第2話 現代俳句鑑賞2

「俳句」二〇一四年三月号より。

二つ貼るもし蒲公英が切手なら  塩見恵介

 穏やかに晴れた春の草原である。地面から生え出した草はすくすくと成長し、今や風に吹かれてそよぐまでの高さになった。鳥は空高く囀り、花々は一斉にその蕾を開き始める。見ればあちらこちらに、タンポポの花が競い合うように咲いている。あるいは黄色く花の盛りを迎え、あるいは白い綿毛となって、種を運ぶ風を待っている。作者は手に、一枚の葉書を持っていた。それをポストへ投函するために、この草原を通って来ていた。葉書にはすでに自ら選んだ切手が貼ってあったが、この時になり、作者の心には俄かに薄々と後悔が生じて来ていた。このタンポポを貼るのだったな。もし、タンポポが切手であったならば。そう思う作者の心は、もちろん真剣ではない。もとよりタンポポが切手ではなく、それを葉書に貼ったところで相手先には届けられないことなど、百も承知である。しかし、あえて作者はそんなことを考えてみる。たっぷりの日差しに心を解いて、子供のような無垢な気持ちになって。どうせ貼るなら、二枚がいい。もちろん、黄色いタンポポと綿毛のタンポポだ。それらは、人間の世界では通用しない。しかし作者の気持ちは、きっと空を吹く風に乗って、相手の心まで届けられることだろう。


雪渓が見える村です来ませんか  塩見恵介

 前略。お変わりありませんか。あなたと離れて暮らすようになって、もう何年が経ったことでしょう。あの頃は私も未熟で、あなたにたくさん迷惑をかけてしまいましたね。ごめんなさい。でも、今は私も少しは大人らしくなりましたよ。仕事にも真面目に行くようになりましたし、お腹を壊したくらいでくよくよ落ち込むこともなくなりました。会社からもそれなりの仕事を任せてもらえるようになって、今は部下を連れて、山間の小さな村の支店に、支店長として配属されました。ここで、新規のプロジェクトを一から立ち上げるのです。何もないところです。でも、水も空気も、夜の星もとてもきれいです。村の人は、私たちにとても親切にしてくれます。まずまず順調な滑り出しといったところでしょうか。それで、もし、今度お時間があったらの話ですが、一度こちらへ遊びにいらっしゃいませんか。何もおもてなしはできませんが、久々にあなたの笑顔が見られたら、とても嬉しいです。本当に何もないところですけれど、そうそう、美しく雄大な雪渓が見える村です。来ませんか。


四人の子隠れてゐたる羽根蒲団  音羽紅子

 部屋の中央に、一組の布団が無造作に置かれている。敷布団のシーツは乱れ、上に掛けてある羽根布団は、起きた時のままに乱れている。しかしそうではないらしい。何やら羽根布団の様子がおかしいのである。第一、内側から何かに押されたような不自然な凹凸があるし、更には、誰かが囁くような微かな音が聞こえている。さては、と思い作者は近づく。すると、布団の中から一人の子供が勢いよく飛び出した。やはりまた隠れていたか。と思った瞬間、次々に三人の子供が布団を跳ね除けて外へ飛び出した。不意を突かれた作者は一瞬驚いて、半歩足を後ろへ引いた。壁を隔てた隣の部屋では、布団から飛び出した四人の子供たちが、やんやの喝采である。よくもこんなところに、四人も隠れていたものだ。そう思って視線を再び布団へと戻すと、跳ね上げられた反動で二つ折りになった、もうでこぼこもひそひそもないただの羽根布団が、無残に横たわっていた。


雪載せて河原の石の孵りさう  上村敦子

 朝からの雪である。普段見慣れた景色の全てが、一枚の大きな白い幕に覆われていく。電線は雪の重みに耐えるように大きく撓い、川は冷たい外気の中を、もうもうと煙を上げながら流れて行く。作者は降りしきる雪の中、誰も通らない川べりまでやってきた。足元の小石に何度もバランスを崩しながら、どうにか河原一帯が見渡せる場所まで歩いてきた。肩にも髪にもいくつもの雪片が付き、指先はすでに感覚が遠のき、冷たささえ感じないほどだ。作者は自らの吐く白い息の切れ間から、石の上に雪の積もっていく様を見つめている。石を包む雪は、まるで綿布団のように柔らかく軽い。作者はその様子を見ながら、羽毛に包まれた、白く丸い鳥の卵を想像した。今に石は、雪の温かさによって孵化するのではないだろうか。もし石が孵ったならば、中からは一体何が現れるのだろうか。雪の精か石の精か、それともやはり、ただの石ころか。そんなことを考えるうちに、作者は辺りの空気にも、心なしか暖かさを感じていた。


