第3話 現代俳句鑑賞3

「俳句」二〇一四年七月号より。

サイダーや有給休暇もう夕日  小川軽舟

外でサイダーなど飲んでいるところからすると、この有給休暇は作者自身のためというより、作者の家族のために取得されたものであろう。たまの平日の休みなものだから、作者家族も張り切って予定をびっしりと詰め込んだ。会社勤めの人間にとって、有給休暇とは複雑な心境になる休日である。当然の権利として会社を休んではいるものの、外にいる間も気持ちは落ち着かない。自分がこうしている間にも、同僚はいつもの通り黙々と仕事に精を出しているだろう。そして自分がいないことにより、いつもより余計な皺寄せが彼らに行ってしまっているかもしれない。そして何より、会社に残してきた進行中の仕事もある。今日一日分の遅れを、明日以降の勤務でどのように埋め合わせるか。そんなことに気を揉みながら過ごしているうちに、気が付けば今日もすでに夕日の眩しい刻限である。もうこんな時間かと、作者は溜息をつく。それは、家族によいことができたという安堵の溜息であり、また明日から会社勤めという平凡で無味な日常に戻るのだという、諦念の溜息でもあっただろう。


ホチキスの弾籠めてゐる薄暑かな  柏原眠雨

 何気ない日常的な行為だが、その陰に潜む恐ろしさを感じる。使い切って空っぽになってしまったホチキスの中に、また新たな弾を足しているのだが、その語感から、読者は容易にピストルに弾丸を詰める行為を連想する。ホチキスに弾を籠めながら、作者は体表にうっすらと汗を滲ませていたことだろう。それは何も、ようやく暑くなり始めた気温のせいばかりではなさそうだ。諸外国における緊迫する社会情勢や、日本国内における憲法解釈変更の問題など、私たちの身の回りにはこの瞬間も暗い不気味な影がはびこっている。それらの状況を自身に重ね合わせた時、平凡でありふれたことであるはずの行為が、作者の脳裏に、人の生命に係わる、恐ろしい予感を閃かせたのであろう。


筍飯ほぐせば湯気の太々と  押野裕

 作者は筍飯を炊いた。筍は収穫の時季が限られているばかりでなく、調理をするのに大変手間のかかる食材でもある。長さも重さもあって、持ち運びにはとても適さないし、大変な思いをして家まで持ち帰って来た後がまた一苦労で、長い時間をかけて灰汁を抜いたり、冷して皮を剥いたりと、口に入るまでにいくつもの工程を経なくてはならない。だからこそ手をかけている間に、筍にはいつしか我が子のような愛着が湧く。準備は済んだ。あとは美味しく炊けてくれていることを祈るばかりである。充分な蒸らしの時間を置いた後、作者は炊飯器の蓋を開けた。粗熱はすでに外に放出されているため、それほどの蒸気の量ではない。さて、米の固さはどうであろうか、焦げの付き加減はいかがだろうか。杓文字を炊飯器の中に突っ込み、底の方からひと掻き米を混ぜ返す。すると中に閉じ込められていた湯気が、一気に立ちのぼった。その太さは、炊飯器の口径と同じくらいか、それよりもなお広い。そして白く太い湯気からは、芳醇な筍の香り。思わず、作者の顔もほころんだことであろう。


ちやんとした団扇をひとつ買ひにけり  清水良郎

 最近は街を歩いていると、無料で団扇を配っていることも珍しくない。環境意識の高まりのためなのか、高い宣伝効果が期待できるためなのか。それはともかく、今や団扇は無料で、あるいは無料同然で手に入る代物である。団扇の造作は値段の高低に関わらず同様で、煽ぐことにより得られる報酬もほぼ一様である。ならば団扇ごときに、わざわざ高い金額を支払う道理はない。暑さをやり過ごすためなら、安価なものでも十分であろう。作者も普段はそう考えていたのだろうが、ある日、街頭の店先で一本の団扇がふと気になってしまった。柄や骨はしっかりとした竹製で、面の部分はいかにも丈夫そうな和紙の造りである。値札を見ると、普段使っているものより桁が一つ多い。作者は考えた。所詮は団扇である。団扇ごときにこんな金額を払うのはばからしい。しかしまた一方で、こうも考えた。ちゃんとした団扇を一本持ってみるのも、それはそれで酔狂、大人のたしなみというものではあるまいか。作者はその時、半ば衝動的にその団扇を購入してしまった。さて、ちゃんとした団扇を使うと、果たしてちゃんとした風が立ったのであろうか。


