サブエピソード
ガレット・デ・ロワ
背後から犯す。そのようにしていると錯覚する。閉じた脚の間にねじ込んで、自分自身の『良い』ところを捏ねる。犯している。侵している。ずっとこうしたかったのだ、という気持ちと、こんなことがしたかったわけではない、という思いが綯い交ぜになって胸を満たす。ぐちぐちと捏ねられる『からだ』は痺れを呼びこみ、理性は脱力して用をなさない。痺れは腰から腹へと広がり、肩を這い回って急速に伸びゆくそれはとうとう喉を飲み込んだ。快楽は高ぶる神経を震わせ、じきにてっぺんまで到達する。目がちかちかした。酩酊感はすでに額まできている。次第に形をなくす思考の中でただひとつはっきりと、許されることではない、と思った。
薬理作用の類いだろう、とFは言った。薬効が抜けるまで看護をすると言ってくれた。それなのに今、押さえつけて身体を重ねている。鼓動は早鐘のように打ち、耳のあたりの膨れている感じが収まらない。とにかく掴んだこの身体を貪りたかった。だめだと思っても、情欲にとろけた理性では止められない。今にも涎が垂れそうだというのに我慢しているのはただ一つ残った矜持のためで、しかしそれももはや何の機能もしておらず、ただ境界の先の快楽を煽り立てるばかりだ。身体が燃えるように熱い。取り去るのがあんなに恥と思えた着衣の感覚も煩わしく、そのことが奇妙な感慨をもたらす。
だめだ、と思う。いけない、と思う。一線に触れれば、ラインに達してしまえば、何かが壊れる気がした。しかし自涜は止まらない。眼前に晒されることもなかったはずの腿には存外張りがある。そのことがこんなにも脳を痺れさせる。挟まれて捏ねられるのがこんなに『良い』とは想像もしなかった。しなかったか? 本当に、一度たりとも? 考えようとしても、茹だった脳ではわからない。わかることは少ない。皮膚の表面が冷えていることも、それなのに肉が熱を持っているように感じることも、全て一瞬遅れで気が付くほどだ。今からでも体を引いて、離れなければ、と思った。思っただけだった。ぬちぬちと湿る感触は『その先』の準備に入りつつある事を示していた。寒気さえ感じる肉体は、それを今か今かと待ち構えている。
「ぐ」
矜持に欲求が勝ってしまった。それからは一瞬だった。箍が外れ、硬くなっていた肉の部品は湿った肌へ、言い逃れの余地なき狼藉の証拠を残した。中を通る流体の質感まで分かるようだった。やや硬いペースト状のそれが、狭い管を押し開いては吐き出されていく。熱っぽい頭のまま、やってしまった、と思った。なぜこうなってしまったのか。こんなことがしたかったわけでは無かったのに。
◆
時は遡って昼過ぎ。Phは出掛けていて居らず、Fのもとにはキャンディが午後の楽しみのための焼き菓子を持ってきていた。いつもの席、変わりのない顔ぶれ。一つ違うのは、シールされた紙箱のロゴが彼女のものではなかったということだけだ。
「今日のケーキは頂き物なの。一人じゃとても食べきれなくって」
そういってキャンディは箱を開け、ケーキにナイフを入れる。さくさくと慣れた手つきで粉糖の掛かった丸太のような焼き菓子は端から輪切りにされていく。上に刺さった飾りの紙を除き、キャンディは慣れた手つきで取り皿へと盛り付けた。差し出された皿を受け取り、Fは礼を言う。キャンディはどういたしましてと応え、自分の分を盛った。人数分の皿がテーブルに並ぶ。Fは暗い色の目を眇め、ランダムなテキスタイルデザインめいた焼き菓子の断面を眺める。
「胡桃が入ってるのは珍しいね。街の方の流行りなのかな」
「そうみたい。視察ついでにあれこれ試したことはあるけど、このお店のは初めて食べるの」
イタダキマス、と言って手を合わせる。切り分けた重いスポンジを口に運び、二人は頷きあった。