大綿のひかりどこから思ひ切る  恩田侑布子

 人はいつでも、何かを選択している。そして選択にはいつでも幾分かの勇気と、時折後悔を伴う。後悔したのは自分の所為だと思いたくはない。だからなるべく、自分で決断したくない。ものの弾みとか、虫の知らせでもいい。何か決断させてくれるきっかけがほしい。前方には、綿虫が輝いている。小さな体に大きな光を背負って、まるで光の重さに抗うように、懸命に飛んでいる。風が吹けば流され、風が止めば取り残される綿虫。触れば溶けてしまいそうなか弱い体から放つ綿虫の輝きは、しかし何やら自信に漲っている。綿虫の健気な姿に勇気を得た作者。思い切りたいことはいくらでもある。その中の、どこから思い切るか。すでに作者なりの答えは見つかっているようだ。


「俳句」二〇一四年四月号より。

春雪の止まぬ日曜みんなゐる  今瀬一博

 せっかくの日曜日だというのに、朝からあいにくの雪である。道路は寸断され、電車も運休している。作者一家はそれぞれの用事を諦め、一つ家の中にひっそりと身を隠すように過ごしていた。テレビの番組は、予定していた番組を変更して各地の大雪情報を伝えている。それを居間の一台のテレビで家族全員が無言で眺めている。その時、作者ははっと気づかされた。一体何年振りだろう、家族全員が、こうして一つ所に集まっているのは。そう思った瞬間、作者は胸が熱くなるのを感じた。雪は後から後から、とめどなく降り続ける。それは、作者家族に非日常的な週末の一日をもたらした。しかし実は、非日常と思われるそのありようこそが、本来家族にとって日常的であるべき光景なのであった。願わくば雪よ、このまま降り続いてくれ。作者は胸の内で、そんな風に考えていたのかもしれない。


ぬひぐるみの目玉ふたつを買ふ春日  清水良郎

 作者の子供が、長年愛用しているぬいぐるみなのであろう。買った頃に比べると、色合いも大分くすみ、毛並みもすっかり逆立ってしまっているが、子供のぬいぐるみへの愛着はひとしおで、新しいものを買い与えてもその古いぬいぐるみを手放そうとしない。仕方ないから、作者は時々ぬいぐるみに手入れをしながら、何年も経ったそれを未だに子供に使わせている。よく晴れたこの日、子供の手を引いてやってきたのは、駅前の裁縫具店である。作者はこの店へ、新しいボタンを二つ買いに来ていた。子供の激しい愛撫のために、ぬいぐるみの目玉が取れてしまっていたからである。店内を逍遥することひとしきり、作者はとうとう、手ごろな大きさの黒いボタンを見出した。しかし無邪気な子供は、それが果たして何に使われるのかは分かっていない。ましてや自分が可愛がっているぬいぐるみの目玉になることなど、夢想だにしていないだろう。しかしこうして二人が買い物をしているその瞬間にも、件のぬいぐるみは、家の部屋の壁に寄りかかって、ぐったりと座り込んでいることだろう。二つの目玉をくりぬかれた、見るも無残な姿になって。


ぐんぐんと冬青空が加速せる  奥坂まや

 冬の空は晴れるほど、地表の気温は低くなる。この日も例外ではなかった。頭上には清々しい青空が広がる一方、作者の体は切られるような寒さに包まれている。時折上空から乾いた風が吹き下ろすと、体の髄まで凍り付くようだ。見上げれば、雲が速い。上空では、地表とは比較できないほどの強い風が流れているようだ。雲は、北から吹く風によってすごい速さで運ばれてゆく。それが時を追うごとに、いよいよその速度を増しているようだ。作者の頭脳でその時、感覚の倒錯が起こった。動いているのは雲ではない。冬の青空全体が、雲もろともに動いているのだ。それが、見る間に加速していく。ぐんぐんと、ものすごい速度で動いていく。その時作者は、もはや寒さも忘れて、無心で歩を進めていたことだろう。猛烈に加速していく冬の青空に、背中を押されるような感覚になって。