春まつり祝詞の中をぽんぽん船  永田英子

 今年も町に、春祭の季節が訪れた。現在、都市や市街地で行われる祭は、観賞用としての趣がだいぶ強くなってしまった。そのため、衆目を集めやすい大きな神輿や、乱舞する獅子舞などが花形となっている。しかし今でも、少し都会を離れた町や村に行けば、五穀豊穣を願う伝統ある神事としての祭が粛々と行われているのである。小高い山の中腹に建てられた小さな神社の中で、今まさに神職が祝詞を奏上しているところである。居並ぶ人々も、みな神妙に頭を垂れて恭しく耳を傾けている。厳かな雰囲気が、辺り一帯を包み込んだ。そんな時、どこからか聞こえてくるのは、ポンポンというとぼけたような機械音である。音のする方へ目を向けると、一艘の小型の船が、眼下に広がる海面をゆっくり横切っていくところであった。荘重で厳粛だった空気が、一瞬和む。神官の肩からも、心なしか少し力みが抜けたようだ。いかにも島の春らしい、長閑な情景である。


「俳句」二〇一四年八月号より。

徳川の鼓動を宿す初鰹  進藤剛至

 江戸時代には、現代とは違って庶民の初物への関心が極めて高かったようだ。特に初鰹は、これを食べなくては江戸っ子の名が廃れるというほどで、着ているものを質に入れてでも初鰹を手に入れたという小咄が現代まで残っている。しかし、今は時代が変わった。養殖や冷凍の技術が進み、マグロ、カツオ、タイなどの大衆魚は、年間を通していつでも店頭に並んでいる。それぞれの魚には、本来獲れるはずの時季、旬があるはずなのに、もはやそれさえ判然としない。便利になったと言えばそれまでだが、生活が平板化して、彩が褪せてしまったようだ。カツオにはカツオの季節があり、それを楽しみ待っていた人々の暮らしの方が、現代よりもむしろ心が豊かであったといえるのではないだろうか。そんなことを思いながら、作者はある日、包装されたカツオの切り身を店頭で手に取ったのだろう。ラベルには「初鰹」と印字されている。どうやら今季の初物のようだ。そう思うと、何やら包装の中のカツオの切り身が、ずっしりと重くなったようである。そして今にも躍り出そうかというほどの、内に秘めた生命感さえ掌に感じる。人々はすでに忘れていても、カツオはしっかり記憶しているのだ。かつて徳川の時代に、庶民が初鰹に群がり、奪い合い、狂喜乱舞していた時代のことを。一切れのカツオから、過去の時代の鼓動を感じた。


台風のニュースをつけしまま眠る  進藤剛至

台風は局地的な被害をもたらす。その進路、勢力、速度によってその後の生活が大きく影響を受けるので、台風が接近してきた場合には誰しも最新の情報に注意を傾ける。テレビの画面には、今まさに上空を台風が通過しつつある地域からの中継が映し出されている。画面の中は、街路樹がなぎ倒されるかと思われるほどの風、白くしぶきを上げながら降りしきる大量の雨の映像が流れている。それに比べて、まだ台風から遠い作者の自宅近辺の空は、風雲急を告げる様子でもない。しかしそれも、明日明後日にはどうなるかわからない。おのずから、台風の進路が気になるところである。そこで作者は、テレビの台風情報を付けたままにしていた。しかし夜も深まるにつれ、正直な作者の体は、一日の疲れから眠気を引き起こした。淡々としたニュースの音声は、次第に作者の導眠剤として有効に働き出す。作者はとうとう、我知らず眠りの中に落ち込んでしまった。その間も、台風は着々と接近しつつあった。そしてテレビはやはり淡々と、その事実を聞こえない作者に向けて語り続けていた。


冷酒や雁木に錆びし馬繫  鈴木厚子

かつての商家の町並みが残っている城下町である。作者はその土地でも古い歴史のある造り酒屋へ赴いたのであろう。雪国のため、両側の住宅からは庇が大きくせり出し、下の歩道を冬季の積雪から守っている。作者は酒屋の軒先で、できたばかりだという清酒を試飲させてもらっている。暑さのために火照った体の中心を、氷のような清涼感が一筋下っていく快感に、思わず声を出して唸る。見ると、雁木を支える柱の所々に、錆びた鉄環がぶら下がっている。それが何かと尋ねると、酒屋の主人が、それは昔、商人が台車に積んだ酒を引かせるための馬を繋いていたものだと教えてくれた。今は無論、馬に酒を引かせることはなくなり、久しく使用されていないために一様に錆びついてしまっているが、その鉄環は酒屋の古く長い歴史を雄弁に物語っているようだ。そんな時間に思いを馳せると、湯呑みに注がれた日本酒の味にも、一層深みが増すのである。