「造りが重たいのにしっとりしてる、生菓子みたいね。木の実は今まで扱っていなかったけど……こういうの、うちの工場でも作ってみようかしら」
「いいんじゃないかな。この味はたしかに流行るのも頷ける」
Fとキャンディの間にはこのような会話があった。小麦と卵の伝統的な風合いを持つ焼き菓子についてキャンディが見解を述べているとき、ちょうどPhが戻ってきた。このときも何らおかしな事はなかった。
「F、今帰った。ああ、キャンディ、来ていたんだな。変わりはないか?」
「ええ、私は見ての通りとっても元気。あとは、そうね、工場の方も良好っていって差し支えないわ。そうだ、Phさん、これから時間はあるかしら。今日のケーキは頂き物なの、良かったら」
「おいしいよ。予定が許すなら、君も食べると良い」
FはPhを手招き、席に着くよう促した。Phは椅子を引いて、キャンディに許可を求めた。
「いいのか?」
「ええ、もちろん」
皿と茶碗がサーブされ、Phは礼を言ってケーキに手をつける。流行り物なのだとキャンディは言う。胡桃の入った油分の多いチョコレートケーキは、なるほどたしかにキャンディの得意とする淡く軽いクリームケーキとは性質が違う。ねっとりとして歯ごたえがあり、重い。粘度の高い生地の中に大粒の木の実が混ぜ込まれ、食感に変化を付けている。
「なるほど、練りの強い頑強なケーキだ。どっしりしているが、それでいて硬すぎない」
「そうなの、お口に合うかしら?」
普段手土産として持ってくる規格品のクリームケーキとは違う、一点ものの焼き菓子が卓に並ぶのが珍しいのだろう。キャンディの青い目は期待に満ちてきらめいている。
「ああ。バターを潤沢に使った、特別な日のための品とみえる。普段から食べるのには向かないだろうが、たまにはこういうのも悪くないな」
「あら、嬉しい」
キャンディははにかんだように笑った。
二つ目のきれを片付けて、Fは箱を見やった。トレーの上には残りのケーキが未だどんと乗っている。
「三人がかりでもなかなか減っていかないね、食べきれるかな」
「密度が高いとやっぱりそうなるのよね。私一人では余らせてしまっていたでしょうから助かったわ。このケーキね、分量が多いっていうのはお店側も承知の上らしくて、後からかける風味づけのソースがセットになってるの。この後乗せのトッピングっていうのも今の流行りみたい」
小さなボトルをつまみ上げて、これは個別対応になっちゃうからうちではできないわね、とキャンディは続ける。スクリューの赤いフタを開ければ、琥珀色のシロップからは酒精が香った。キャンディは残ったケーキにへ回し掛け、新たなピースを各々の皿へ移した。Phはサーブするキャンディを邪魔しないようにポットの紅茶を注いで回った。
「ありがとう。……ああなるほど、よくできている」
「これは…… なかなかどうして考えるものね」
一口食べ、二人は合点がいったというように頷いている。Phは崩したケーキにソースを絡め、フォークで掬って口へ運ぶ。度数の高いアルコールと糖蜜は崩れた生地を潤す。癖の強い甘みの、いっそ覆い隠すような味付けに少し違和感を覚え、なるほど記念日に合わせて長い期間に食べ続ける、シュトレンのような用途で作られたものなのかもしれない、とPhは考える。
それにしても。舌を潤す油分にPhは首をひねる。仮説が正しいとすれば、酸化の早い胡桃を使う意義がわからない。悪くなる前に食べきるか、悪くなりかけたのを誤魔化してさっと食べてしまうための措置であるのか。あるいはこれはバリエーションの一つであって、主題は胡桃ではないのか。
Phはキャンディに意見を求め、疑問を受けたキャンディはしばし考えたのちに『普段はソースで食べる長期保存のパンを売っている店で、特別仕様としてくるみ入りのバリエーションを出したのではないか』と結論づけた。そうやって二人が話すのを、Fは嬉しそうに聞いていた。
