言葉も草臥れて、

三十日 駿

おふはれ

  選択とは常に人生において重要なもので、また、その間違えた方の選択は残酷な結果が存在する。誰よりもそれはわかっていた。雑居ビルの屋上、男はベンチに座っていた。治安の悪いこの地区では、ベンチさえも汚れ、埃と糞尿の混ざる匂いが薄く町を包んでいる。煙草に火をつけるが、虚無感は拭えなかった。選択、それは重要度の大小なんてものは関係なく、小さな選択をしていても、いつかは大きな選択を迫られることになるものだ。


「まあ、俺はその大きいほうで間違っちまったんだろうなあ。」誰もいないのはもちろん、何も無い今、恥ずこともないと大声で独り言を一つ呟いた。煙をふかすために煙草を挟んだ指先が微かに震え、ついに落としかける。煙草を挟む指にさえ力が入らない虚脱感――惨めだ。だが、その気になればやけくそに、逆に何でも出来そうだ。刑事らしくないことに限る、が。

 日が落ちてきた。夜勤との交代がそろそろという頃だが、まあ手続きも簡単なものだし、家にはどうせ誰も居ない、居なくなった。この俺に似た、情けない雑居ビルの、薄汚れたベンチに座っていよう。あわよくば、ずっと。

風向きがタバコから顔の方へと変わり、咳き込む。微かな頭痛の後、「タバコやめなよ」、なんて、一時は本当に鬱陶しくもなった声が、脳からじわりと耳に向かった。またそれ言う、なんて返す。子供できるまではやめる気ないよ、なんてのも言ったっけかな。そしたらあいつは恥ずかしげも無く、「貴方とずっといたいんだもん」なんて返してた。その瞬間じんわり広がった、柔らかな感情はあまりに愛に満ちていた。


 刑事なんてのは、なんてアホらしい仕事なんだろうな、って思っていたんだ。最初は。親父は仕事仕事、事件事件で俺やお袋のことより、顔も知らない犯人のほうがよっぽど大事なようで、家族で過ごす休日に憧れた日すらあった。でもそれと同じくらいそんな正義感溢れる親父も好いていた。餓鬼なりにジレンマ抱えて、結局考えることをやめたのを覚えている。だけど、お袋の方はある日耐えかねたのか、親父をひっぱたいたんだ。真犯人と、私たちとどっちが、なんてありきたりなこと言いながらね。俺は昔からなんでもつまらんと面白いの間で見るのが得意だったんで、親父のデスクの横に、漢字も読めないのによく居座ってた。まぁだから分かったんだけど、親父は犯人を優先すると思ってた。ざっとしか覚えてないけど、そのときの事件は新聞の一面を飾ってて、しかもいつにもまして親父の捜査は順調に見えたんだ。

 

 意味分からないよな、何度考えても。だって家族にもっと裕福な暮らしさせてやりたくて、幸せにさせたくて、仕事がんばってんのに、どっちが大事なんて言われんだよ? 親父からすれば、両方家族に内包してるよ。どっち、とかないよ。もちろんそんなこと、立場を知らない当時のお袋と俺は分からないんだけどね。酷いことしたなと思うけど、親父はそこで選択を誤らなかった。俺らを取ったんだ。当然地方の交番勤めになっちゃって、欲しい物は買えなくなった。でも残業は基本的に無いし、事件がどうとかで振り回されることも無い。そこからはもう円満も円満。今でも仲良く暮らしてる。


 でも確かに感じたのは、親父のやるせなさだった。その時親父が諦めた犯人の時効が、高校を卒業したあたりで成立しちまった。名を変え、手段を変え犯行に及んでる。そう思うと、あの時刑事を辞めたのを少しだけ後悔するよ、なんて、とうに漢字の分かるようになった俺に漏らしていた。


 可哀相なくらい誠実だったんだ。親父は。俺は家族と、凶悪犯の逮捕、どっちかにしろ、なんてことを強いるのが許せなかった。それは誰を、って訳じゃなくてこの国の犯罪者の実態だとか、刑事の少なさだとか、そういう漠然としたもの。ただ一つ、ハッキリとしていたのは、俺が刑事になれば、それもとびきり有能なのになれば、親父みたいな奴は減るんだろうってこと。いや、自己犠牲なんて気持ちは毛頭無い。というのも腕の立つ刑事の息子だし、刑事自体にも興味あるし、それなりに勉強なりなんなり、頑張ってきたつもりだからね。まぁ幸い、刑事自体はやる気さえあればなれたから、あとは職人上等、実績だけで駆け上がった。何個か難しい事件の解決もして、結構いいとこまで行ったんだ。同棲してたあいつとも良い暮らししてたと思う。今では、自信がないけど。