葭原に榛が生ひそめ葭雀  本井英

何の変哲もない川べりの風景である。一面に葭原が広がっている。川の上はいつでも風の通り道で、風が吹くたびに葭原はゆらゆらと波打つように靡く。その葭原の中に、一本だけしっかりとした木が立っている。それは榛の木であった。僅かの風に葭原全体がたなびく中で、榛の木だけは堂々と風を受け止めている。葭原には、大量の雀がいるようだ。至る所からたくさんの声が聞こえるが、葭原の中に身を潜めているためにその姿は見えない。きっと葭原は、草の穂を傷めに来る害虫の脅威から、雀たちによって守られているのであろう。一方の雀たちも、葭原を外敵から身を隠すのに格好の場所としている。自然の中の、共存共栄。榛の木は、その平和を象徴するように立つ。


山寺のすき間だらけの踊の輪  武田禪次

かつてはにぎわっていた村落の踊りであろう。過疎が進み、今は踊り手もごく少数になった。しかもみな老齢である。以前は櫓の周りを二重にも三重にも人々が取り巻いて踊りの輪も渦を巻いていたであろうが、今は一重になるにも人手が足りない。踊り手と踊り手の間は何人分もの間隔が空いてしまって、それは盆踊りというよりも、一人一人の独立した踊りの連続にすら見えてしまう。それは見る者にとって、一瞬笑いを誘う滑稽な様相である。しかし真剣に踊り続ける数人の高齢者を見るにつけ、可笑しい気持ちは次第に薄れる。跡継ぎのいなくなった踊りの輪は、いずれ消滅するであろう。それは遠い将来ではないかもしれない。そうなった時、この日本からまた一つ、豊かな文化と大切な伝統が失われる。そんな暗い未来を暗示するかのように、歯抜けのした踊りの輪は、ゆっくりと前へ進み続ける。


「俳壇」二〇一四年九月号より。

香水が選ぶ真紅の夜会服  飯田マユミ

 「夜会」とは、昨今流行している女性だけの酒盛りなどのことであろう。作者は鏡の前で、今日の夜会に着ていく服を選んでいる。その意識にあるのは、当然今日の夜会に参加する他の女性たちの装いである。彼女たちに見劣りするような貧相な格好ではいけないし、かと言って一人だけ浮いてしまうほどの華美な出で立ちでもよくない。彼女たちの平均より少し上の、かつ程々の身なりが最善である。作者は何着かの洋服を鏡の前で自身の体に合わせながら、頭の中ではもう一つのことが気になっていた。いざという時のために、最近購入した香水である。今日はぜひともあの香水を使いたい。そして同席する女性たちに、自分との差を思い知らせたい。作者は最終的に、一着の真紅のドレスを選び出した。それは作者自らが選んだというより、今日のために買っておいた香水が選ばせた服装であった。通常は服装が先で、後から香水を合わせるのだろうが、作者は逆の行動をとった。女性特有の、複雑な心理が働いたのであろう。


七夕の街タクシーのあふれゐる  飯田マユミ

 七夕は言わずと知れた、年に一度の特別な逢瀬が許された日である。冬のクリスマスとほぼ正反対の日付にあたり、何となく特別な思いのする日である。街を行き交う人々も心なしか妖艶に見え、ドラマのような出会いがあるのではと、期待を抱く人さえいるかもしれない。そう思うと、普段なら何でもない風景までもが、何やら怪しい誘惑的な色彩を帯びて見えて来る。信号待ちで列を作る駅前のタクシーもまた然り。男を乗せた、或は女を乗せたタクシーは、一体どこに向かうのであろうか。それは、ひそかに愛する異性のもとではないのだろうか。ちょうど天の川を挟んで織姫と彦星が逢瀬を果たすように、地上の男女もまた、一夜限りの密会に落ち合うのではないだろうか。実際は、そんなことはない。大半は、ただ家へ向かう客を乗せたタクシーが連なっているだけである。しかし七夕の夜くらい、作者のように浪漫的な想像を働かせてもいいのではなかろうか。