喋りながら茶を飲み、気付けばカップは空になっていた。Phはティーポットを持ち上げる。それは彼が思うよりずっと軽かった。新しい茶葉を入れてやらねばなるまいな、と彼は言って、Phは立ち上がろうとした。そこで、ぐらりと平衡感覚が揺らぐ。できるだけの不自然に見えない動作で机に手をつき、転びかけたのを踏みとどまる。妙だ、と思った。頬を甲で擦ったPhは己の顔が熱いのに気がつく。
「Ph? どうしたんだ」
不審な様子を見咎め、Fが尋ねる。Phは努めて平静を装った。
「……少し、目が回ったようだ。気付かない間にアルコールが回ったのかもしれない」
「あら、ごめんなさい、少し強かったのかしら……」
「大丈夫だ。少し酔いが覚めれは元に戻るだろう。気にしなくていい」
座り直し、安心させるようにPhは言ったが、言葉とは裏腹にぐらぐらと沸くような感覚は時間が経つごとに強くなって一向に消えていかない。しばらくした後、キャンディは不安そうに再度尋ねた。
「ほんとうに大丈夫? 顔色がよくないみたい」
「いや、ああ……そうだな、どうも悪酔いしてしまったようだ。日中、日に当たりすぎたのがよくなかったのかもしれない。そうだな、俺は……部屋に戻って少し横になっていようかと思う。後のことは任せても良いか」
「僕がやるから気にせず休みなよ、無理はいけない」
「すまない、感謝する」
いつもの通りの物言いに、どこか不安定な足取りと、それを隠すような歩き方。部屋を出て行くPhを黙ったまま見送り、残された二人は顔を見合わせる。
「……加減、よくなさそうだったわ。なんだか、うまく言えないけど、変だった」
「うん、概ね同意見だ。本人は大丈夫と言ってはいたけど」
キャンディは落ち着かない様子でシャツのカフスを引っ掻いた。
「悪酔いって言っていたわね。気分が悪いの? どうしましょう、なにか食べ物にアレルギーがあったりとかは? 知ってる?」
「いや、小麦もくるみもアーモンドもカボチャも彼は常日頃から口にする。卵も牛乳も海産物も大丈夫だ。果物で舌が痺れたってこともない。食あたりかとも思ったけど、僕らも同じものを食べていたわけだし、ものが痛んでいたってこともないだろう。仮にそうだとしたって、きみが気付かないとも思えない。……可能性が高そうなのは彼の言うとおり、ソースのアルコールだ。彼は酒に弱いタイプではなかったはずだけど、言葉の通りに悪酔いしてしまったのかもしれない」
無論断定は出来ないが、とFは続ける。
「でも、そうね、いいえ、どうかしら…… アルコールってあんな風になるものだった?」
キャンディは納得していないようだった。Fはううん、と首をひねる。
「そうだね、もしくは、なにか別の要因があって、飲酒がトリガーになったって可能性もある。日中に何かあったのかも知れない。これは本人しか知らないだろうし、なにか原因になるようなことがなかったか、それとなく聞いてみるよ」
Fの言葉に、キャンディは少しほっとしたような顔をした。
「……ありがとう。私の方でも調べてみるわね。少しでも早く、良くなるように」
◆◆◆
扉が開き、暗かった部屋に光が差し込む。Phは光に目をこらす。立っていたのはFだった。
「Ph、平気かい」
「気分は優れないが命に別状はない……キャンディは」
声を潜めて尋ねてから、Phは枕元の明かりを付け、ゆっくりと身を起こす。身体が重かった。緩めた襟元を掴んで引く。胸元にリボンタイがないのは少し落ち着かなかったが、落ち着かなさよりも息苦しさが勝った。
「彼女は帰った。責任を感じているようだった。こちらでも原因を調べておくからあまり気負わないでほしいと言っておいた」
そうして同じように声を落とし、手土産で倒れたなんて思われるのは君の本意ではないだろう、と続けた。
「気遣い痛み入る……いや、本当にその通りだ、察しが良くて助かる」
