75パーセントのコーラ

@sylvin0333

『75パーセントのコーラ』

 永遠続くのかとすら感じられた講義が終わると、私と彼は二人して食堂に向かうことにした。意味はない。ただ次の講義までの空いた時間を潰すため、何となしに足を運ぼうとしただけであった。講義棟から外に出ると、茹だるような暑さに思わず顔を顰める。そういえば今日は、今年の最高気温をマークするとニュースで言っていたっけ。服の内側の肌に汗が浮くのを感じて、私は出す歩を少しだけ速めた。ここから食堂はそう遠くない。


 食堂に入り、入り口近くのテーブルに着く。先ず感じたのは、この空間の異常にも感じられる涼しさ。普通の業務用クーラーによるものであることは容易に想像がついた。しかし外とこの食堂の温度差は、私に不思議な感覚を覚えさせたのだった。

 肩に掛けていた鞄を下ろすと僅かではあるが身体の疲労が取れたような気がして、私はふと、正面の窓の奥に広がる外の世界を見やった。陽炎が煉瓦敷きの道の上でゆらゆらと燃えている。まるで火事のようだ、と私は思った。燃えているのは世界。そこではありとあらゆるものが熱射の炎に包まれていた。


「もう、すっかり夏だな」と彼は言った。

「ええ、すっかり夏ね」と私は言った。


 私は鞄からハンドタオルを取り出した。額に浮かんでいた汗を拭き取ろうとして、それが不要な事に気付いた。ここはそんなものが必要ないほどに冷え切っている。先程まで額に浮いていた汗も、もうその殆どが引いていた。手にしたハンドタオルを鞄に戻すと、私は正面に座る彼を見た。

 テーブルに片肘を突きその腕に頭を預けるようにして、空いているもう片方の手で退屈そうに携帯電話を操作している。着ている白いシャツのボタンは上から三つまで開けられ、その下の黒のタンクトップをのぞかせていた。

 

あまりにだらしない姿であった。


「夏バテ?」と私は尋ねた。

「そりゃあもう。夏バテバテよ。こう暑いと、何から何まで面倒くさくなる」

「確かに。こう暑いと、頭がどうにかなってしまいそう」


考えると、また汗が噴き出してくる感覚に見舞われた。こういう時はそう、冷たくて甘いものが欲しくなる。


「ねぇ、コーラでも飲まない?」私は彼を誘って言った。

彼は携帯電話から視線を外し私を見ると、顔をにんまりとさせた。「いいね。飲もう、コーラ」


 私と彼は席を立ち、食堂内に設置された赤い自動販売機の前に立った。

財布から幾枚かの小銭を取り出すと、その一枚一枚を小銭の投入口に突っ込んでいった。

購入ボタンが赤く点灯すると、迷いなくコーラのボタンを押した。

 ピッという音の後に、ごとんと何かが落ちる音。私はかがんで、取り出し口に手を差し入れた。中にあったペットボトルを手に掴んで取り出すと、それは間違いなくコーラであった。確認し、自販機から離れた私はキャップに手をかけて瞬間、少しばかりの力を入れてそれを開ける。しゅっという音がして、たまらなくなった私は、勢いよく飲み口を口に運んだ。しゅわしゅわとした炭酸が喉を駆け抜けていく。それは棘の形をした角砂糖を飲むような、そんなイメージ。

 二回、三回と喉を鳴らして飲んだ。喉が渇いている時に飲むコーラは、どんな官能的な行為よりも快楽に満ちている…気がする。

半分ほどを飲んで満足した私はコーラから口を離すと、振り返って後ろに佇む彼を見た。

彼は口元に手をやって、むむ、と自販機とにらめっこをしていた。


「あんた、何やってるのよ」と私は訊いた。

「何って、どっちのコーラを飲もうかって、悩んでいたのさ」と彼は答えた。


私は再び自販機を見た。自販機には多種多様な飲み物のサンプルが綺麗に陳列されている。その中で、赤と黒のこれでもかとばかりに自己を主張するものが一つ。ずばりコーラ。

そして。そして、その隣に黒色の、同じく目立つパッケージのサンプルが。


「ゼロコーラ?」

「そう、ゼロコーラ。嫌いって言う人多いけどさ、僕は結構好きなんだよね」

「ふーん。私はあまり好きじゃないわね」


私はカロリーゼロと銘打ったこのコーラがあまり好きではなかった。普通のコーラに比べて味が劣るというのもあるが、何よりその商品としての在り方が嫌いだった。

コーラなのにゼロカロリー。何それ。コーラは砂糖だらけだから美味しいんじゃない。コーラを飲む時にカロリーなんてものを気にする人間は、そもそもコーラを飲むべきじゃないんだわ―――