雪よりも少し汚れて雪兎  今瀬剛一

 雪の中にいるのは、一羽の雪兎である。雪兎は、身動きもせず、雪に覆われた地上にちょこなんとして座っている。それはまだ幼い子供たちによって作られたものなのであろう、造作が至って不精緻である。大きな耳や、足の位置さえ定かではない。ただ眼としてつけられたのであろう二つの赤い万両の実が、顔の向きを知らせるばかりである。雪で作られた雪兎は、当然ながら全身が白い。それは普通に考えれば、周りの景色に同化して目立たないものになってしまうだろう。しかしこの時、作者は難なく雪の中に雪兎を発見した。それは何も雪兎の赤い眼が異様に目立ったからばかりではない。白いはずの雪兎は、一面の雪の中にあっても、確かに周りの色彩と一線を画しているのである。なるほど雪兎の体には、幾分かの泥が混じっていたのだ。雪を集める時に、地面の土がついてきてしまったのであろう。しかし作者はそこに、単に作り物としての汚れを見出したわけではない。雪兎に宿る命を見たのである。野生の兎同様、この雪兎も、今しがたまでそこらを駆け回っていたに違いない。とすれば、跳ね上がる泥の飛沫によって体が汚れてしまったのも至極当然の結果である。作者の眼には、この時雪兎の体が、心臓の拍動によって細かに波打っているのが見えたことだろう。


好きな道行く先々の春の泥  檜紀代

 春は閉ざされていた心を解放させ、人々を前向きな気分にさせる。枝の先から萌え出した薄緑色の新芽は、日差しを浴びて宝石のようにきらきらと輝く。鳥は囀り、風は和らぎ、小川を流れる水の音も、どことなし軽やかに聞こえてくる。よく晴れた春の日差しの中を歩くのは、誰にとっても気分のよいことである。ただ、一つだけ人々を難儀させるのは、地面のぬかるみである。せっかく履いてきたお気に入りの服も、まだ新しい靴も、気を付けないとあっという間に泥だらけになってしまう。しかし、作者はそんなことはもとより気にしていない。行く先々に、春の泥がある。それがまばゆく輝いて、自分を待ってくれているようだ。そう考えた時、春泥はもはや、ただ衣服を汚すだけのものではない。希望と喜びの象徴として輝き始めるのだ。


「俳句界」二〇一四年五月号より。

しやぼん玉伸びて曲りてはなれける  後藤一郎

 ストローの先に、シャボン液を付ける。その反対側の端に口を当てて、ゆっくりと息を送り込む。ストローの端をシャボン液で塞がれて出口を失った息は、シャボン液を内側から外へ押し出す。徐々に膨らみ始めたシャボン液は束の間前方へ細長くせり出すが、液体自体の重みと、送り込まれた息の重みのためにすぐにストローの先にへたりとぶら下がるようになってしまう。その状態から、今しばらく慎重に息を送り込んで、膨らんだシャボン液がストローの先を離れた後からが、ようやくシャボン玉の誕生である。日差しを浴びて七色の光を放ちながら、揺蕩うように空中を浮遊する様子がいかにも春らしいシャボン玉だが、掲句ではシャボン玉が生まれるまでの、醜い姿が時間を追って描かれている。シャボン液が悪戦苦闘の末にシャボン玉になるまでの様子は、微笑ましくも、どこか哀れである。


首まはり寒々と雛納めけり  対中いずみ

 雛祭の季節は暦の上では仲春であるが、実際の季節感では、ようやく春らしくなり始めた頃である。少し天候が崩れれば、冬用のコートはまだ手放せない。しかし掲句の言っている肌寒さは、恐らくそのような外的な条件に起因するものではないだろう。もっと心理的な、内面的なうすら寒さを表しているように感じる。祭の後というものは、得てしてある種のもの悲しさに捉われるものだ。それまで賑やかで華やいでいた世界が、一夜の内に平凡な日常に戻る。身の回りのもの全てが特別なものに見えていた世界が、突如としてありきたりな無表情な世界に帰る。昨日まで友人のように語らっていた人々が、今日は誰もいない。特別な時間が終わったことを理解しながらも、頭の切り替えがそれに間に合わず、激しい孤独感に苛まれる。また同時に、雛祭とは恐ろしい風習でもある。女児の多幸を祈念する一方、祭の後に雛人形をいつまでも片付けないでいると、女児の婚期が遅れるという忌わしい言い伝えもある。静寂と迷信と。二重の恐怖が、作者の身体を取り巻いているかのようだ。