ねむの花二十五時ある時刻表  そら紅緒

 時間は誰が作ったのであろうか。人間が誕生するより前に存在していたのか、或は人間が生まれてから考えだされた概念なのであろうか。なぜ一日は二十四時間なのであろうか。なぜ一分は六十秒なのであろうか。一秒の基準は、誰が定めたのであろうか。そんなことを考えだしたらきりがないが、ともかく我々は一日が二十四時間であると信じて生きている。そのように基準を定めることで、世界中の人々の生活が安定するからだ。誰かの都合で、急に一日が二十五時間になったり、二十三時間になったりすることは許されない。作者は駅のホームにいる。すでに深夜である。最終電車の時刻が気になる。時刻表を下の方まで見る。まだ後続の電車はあるようだ。ほっとする作者。しかしふと違和感を覚え、再度時刻表に目をやる。時刻表の終りが、「二十五時」と記されている。そんな時刻があっただろうか。それは今日の延長なのか、それとも明日の始まりなのか。考えると切りがない。次第に眠くなってくる。見ると、時刻表の脇には照明に照らし出されたねむの花が、ゆらゆらと揺れていた。


「俳句」二〇一四年九月号より。

赤のコーン黒と黄のバー花火待つ  榮猿丸

 日本人は、殊に礼節を重んじるという。先のサッカーの国際大会でも、試合会場のごみを拾う日本人の姿が報道され、世界から賞賛を受けたことは記憶に新しい。そんな日本人を誘導するのは、いとも容易いことだ。例えば道の左右に、方向の異なる矢印を一つずつ描いて置くがいい。我々は誰に言われずとも、律儀にその矢印の方向へ向かって歩き、道には自然と左右で別方向へ行き交う人の列ができるであろう。赤いコーンを立てて、その間に黒と黄の縞模様のバーを渡して置くがよい。我々は誰に言われずとも、勝手にバーの内側に収まり、バーの外には誰一人として一歩も踏み出さないであろう。譬え大きな花火会場で、観客がごった返している中でも、それは同様である。日本人は実に素直に、コーンとバーによって行動を制御され、それを自然だと感じ、決して厭わない。花火を待つ群衆を後ろから見ると、実に滑稽である。立錐の余地もない人々の最後列で、無機質なコーンとバーが、威厳ある存在感を示しているのだ。


アペリティフに酔うて候夕テラス  笹瀬節子

 避暑に訪れた、高原のペンションなどでの一齣であろう。夏の夕暮れはゆっくりと訪れ、夕食の刻限になってもまだ空は明るい。テラスからは湖が見え、水面は夕日に輝き、そこから吹く爽やかな風が体を包む。作者は食前酒の注がれたグラスを傾けながら、美しい風景に目を遊ばせている。しかし明るいと言っても、時刻はすでに十九時に近い。作者はもとより空腹であったが、旅先での気分の高揚も手伝って、つい普段より速いペースで酒を飲んでしまった。空腹時の酒はよく回る。作者の視界は次第にものの輪郭がおぼろげになり、口数も多くなってしまう。そしてついには、「酔うて候」などと、普段の作者ならば決して口にしないであろう他愛もない軽口まで叩いてしまう始末である。しかし、旅先でのことだ。それを誰も咎めたりはしないであろう。折角の夜を、思う存分楽しめばよいのである。


「俳句」二〇一四年十月号より。

寒月や自死はひとまず痛からん  池田澄子

 現在、日本国内だけでも一日に約百名が自死を遂げている。自ら命を絶つほどであるから、生前の彼らは我々の想像も及ばないような苦しみを、日々味わっていたに違いない。その苦悩が死の恐怖をも超越してしまった時、人は自死という最後の決断を行うのであろう。それは当人たちにとって、やっと呪縛から解放されて、永遠の安息を手に入れる穏やかな瞬間であるのかもしれない。ただ、いかなる死に方を選ぼうとも、意識が途絶えるまでの数秒間は、痛く苦しい時間なのに違いない。楽な死に方などというものがあるのか、それは実際に死んでみた者にしかわからない。どれだけの絶望の淵に立たされていようと、死ぬ直前の瞬間は、恐らく未練や後悔もあるだろう。精神的、肉体的痛苦を乗り越えての、安息である。自死は周囲の者を悲しませる。しかし当人のことを思うならば、それは決して悪いこととばかりは言えないのではないか。掲句は想像を絶する苦しみ、痛みを乗り越えた人々への、鎮魂の歌のように見える。