私はゼロカロリーに対してこうした考えを持っていた。


「勿体ないな。これはこれでイケるんだけどね」彼はそう言うとゼロカロリーのコーラではなく、普通のコーラのボタンを押した。


「何よ、結局普通のじゃない」

「僕はどちらのコーラも好きなんだ。さっきのはどっちを飲むかを考えていただけ。でも、君がコーラを手にしている姿を見ていたら、やっぱり今日はこっちかなって」

彼は取り出したコーラを見つめて言った。


「ふーん。あっそ」

私が座っていたテーブルに戻ろうとすると、彼は右手の親指と人差し指でペットボトルのキャップを摘んでひらひらとさせて言った。

「あ、ちょっと待って。どうせなら、外で飲もうよ」

「外って、この信じられないぐらい暑い外のこと?」

「そう、その外」

「信じられない。今入ってきたばかりなのに、どうして外に出なきゃならないのよ」私は彼を糾弾した。何を好き好んで、あのような場所にまた戻らねばならぬのか。

「いやさ、せっかくコーラを買ったから。コーラって暑いところで飲むと、より美味しさが増すような気がしない?」

「しないわね。冷たいコーラは冷たいままいただく。それが道理ってものでしょう。暑い場所にコーラを晒して冷気を奪って、あえて味を落とすようなことはしたくないわ」

「君が否定するそれが、僕は一番おいしい飲み方だと思うんだけどな。外で飲むと、時間が経つにつれて勿論味は落ちるんだけど、自販機から出たばかりの冷えた状態なら最高に美味しいんだ。なんて言うのかな……。そう、例えば運動をして汗をかいた後に飲むポカリスウェットがものすごく美味しいように、だ。それはもう、何物にも代えがたい程に美味しいんだ」コーラを飲むときのことを想像してか、彼は少しうっとりとした表情をしていた。


私は彼の様子を見て、そのあまりのコーラ好きっぷりに少し呆れたが、コーラ好きの彼をして最高と言わしめるそれはどんな味だろうかと多少の興味を抱いた。


私は少し考えた後、彼に言った。


「しょうがないわね。それだけ言うなら、付き合ってあげるわよ」

「本当かい? いや、嬉しいな。同じくコーラを愛するものとして、こんなに嬉しいことはないよ」

そう言う彼は本当に嬉しそうにして、満面の笑みをこちらに向けた。

「……何よ同志って。そんなものになった覚えはないんだけど」

私は彼を置き去りにして、早足に食堂の出入り口に向かった。

「悲しいこと言うな。僕と君はコーラで結びついたソウルメイト。言うならばコーラメイトさ」

「言ってて馬鹿らしくならない? コーラメイトだなんて。もし美味しくなかったら、ただじゃおかないから」

急ぎ足で私に追いついた彼を背後に感じながら言うと、オートドアをくぐって外に出た。外は相変わらずで、灼熱が支配する熱砂の世界であった。分かっていたことだが、少し憂鬱になる。こんなことで、どうしてコーラが美味しくなろうか。


 私と彼は食堂の近くに植えられた大木の日陰に腰を下ろして、お互いにコーラを手に取った。ペットボトルの真ん中ほどの位置で、黒々とした液体が揺れている。キャップを外すと先程よりも少し弱いが、確かにしゅっと音が鳴った。私はペットボトルを傾ける。炭酸が抜けてしまったのか、特有の強い刺激は明らかに勢いを無くしていた。ほんのりシナモンとシトラスの風味がする、ただの砂糖水。


「ハッキリ言うわね。全然、美味しくないわ」

私は隣にいる彼にそう言った。

「そうか、君のコーラはもう開けちゃってたんだっけ。駄目だよ開けちゃったら。それじゃあ美味しさも半分、いや、それ以下だ」

「はあ? あんた、良い度胸してるじゃない」

私は額に青筋が浮かぶのを感じた。体が熱い。それは外の暑さとは別種の何かで、恐らく、怒りからくるものであるのだということは想像に容易かった。

「いや、ごめんごめん。うっかり忘れていただけなんだって。コーラ奢るから、それで許して。ね、この通り!」

彼は両手を合わせ、私に頭を下げた。次第に掌を擦り出す。神様仏様コーラメイト様、と言わんばかりの様相……。

「ちょっと、止めてよ。……もういいわ、今日はもう飲んじゃったし、今度ちゃんと奢るのよ」

「流石、君は話が分かるよね。僕は君のそういうところが好きだ」彼はさらっと、そんなことを口にした。

「……好きとか、気持ち悪いこと言うの止めてよね。ほんと、最悪」

私は彼から顔を背け、コーラが入っていたペットボトルを握りしめる。みし、という音が鈍く響いた。


「ところであんた。それ、何やってるのよ?」

私は彼の足元のコーラを指さした。それはキャップが少しだけ開かれていた。

これでは―――

「ああ、これ? いや、炭酸を抜いてるのさ」彼はそう答えた。

「そんなの、見れば分かるわよ。そうじゃなくて、何を思って炭酸を抜いているのかを聞いているのよ」語調を強くして私は言った。

こんなことをしては、コーラの美味しさが損なわれてしまう。あまりに邪道な行為だった。

「やっぱり怒ったか……。これを言うと君は更に怒るかもしれないけど、実は僕、少し炭酸が抜けたコーラが好きなんだ。勿論そのまま飲むのも好きだけど、僕が思うに、コーラが一番おいしくなるのは炭酸量が通常のコーラの四分の三程度の時。つまり炭酸の量が75パーセントぐらいの状態がベストなんじゃないかって」