 親父の選択の苦しさを身近で体験してたから、事前に話しておいたんだ。そしたら「誠実な貴方が好き」なんてまた、くさいことをすぐ言われた。そこからはもう実力も実績も重ねるだけ重ねて。人生の最高潮だった。親父の後を追うように、慎重に選択を間違えず、完璧な道を歩んできた。けどそこまでくると臭いところも視界に入るようになってきた。いきなり違う事件に担当移されたり、汚くて分厚い封筒の行き来だとかね。

目もくれなかったね。それは正義感とかじゃなくて、アイデンティティが喪失するから。誠実な親父が好きで、その親父がやってた刑事目指して、頑張ってなったのに誠実さが失われるなら、無職のがまだ幾分かマシだ。実際、大業なこったと思うかもしれないけど、本当に手を黒く染めるならやる気がそがれるくらい、刑事ってのは「そういうもの」って意識があった。

といっても、本当に臭いのがきたのはつい三日前。俺が半年追っていた、武器商人を諦めろとのことだった。そいつはマークされそうになると、稼いだ分を警察に渡して国から国へ行く姑息な奴なんだが、とうとううちに来たということで、空港でひっとらえるつもりだった。この国の警察は決して腐りきっちゃいない。少なくとも俺の周りはな。賄賂なんか渡して見過ごさねぇから、ってな具合に。


 今から二十……三時間前、か。そんなことはなかった、って思い知らされるんだよ。空港で奴を見つけてこう、銃を向けて言ったんだ。止まれってな。でもいつもその台詞を言う時に見える、相棒の銃が横には見えなかった。むしろそのクソッタレの方から俺に向けてたんだよ。


「こいつを見逃せば三百は入るんだ、見逃そう」


 その三百より価値のある人命が、こいつのばら撒く武器で失われるんだぞ。ひたすら冷静に、冷静にただ、そう返した。だけどもう、あの封筒好きな役所の奴らと同じ目をしていた相棒は、俺の声にまともな反応は示さなかった。こいつだけは、と信じてた奴が、こいつだけはどれほど見返りがあっても許さない、という奴の盾になって、銃を向けてくる。ひどく参ったが、その時も俺は選択について考えていた。余裕があった。と、いうのもお互い撃てないからね。小さな選択じゃないか、って悟ったとき相棒と犯人の二つの死体が無残に転がった。狙いは我ながら正確だった。眉間と、逃げ様に見せた糞野郎のこめかみに一発ずつ。天秤に、親父とあいつの好きな公正と、相棒と賄賂、掲げた方を切り捨てただけだ。小さな小さな、選択。狼藉を働かれ、怒声を浴びせられた。そりゃそうだ、仲間と賄賂と、犯人まで殺したんだから、良い思いする奴なんて一人もいない。栄光も実績もチャラ。でもあのまま賄賂を受け取るよりかは、はるかに良かった。


しばらくして帰宅。誇らしげにあいつに語ろう、正義を全うした、俺の銃弾と信念を。なんて留置所で考えていたのに、久々会って一番に「なんで殺したの?」と吐かれた。訳が分からなかったから、は? って言葉が出た。俺は正しいことをしただろ? とも。暗いリビングには荷物があって、俺の質問にも答えず、黙々とその荷物を肩に掛けた。当の俺は放心して、唖然とその様子を馬鹿みたいに突っ立って見てた。「行くね」といわれて、ことの現実味が増して、全身の血が凝固した感覚を覚えた。なんで? そう聞くとあいつはすれ違い様に、「三百もあれば、ずっと貴方と一緒にいられた」とだけ、恥ずかしげも無く言った。そこからはもう、なんもなし。親父は正しい方を選んだのに、俺は間違えた。公正を選んだのに、公正は何も俺に何もくれやしなかった。


男はおもむろに最後のタバコの火を消し、ベンチから立ち上がった。ビル風はその男の新たな選択を祝福するようにベンチから柵の方へ吹き抜ける。

ホルスターから引き抜いた拳銃の銃口から、確かな死の空気が喉への流れ込んできた。


 俺にはもう何も残っちゃいない。唯一つ守りたかったもののため、選んだ選択で、皮肉にもそれ自身を失っちまった。親父みたいに、正しい選択を選べたら――次こそは、まぁ。


「おふはれ」


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