彼女は国境を超えた。
見上げるほどの柵が連なり、監視塔だけが点々とある国境。美しい街が違う国として続いていく境に一閃存在する人間の傲慢な線引き。そして私はその柵を超えた者を警告無しに射殺するべく、今日もこの国境に立っている。柵こそ低いものの、態勢は厳戒を極めている。何枚もの宣誓書にサインを書かされたが、暗記を命じられたのは、
一、人間が国境を越えた時、これを射殺せよ。
二、防衛線ではなく監視線である。発砲は恒久的に許可されるが、組織的な交戦は絶対に禁ずる。
三、違反者は国家反逆罪に処す。
この三項。そして三項目の国家反逆罪、これが曲者で、勤務に気が抜けない。まず違反する、というのが曖昧だ。入国者を見過ごすのは当たり前として、撃った弾が当たらなかったら違反なのだろうか。国家反逆罪は懲役35年から極刑まで処される最高の刑罰だ。言われながらにサインをしたけど、こんなもの実質犯罪者に片足を突っ込んでいるといっても過言ではない。
「お勤めご苦労様。今日も暑いのに大変ね」
柵越しにいつもの女性が声をかけてきた。
「ごきげんよう婦人。目当ての果物は買えましたかな」
「ええ」
婦人などといったが、この暑さの中、丁寧に着込んだ装束はどちらかといえば上流階級の嬢様といった具合だ。純白のレースをあしらった帽子が風に揺れる。国境前の青果店を気に入っているようで、しばしば買い物がてら、声をかけられる。暇な職業柄ありがたいことだ。あの日彼女のバスケットから転がり、私の下に転がってきたオレンジには一度礼を言いたい。
「K国との情勢はいかがかな」
「諜報ですか、いけませんことよ」
「ああ、いや。会話下手なもので失敬。他意はありませぬ。いかんせん教養が足りぬ故」
こんこん、と彼女は笑った。上品で汚れない、綺麗なものだった。
「あまりよろしくなくてよ。我が国もこう仮想敵が多くてはいつ転覆するのやら」
「左様ですか。まぁ、その、我が国ならいつでもーー」
「ささやかな愛国心も無い女に見えますか?」
「ああ、いやそんな風に言ったつもりはないのです」
「くす、貴方が国の軍人はよほど心理戦が下手と見ましたわ」
「……軍事力だけの国です、ご婦人」
柵越しのなんともない、まったく他愛もない会話だが、軍系の家庭に生まれ、浪漫の一つもない20数年だったからか、なんとも心地が良い。
「それでは、私はこれで失礼します」
彼女はその場を後にした。と、同時に身を引き締めた。
*
『戦果日報第一。戦艦アルマ大破、同ケイネン中破……』
今日も今日とて何事もなく勤務が終わり、夜になった。風呂上がりにラジオを捻り、寝酒を仰いでいたところだった。戦果日報が華々しい戦績を挙げた後だ。
『K国による宣戦が布告された。各省庁における副以上官は重ねて本営に集合されたし。繰り返す、K国に……』
どこに、とは言っていないがK国が隣接しているのは俺がいつも見ているかの国だけだ。見据えるはおそらく我が国としても、侵攻するなら、そうだろう。他人事でない。ましてや。男の感情はざわついた。しかし軍系の家庭にあり、長く軍人であったからには無力さに打ちひしがれる、だとか、寝支度が妨げられる、なんてこともなかった。何をしても無駄なのだ。結局、この世は創作の世界ではない。現実から目を背けてはいけないのが軍人である。たとえあのご婦人のいる国がどうなろうと、知ったことでは無い。否、どうすることも出来ない。ラジオを切り、メガネを置いた。
「悲しいかな、いつの世も戦争よ」
何を軍人が、と自嘲する気には流石になれなかった。
*
男は今日も柵の前にたっていた。快晴の下、少ない露店が並ぶ手前、いつも通り。ただ、今日に関しては遥か後方ながら、戦車隊が控えていることだけが例外だった。こうなってはもう自分がいるまでもないのでは、とささやかな、組織ゆえの矛盾を感じる。ああ、どうか願わくば無事で。達観しながらも男はライフルを両手に、凛と立ちながらも、祈っていた。祈る他、ないのだから。午前では遠かった爆音が今やハッキリと聞こえている。人一人いない露店街――いやもう露店がないのだから、もはやただの街か――が静かなだけ、余計に。
時間は早く流れた。朝から午前、昼から午後。勤めて一年は悠久に感じたのに、一閃だ。ましてや、こんな状況なのに。日は沈もうとしている。音は昼よりさらに大きい。すぐそこか、もしくはかなり近い。薄暗くなり始めたときだ。石畳の敷かれた道から悲鳴と共にたくさんの人がやってきた。すぐ後には爆音と戦車の地鳴りが聞こえる。こうなれば、もう戦争状態は目前だ。
「こちらポイントL2。K国による侵攻部隊近し、送れ」
『侵攻部隊近しの旨、了解した。戦車部隊の配備を進める。締め』
『国境部隊本営より各兵に連絡。K軍の侵攻に備え規定のポイントまで後退せよ。繰り返す……』
朝言われていた通り柵から二軒目になる民家の二階へと向かう。機関銃と榴弾筒の携行までもが許され、重ねて一項を守れと言われた。つまり、K国の戦車から逃げ惑うかの国の民を、皆殺しにしろということ。この持たされた圧倒的な物量の重火器で、だ。戦車の音は後退するかの国のものであった。操舵を間違え建物に突入、あるいは砲撃で爆散し、次々に無力化されていく。人々は柵に到達するや否や助けを乞いた。K国は捕虜を取らない。ましてや、文民の捕虜など。かの国の民も分かっているようで、我が国の厳格な体制を理解してないわけでもない、そのはずなのに、藁にもすがる思いといった、そんな形相で助けを求めている。