「75パーセント? よく分からないわね。コーラって飲み物は、あの喉を通る刺激が魅力なんじゃない。それを弱くして、何がベストなのよ」

私は再び、コーラが喉を取っていく感覚を思い起こした。あの刺激は、他の飲み物ではなかなか得られない。

「君の言うことも分かるよ。あの刺激は暴力的だけど、それ故に魅力に満ちている。だけどさ、そうした刺激だけを求めるのなら、それは別の飲み物でも替えはあると思わないかい? 例えばサイダーとか。あれだって、喉に与える刺激は中々のものだ」彼は私を見ずに、足元のコーラを見たまま言った。

想像する。サイダーを飲んでいる私。彼の言う通り、刺激だけならコーラもサイダーもそう変わらない。確かに彼の言う通りだ。


―――あれ。どうして私は、コーラが好きなんだっけ


浮かんだ疑問について考える。何故、どうして、私はコーラが好きなのか。

コーラを飲む私。コーラを飲んできた私。そして、


―――ああ、思い出した。だから私は、コーラが好きになったんだっけ


どちらも括りは炭酸飲料。大きい視点で見ると、その二つには、大した違いが無いように思える。

だけどしかし、その両者には大きすぎる違いが確かに存在するのだ。


「……確かにそれはそうだけど、コーラはその強烈な炭酸と、シナモンの風味があってこそよ。それだけじゃない、シトラスオイルやバニラだって欠かせないわ。私は別に、刺激だけを求めているんじゃないわ。コーラに含まれる全ての要素が織り成すコンビネーションが最高だと認識しているからこそ、コーラを飲んでいるのよ」

早口になりながらも、私は言葉を口にする。怒りとは違う何かが、今度は私を火照させていた。

「うん、らしい答えだ。君がそこまでコーラを愛してくれている事実が僕はとてもうれしいよ」彼は満足げに頷きながら言った。

「別に、コーラが好きな訳じゃないし」彼に聞こえないように、私は小声でそう言った。

「え、何か言った?」

「いや、何でもない。それより、もういいんじゃない? それ」私は目線でコーラを指した。

「あ、そうだね。もういい頃合いさ」ペットボトルを手に取りキャップを完全に外すと、彼は腰に手を当ててそれを流し込んだ。

波打ちながら勢いよく流れていくコーラと彼の喉とが上下に動くのを、ただ私は見つめていた。

やがてペットボトルの中身を完全に空にすると、彼は口を伝って零れていったコーラの軌跡を手で拭い去った。

その一連の動作が、私には妙に爽やかに映った。そしてそれは見るものに、コーラという飲み物の美味しさを伝えうる姿であった。

「いやあ、やっぱりコーラは最高だね。この状態だと咽ないしさ。全てのバランスが完璧で、そのどれもが最高の状態で引き立っているよ」彼は満面の笑みでそう言った。

「あ、そう。どうでもいいけど、その飲み方、最高に下品に見えるからやめた方がいいわ」私は少しぶっきらぼうに言った。

「あ、あれ? もしかしてまだ怒ってる? やっぱりコーラ欲しいんだ。買ってくるよ」

「違うわよ馬鹿。もういいから。さ、授業行くわよ」私は立ちがった。腕時計で確認すると、時間はすでに講義目前。

次の講義は受講する学生が多いので、少し急がないと二人で座れる席が取れないかもしれない。

「本当だ。もうこんな時間か。君と話していると、時間が経つのが早いね」

「はいはい。ほら、急ぐわよ」私は彼が立ち上がるのを待たずに講義棟に向かって歩き出した。

「え、ちょっと待ってよ」彼は空になったペットボトルを近くのごみ箱に捨て、慌てた様子で私を追いかけてくる。

それが堪らなく、嬉しかった。


 思い返せば、単純なこと。コーラが好きなんじゃない。コーラを好きなあなたが好きで、見よう見まねで飲んでいただけ。コーラを飲んでいる時、あなたはいつも私の隣にいた。それが堪らなく嬉しくて、ただそれだけだったのだ―――


 背中越しに彼の声が聞こえる。おーい!だとか。聞いてる?だとか。こちらの機嫌を伺うような、少しだけ困ったようなその声色。

それがとても愛おしくて、私は自分が自然と笑顔になるのを感じた。

彼が私に追いついて、私の隣を歩く。私は両目を瞑って、少し怒ったような表情を作る。

瞼を薄く開いて彼の方を伺うと、彼は頭を抱えて、「ああ、怒らせちゃった」なんて呟いている。

それは間違い。だって私は、こんなにも幸せを感じている。こんな些細なことで、私はどうしようもなく幸せな気持ちになれるのだ。

だけどそれが彼のおかげだなんて、絶対に教えてあげない。


いつかは正直に、自分の気持ちを伝えなきゃならないだろうけど―――

今しばらくは、この幸せは私だけのものにしておきたいのだ―――


二人の間を風が凪いだ。熱を孕んだそれは、いつもは不快感を与えるだけのものでしかない。


けれどもその暑さが今は、とても心地良かった。

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