萍の密なるところありそめし  対中いずみ

 萍は、普段あまり気に留めることのない植物ではないだろうか。ふと気が付くと水面を覆っているが、それがいつ頃から現れ始めたのかは殆ど気にすることがない。作者もその時までは、恐らく何の気もなしに水面を眺めていたのだろう。しかしふと足元の近くに目を向けてみると、所々すでに萍が現れ始めている。しかしそれは、まだ水面をびっしりと覆うまでには至っていない。全体的にはようやく現れ始めたところで、これからがいよいよ本格的な繁殖の時期というところである。淡く、まばらに点在している状況であるが、一方ですでに密々と数を増やしている集団もある。密と言えば密。疎と言えば疎。そんなどっちつかずの状態にある萍が、「密なる」と「ありそめし」という二つの相反する状況を表す言葉の併記によって描かれている。


噴霧器を振れば畑の虹男  斎藤夏風

 畑の中で、一人の男性が農作業をしている。茂り始めた農作物に、薬品の入った液体を、噴霧器を使って吹きかけている。重そうなタンクを肩から背中に掛け、先端にノズルのついたパイプの根本を右手に掴み、ノズルを空中に上げ、薬液が薄く万遍なく作物に行き渡るよう作業を行う。見るからに体に応えそうな重労働であるが、男性は作物の一本一本に目を配りながら、ゆっくりとした動作で、休みなく作業を続けていく。そのゆとりある動作は、まるで肉体的な苦痛や疲労など、微塵も感じていないようだ。それは長年農業に従事したことによる強靭な肉体のなせる業か、或は自分の育てた作物への惜しみない愛情の力であろうか。作者はしばらく、その男性の作業姿に目を止めていた。すると次の瞬間、作者は驚いた。男性が噴霧器のノズルをある角度に振った時に、ノズルから出る霧の中に、小さな虹が現れたのだ。あっと思わず声を上げそうになったが、男性がまたノズルを別の角度に振ると、虹も消えてしまった。しかし男性が動き、ノズルの角度が再び変わると、霧の中に再び虹が現れる。まるで男性が、自分の意志で虹を出したり消したりしているようだ。そうか、あなたは虹男だったのですね。作者の心中の問いかけに、無論畑の男性は答えたりしない。ただ黙々と、虹を出しては消し、消しては出しするばかりである。


上州は雷銀座また光る  綾野南志

 高い山が連綿と競り上がる上州は、その高い山々に、太平洋側と日本海側それぞれから、年間を通して湿った風が送り込まれる、日本屈指の雷の多産地帯なのであろう。それは地元の人々にとっては名物でもあり、すっかり慣れ親しんだものであるのかもしれない。例えば都会の人々が雷を見て恐れるように、上州の人々は雷を恐がったりはしないのであろう。雲の高さはどの程度か、光や音の強さはどの程度か、どれくらい長く続きそうか。日々空を見上げて、その日の雷の様子を慈しむように観察しているのかもしれない。これだけ雷が多いのであれば、もはや雷の通り道、などという言葉では用が足りない。むしろこれは、雷の銀座とも言うべき混雑具合である。そのようにおどけて言う作者であるが、それも満更冗談ではないらしい。頭上では、今も豪華に華やかに、大輪の雷が花を咲かせているのだ。


「俳句」二〇一四年六月号より。

白山と対峙の雲の峯亡ぶ  鷹羽狩行

 作者の視界には今、名峰白山の頂きがある。他の山脈を圧して悠然と聳えるその姿は、まるでそれだけが天空に浮いているかのようだ。夏季を迎えた山々は見渡す限り緑色に包まれ、生命力を横溢させている。その中で、白山は威厳ある存在感を、堂々と空高く繰り広げているのだ。そこには、時間の流れは感じない。あるのはただ、悠久という単位の時間ばかりである。白山は何千年もの間、その場所で変わらぬ威容を保ち続けて来たのであるし、これから先もまた、半永久にその姿を変えることなく屹立し続けることであろう。その中で、万物は変容し続ける。白山と見紛うばかりの、美しく巨大な雲の峯も、時間の経過とともにいつしか滅びる。野に咲き梢に満ちる花々も、いつしか花期を終え土に還る。雨が降り、風が吹き、夏は直射の日光に晒され、冬には深い雪に覆われる。そうするなかで、周辺の景色はその時々の変化に合わせて姿を変え、順応していくことだろう。ただ、周りがいかように景色を変化させようとも、白山ばかりは何事にも動じず、不変の山容を誇示し続けることであろう。生まれては消えてゆく雲の峯と対峙させることによって、白山に宿る不滅の生命を詠い上げた壮大な自然讃歌だ。