松の花日本語ならばほぼ分かる  池田澄子

 日本に生まれて日本に育ったので、母国語である日本語ならば、ほぼ分かる。しかしこの「ほぼ」というのがなかなか厄介で、決して「全て」ではないのが曲者だ。殊に最近は海外からの様々な言葉の流入が多く、音を聞いても何のことだかさっぱり分からない、ということも珍しくない。分からない言葉が増えてくると、少々不安になる。自分は本当に日本人なのかしらという疑義さえ生じかねない。しかし、「ほぼ分かる」あいだは、恐らく大丈夫であろう。いかに片仮名言葉が巷間に氾濫しようとも、松の木が似合う間は、日本は変わらず日本のままである。


黄金虫骸に浮力ありにけり  小林貴子

 作者はある日、水に浮く黄金虫の死骸を見つけた。命のある間は、翅を広げて夜空を飛び回っていた黄金虫だが、今は死んで動かなくなっている。しかも、本来彼らのいるべきではない水の上に浮いている。何とも哀れな光景である。しかし、作者はいったん思考を切り替え、改めて目の前の光景を見直した。すると、別の見え方が出来てきた。黄金虫は、確かに寿命を迎えて死んだかもしれない。しかしその黄金虫は今、水の上にゆったりと浮かんでいる。全身の力、重みを広い水面に預けて、ただそこにたゆたっている。まるで彼らが生前に空中に浮いていたのと同じように、今は水面に浮いている。黄金虫は今、宙に浮いているのと同じだ。黄金虫は自分が死んだとも気づかずに、今でも夢の中で、大空を飛び回っているのかもしれない。


本堂にすくと仏と扇風機  加藤かな文

 薄暗い寺院の本堂の奥には、物言わぬ仏が一体、正面の解放された空間に向かって、物憂げな瞳を伏し目がちにしながら佇んでいる。日の光りのあまり届かないその場所で、全身を金箔で覆われた仏は、異様なまでの静寂に包まれながら、ぼんやりと厳かに微光を纏っている。さて、そこから転じて、本堂入口付近に目をやる。そこには、胴が白く羽根が青い旧型の扇風機が、仏と向かい合うように立っている。首を一番上まで伸ばし、頭を目一杯に左右に振りながら、低いうなり声を上げて堂内に風を送り込んでいる。一体何のためかは、もちろん知る由もない。まさかこのところの猛暑から、修行中の僧侶の体調を案じたもののはずはないし、風通しのよい堂内の湿気対策とも思えない。しかし、見るからにおかしな光景である。優に千年近い歴史を持つ寺の仏と、近代の文明の産物である扇風機。動かざる仏と、忙しなく働く扇風機。暗鬱な仏と、陽気な扇風機。対照的な二者の対峙は、いったいいつまで続くのであろうか。


網棚の西瓜をずつと押さへけり  清水良郎

 網棚に西瓜を乗せた。なぜわざわざ、作者はそんな遠方で西瓜を買ったのであろうか。目的地付近に着いてから買えば、何も大きく重く、安定しない西瓜を長い距離運搬するなどという難儀はしなくてもよかったであろうのに。いずれにせよ、作者は重い西瓜を、電車の網棚に乗せたのである。これで西瓜を提げる右手の労苦からは解放されたが、気苦労はまだ絶えない。電車の揺れに合わせて、網棚の西瓜が左右に揺れる。これが落ちては一大事である。西瓜が割れるだけならば、まだよい。しかしそれが誤って、下の座席に座っている客の頭にでも落下したら、卒倒しかねない。そこで作者は、網棚に置いた西瓜の頭を、ずっと片方の手で押さえ続けている。まるで腕白な我が子の頭を押さえつけ、なだめ落ち着かせでもしているかのように。


石庭は漣ばかり石叩  加古宗也

 石庭には、細やかな波の紋様が描かれている。そこには岩に打ち寄せる荒々しい大波の姿はなく、描かれているのはいずれも、広い湖の真ん中に小石を一つ落としたような漣ばかりである。石ばかりの庭に、不意に波音が聞こえてくる。湖の水際で、行く波と帰る波が重なり合って、互いに打ち消し合う時のような、せせらぎにも似た細やかな水の音である。そこへ降り立った、一羽の灰色の小鳥。鶺鴒である。石庭の模様に波の動きを見、水の音を聞くのは、何も人間ばかりではないらしい。鶺鴒もまた豊かな感性を働かせたのだろう、そこに水辺があると思って降りて来たのであったろうが、とんだ見当違いであった。


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現代俳句鑑賞 矢口晃 @yaguti

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