次第に網目の大きい柵につま先をかける者が出てきた。のぼり詰め、降り立つ。我が国の領土へ、不法に、不届きに。
一、人間が国境を超えた時、これを射殺せよ。
男は二階の窓から照準器で男を追っていた。足をかけたその時から時間にして数秒後、引き金を引く。放たれた弾丸は着地時に前かがみになっていた男の顔に着弾した。反動で仰け反り、生物らしからぬ挙動を描きながら、柵に打ち付けられた。息絶えた男の顔は大口径の弾丸の衝撃に無惨に拉げ、鮮血をとめどなく流している。男は冷静にコッキングレバーを引き、次の目標に備えた。人を撃ったのも、殺したのも、銃を実践で使ったのも、すべて始めてであった。
そして、一人また一人と乗り越えた者が各所からの銃撃に息絶えていく。だが人は乗り越えることをやめない。むしろ、どちら側も人、もとい人だったものが重なって柵を挟み、それはさながらスロープの状態で、勢いが増していく。もうすがるしか、彼らには無いのだろう。ライフルでは足りない。男は機関銃に切り替えた。他の隊員もそう判断したのか、銃声はさらに連続的なものになった。
照準器に見慣れた女性が映った。あの婦人だった。彼女は国境を超えた。男は射撃を辞め、深く息を吸い、射撃態勢になりながらも、引き金は引かない。少しの硬直が解けると同時に男は銃を下し、座り込んだ。男は苦悩した。射撃と悲鳴はまだ止まない。生きていてくれ。どうか、弾よ彼女を避けてくれ。銃を支えに縮こまり咽び泣いた。
俺は軍人だ。軍人は国のために、文民のために、戦わなければならない、そんな時が来る。親父も、上官も言っていた。そんな時が来る、と。でもこれは戦いじゃない。殺戮だ。非情とも言える殺戮。俺は、行うことすべて、軍人だからということにおさめていた。だが軍人という前に、俺は人だ。そうだろう。
人であるために、人らしくあるために男は立ち上がり、階段を駆け下りた。民家を出ると、すれ違う人が思いの外いることに気づく。どうか、この中にいないかと裏路地を走り回る。大通りを通ればまず狙われるから、路地を通るだろう。酒場の裏、ごみ捨て場に婦人はうずくまり、嗚咽を混じった鳴き声を静かにあげていた。血痕が点々とついた純白のドレスに身を包んでいる。男に気づいた婦人は手を挙げ、命乞いをした。所有するあらゆるものをあなたにあげると、どうか助けてくれ、と。
「婦人、私です。オレンジを拾った、あの軍人です。どうか安心して、私は貴女を殺しはしない。だから立って、逃げるのです。どこか遠くへ」
婦人は泣き腫らしていた顔でまた、泣いた。安堵からくるものだった。この混沌で、この人に会えてよかった、と。
「さぁ、早く」
二人は走った。勝算、つまり彼女を逃がす手筈など、無い。あわよくば全部隊が任務にだけ集中していて、あわよくば誰の目にも止まらず、あわよくば。
「おい、任務に戻れ上等兵。その女は誰だ」
低い声が、背後から聞こえた。振り返ると、今朝武器を自分に渡した伍長が機関銃を片手に立っていた。
「逃げ送れた民間人です。ですからーー」
「違うな。逃げおおせた亡命者だ、上等兵」
民間人が、ドレスなど着てるわけないのだ。咄嗟にして、酷い言い分だ。
「……これが任務ですか」
「ん?」
「この地獄を作るのが、我々の、すべきことですか」
「そうだ。お前がその女に惚れていようが、いまいが、一切を殺す。それが任務だ」
「人の、することですか」
「我々がしなければならないことだ、上等兵。しなければならないことは、しなければならないのが軍人だ。だがもしそれをしないのなら、それは国家への反逆になる。そしてその反逆罪の法執行は伍長以上は現場にて独断で執り行える」
伍長は機関銃を構えた。人としての行いはした。当然婦人も俺もここで死ぬ。無念だ。男は諦めていた。苦し紛れの説得も、上官は耳を貸してはくれない。目を閉じる中で、ドレスが見えた。冷静に見れば滑らかな生地に素晴らしい出来だ。教養の無い自分でさえわかる仕事の良さだった。
「伍長」
「なんだ」
「彼女は戦術的に、生かす価値があります」
「ほう、その御託を言え」
軍系一家だけあって、コネがあったので御託を言わせてくれるくらいには気に入られていたのが功を奏した。身に着けていたものはもとより、彼女は名家の娘で、その家は資産も名前も大きなものであったということが、本人の口から、真偽はともかく、告げられた。途端に伍長の顔の色は変わり、銃口は地面を向いた。無論、それでも彼女は殺さなくてはならない。名家の人間でも、かの国での話であまり関係がない。むしろかの国はもう侵略されるだろう。そして何より国境を超えたのだから。
しかしながら、彼女が身につけていたドレスは生地となって伍長の懐に収まり、銃口は依然として地面に向いていて、仁王立ちにより塞がっていた道は開けた。
「ではこれにて、伍長。彼女は国境を超えた。それだけですね?」
「ああ、それだけだ」
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