巣箱より覗くうすももいろの嘴  杉山久子

 作者の庭の巣箱には、毎年鳥が来て子育てをする。一体中はどのようになっているのか。何羽の雛が育ち、親鳥の献身の愛を授かっているのか。作者はいつでも、梯子を掛けて巣箱の中を覗いてみたいという気持ちがあった。しかしそれをすると、危険な場所と判断した親鳥が、来年からこの場所での子育てをやめてしまうかもしれない。あるいは、今いる雛の養育を放棄してしまうかもしれない。そうなっては鳥に対しても、また自分に対しても気の毒であるから、毎年覗いてみたいという欲望をぐっと噛み殺している。そして結局作者ができるのは、巣箱の掛かる木の下に立って、中の雛たちの鳴き声に耳を澄ますことくらいである。作者は、日に日に大きくなる雛たちの鳴き声を聞いて、安心したり応援したりする気持ちになっていた。その時である。巣箱に空いた丸い小さな穴の内側から、薄桃色をした小さな嘴が一瞬垣間見えた。今まで声だけでしか雛の様子を伺い知ることのできなかった作者にとって、その一瞬の出来事による安堵感はいかばかりであっただろうか。中の雛は、もう巣箱の穴に嘴の届くほどに大きくなっているのだ。そして両脚で立ち上がれるほどに健康なのだ。それならば、巣立ちももうすぐかもしれない。小鳥たちの巣立ちが間近に迫っていることを予感した作者は、この時言い知れぬ喜びと同時に、一抹の寂しさをも感じ始めていたのかもしれない。


「俳句界」二〇一四年六月号より。

翅の音蛍袋の奥にあり  柴田多鶴子

 蛍袋は、そっけない花である。梅雨に入る直前の曇りがちな季節に花期を迎え、それも日向よりも日陰になった場所に好んで生息する。淡いピンクを帯びた紫色の花弁を、まるで誰にも見せたくないように地面へ向けて俯いて咲かせる。花ならば必ず、蝶や蜂のような花粉を運ぶ媒介者が必要なはずで、普通ならば彼らを呼ぶために花はそれぞれ趣向を凝らした工夫をするものである。ところが蛍袋は、まるでそれと反対のことをしているようだ。目立たない場所に、目立たない色で、特段の香りも放たず、極めて短い期間しか花を咲かせない。厭世的な花なのであろうか。しかしそれらは実は全て、蛍袋の生きるための巧妙な仕掛けなのかもしれない。蝶や蜂は、鮮やかな色や誘惑的な香りに誘われて、より目立つ花の方へ集まって行く。他の花と同じ戦略をとることは、多くの媒介者を集めるのに有利な一方で、媒介者に巡り会えない危険性も高めてしまう。反面蛍袋は、釣鐘型の形状の花弁の中に潜ることのできる、特定の昆虫だけを媒介者として選ぶことによって、より確実に次の世代へ命を繋ぐことに成功しているのではないだろうか。暗い印象の蛍袋のもつ、煌めく知性を再発見させられた一句である。


雨蛙ホースの渦の中にをり  雨宮きぬよ

 使い終わった園芸用の青いホースが、ぐるぐると乱雑に巻かれて地面の上に放置してある。後で片付けようと思って出しっ放しにしておいたのだが、ずいぶん時間が経ってしまった。いい加減もとの場所にしまおうと、作者がホースの端に手を掛けた時である。思わぬ珍客のいることに気が付いた。それは、一匹の小さな雨蛙である。雨蛙は、ゆるく巻かれたホースの渦の中央近くに、両手を行儀よくホースの上について、喉の袋を小刻みに収縮させながら空を見上げていた。全身が水に濡れて輝いている。作者は思った。恐らく先程このホースで庭に水を撒いた際、この雨蛙は、それを空から降る雨と勘違いしたのだろう。そしていそいそと這い出して来ると、何やら濡れた青い渦巻き状のものが目に入った。雨蛙は、きっとそれを水溜りだと勘違いしたに違いない。実はそこがホースの上だとは知らず、すっかり水の中に入ったつもりの雨蛙は、雨が上がったと思うと途端に晴れてしまった空を見上げて、少々不思議がっていたのかもしれない。いずれにしても、雨蛙がどこかへ立ち去るまでは、ホースをそのままにしておかざるを得ない作者であった。

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