飛び込んできたのは、とてもショッキングな光景だった。

――『ぅ゙ぅゔうゔぁあ゙あ゙あ゙あぁぁーーー!!!』

 妹が手も足も床につけて、テーブルの上で咆えていた。喚くような叫ぶような声で

『あ゙あぁ゙ぁ゙あ゙あ゙あーー!!』

「きゃっ!」

思わず悲鳴を上げた。その声で、中にいたおばあちゃんとママが振り返った。パパは、妹の一番そばにいて、動きを窺っているせいか気付かないみたいだったけど。

「彩乃っ?!」

何時の間に帰ってきたの?! という顔をして、二人はあたしに視線をくれた。そうしてお互いに目くばせすると、おばあちゃんの方が

「彩乃っ、おいで!」

そういってあたしを抱き上げて、お台所まで連れていく。あたしは震えていた。

 頭の中に、目にしてしまった妹の姿がこびりついている。

――みあ、はね。……血!

 妹は背中から、羽が生えていた。そう、ついにママが言っていた羽が生えていた。 その羽はまっかだった。きっと背中の肉を突き破って生えてきたからだろう。

――はねも、せなかも、まっかで、血まみれだった……!

 血なんて、転んで擦り剥いた時ぐらいにしか見た事のないあたしには、血の気が引くほどショッキングな光景だった。

――それに、みあ、しろめ、で……。

 だから、どこも見てはいなかった。そして半開きの口から、咆えるたびによだれをだらだらこぼしていた。その様子に、あたしの知っている妹の姿はもうどこにもないのだった。うらやましい、だなんて思った事を、すごく後悔した。


 ……それからしばらくして、向こうの部屋が静かになった。パパとママも、疲れきった顔をしてこっちに戻って来る。

 あたしはお台所の椅子に座って、青ざめたまま事態の収拾を待っていたから、姿を見るなりすごく安心して、でもとても心配で、二人に飛びついていった。

「ママっ、パパっ、だいじょうぶ? みあは……?」

「大丈夫だよ。みあは、救急車で病院に行ったよ」

パパが答えた。でも腕には、噛みつかれたような跡がある。ママがおばあちゃんに向けて言う。

「私たちも支度をして、行って行きます」


 そこからは、夢の終わりに達する少し前までの記憶が、あまり定かではない。単に、夢の内容を覚えていないだけなのか、それとも夢の中のあたしの記憶が曖昧なのか。

 ただ、その間にまた数日日数が経っていったこと、あたしの面倒をずっとおばあちゃんが見てくれたこと、パパとママはお家に帰ってこなかったこと、もう妹に対する気持ちが、嫌悪や嫉妬じゃなくなっていたことだけは覚えている。

 特に妹の事はもう、ただただ純粋に心配だった。彼女がどうなってしまうのかが、すごくこわかったのだ。

 そうして夢の中で更に時間が過ぎ、また次に鮮明に思い出せるようになるのは、玄関上がってすぐの廊下での光景だ。

 あたしは幼稚園から帰ってきた後なのか、そこでおもちゃと一緒に、一人で遊んでいる。おばあちゃんは、お台所でなにかしていた。

 『――ぷるるるるるるる! ぷるるるるるるるるる!』

そこへ、一本の電話がかかってきた。あたしの遊んでいる廊下にある電話だ。

 おばあちゃんがぱたぱたと走ってきて、そのお電話にでた。

「もしもし、睦永です」

受話器を持って、おばあちゃんはお話を続ける。お話している相手はママみたいだ。

「はい……うん……。…………そう……」

長い長いお話だった。

 会話が進むにつれて、おばあちゃんの顔がどんどん暗く沈んでいく。

「……そう……わかったよ。じゃあね、またね」

がちゃっ。

おばあちゃんが、受話器を置いた。

私はその様子を、皿のような目で見つめていた。

「おばあちゃん、」

おばあちゃんがこっちを向く。

「なんだったの?」

おばあちゃんが急にこんなお顔になるなんて、とても心配だった。するとおばあちゃんは、とても言いにくそうに眉をハの字にして、一瞬困った顔をする。

「……。……彩乃、」

でもやっぱり話さなければと思ったのか、おばあちゃんは口を開いた。

「みあがね、飛んでいっちゃったよ」

「? ……どういうこと?」

よく分からなかった。首を傾げていると、おばあちゃんは教えてくれた。要約すると、こういう話だった。

 みあは、病院でもいっぱい暴れた。おとなしいときもあったけど、でもやっぱりたくさん暴れた。

 お医者さんにも、もう治らないだろうって言われた。

 背中の羽は、その間にもどんどん大きくなっていった。

 そうして、今日。さっき。

 みあは今までの中で一番暴れたんだって。そうして、大人たちが何人かで抑えつけても敵わないぐらいの力でそれを振り切って、病院の窓ガラスを突き破って飛んで行ってしまったんだって。

「……飛んで行ってしまったから、もう見つからないよ。そして、死んでしまったよ」

 おばあちゃんはそう、話を締めくくった。

「――……。」

 あたしの心に、何か黒くて寒いものが広がっていった。

 死んでしまったと、おばあちゃんは行った。

 ……という事は、もう妹には会えないという事だ。もう、どこにも居ないという事だ。

――あたしの、せいだ。

それを聞いて、あたしはそう思った。

――だってだって、いちばん さいしょに、『みあなんか、いなくなっちゃえば いいんだ!』なんて、あたしがおもったから。そんなこと おもわなければ、みあは こんなふうに ならなかったのに……!

「う……うう……」

思うのと同時に、とても恐ろしくなって涙が出てきた。だってわたしは、取り返しのつかないことをしてしまった……!

「――うわああああぁぁ゙ーーーーーん!!」

 涙が溢れて、溢れて、止まらない。あたしのせいだ、あたしのせいだ!


 ――そうしてそこで、私は目が覚めたのである。

 目が覚めた瞬間の私も、目からぼろぼろ涙を出していた。


 大人になった今こうして書いてみるととてもお粗末なものだが、これを見たときは違った。

私はまだすごく小さかったのである。この年代の子が、「家族の死を願う」なんて、そんな事 日常の中で考える機会も、直面する機会も、そうそうにあるだろうか。

 それが、夢の中では現実になってしまい、おまけに血まで見てしまったのである。

 故に起きたときはまだ夜だったのもかかわらず、とても怖くて、しばらく寝つけなかった。それに、そんな状態だったのに、

――こんな夢を見てしまうなんて、私はとても、悪い子なんじゃないだろうか……。

とか考えてしまい、恐ろしくてついにはお母さんに話す気になれなかったことは、今でも覚えている。

 幼少期のトラウマにランキングをつければ、堂々の第一位だ。

 ああいう夢は、二度と観たくない。


《四歳か五歳ぐらいに見た夢》

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