「それより、眠るなら服を替えたほうがいい。体は動くかな、手伝いは」
「いや、必要ない。自分でやれる」
そういったが、Phは座ったまま動けずにいた。身体が熱かった。神経の具合が悪いときの粘つく熱っぽさとは違う、かっと熱くなる感じ。その感覚がなくならない。熱かった。しかしそれと同じだけの発汗と寒気があった。それらの温度差と羞恥心から、服を脱ぐのはためらわれた。ひとりきりになりたかった。何も心配などされないままで、どこか安全な場所に閉じこもっていたかった。
具合の悪そうにしているPhを見咎め、Fは一言断ってから額に触れた。熱い、というのがFの率直な感想だった。Phが冷たいものへ触れたように身を震わせたことも懸念を抱くのに十分だった。
「熱がある。医者を呼ぼう。周囲にはきみの存在を伏せておくと約束したが、体が第一だ」
Phは顔を上げ、首を振った。Fは何故と視線で問う。
「……よせ。嫌だとか、だめだという以上に『無駄』だ。地上の医者では俺を診れない。俺の羽を見ただろう。体の規格が違うんだ」
いたずらに引っかき回してくれるな、とPhは言う。Fは目を丸くし、突きつけられた『違い』に言葉を失った。黙ってしまった同居人へ、Phは少し、ほんの僅かだけ申し訳ないような気持ちになった。Fは少し俯いた表情と、普段より僅かに低い声で口を開いた。
「……なにか必要なものは」
「冷えた水を」
暗い部屋に二人きり。一人にしてはくれないか、とPhは言う。Fはそれを出来ないものとして却下した。
吐き気を堪えるような息づかいは潜められているものの確かに耳へ届いている。全身が緊張しているのか、体の自由がきかないのか。ともかくPhの表情は険しく、この状態は彼の本意でないように見える。それなのに、額に氷を当てたまま寝転がるPhはただ、大丈夫だ、と繰り返す。
「君の体になにが起こっている? アルコールじゃないのは明白だ。なにがそうまで君を苦しめる?」
Fの問いに熱に浮かされたような目でPhはFを見返す。
「……それは俺が知りたい。茶会に何かあったのはわかる。そうなれば当然食べたものだろう。だが、原因がわからない。キャンディが何かするとも思えない。それに、そもそも俺たちは全員、同じポットの茶を飲んで、同じ皿から同じものを食べたはずだ。重ねて俺は途中参加だった」
「その通りだ。今日、君が茶会に参加したのは偶然だ。……君はなぜ茶会に原因があると?」
「他に思い当たることがない。ケーキでもない。おそらくあのソースになにか、良からぬものが入っていたんじゃないかと俺は考えている」
あれを口にしてからだと、苦しげな息づかいでPhは言う。Fは少し思案する。
「彼女にソースを調べてもらおう。僕が調べてもいい……どうしたんだ、Ph。苦しいのか?」
「いや、違う、明かりを落としてくれ。今、強めただろう。今の俺には、少し、眩しい……」
聞くやいなや、Fは迷いなく明かりを消す。明かりをつける前よりも暗くなった室内に、ふーっと苦しげな息が満ちた。
「……眩しいといったね。目がどうかしたのか? 失礼。ああ、瞳孔が開いている……瞳孔?」
薄暗闇の中、FはPhの目をまじまじと見る。瞳孔が開き、充血した目が惑うように中を泳ぐ。ぐっと近づいた距離に、鋭敏になった感覚が甘い体臭を嗅ぎ取って身を竦ませたが、FはPhの変調に気づかなかった。
「F……F、覗き込むのをやめてくれ、なんなんだ」
「目が充血している……アルコールじゃない。何故……ああ。すまない、僕のせいだ。……そうか、君を巻き込んでしまったのか」
俯き、視線が外れる。Phは顔をしかめて通りの良い鼻を啜り、ちょっと息を吐いてから尋ねた。
「……待て、なんの話をしている? なぜ謝る?」
何から言えば良いのか、とちいさくつぶやいて、Fは口を開く。
「意図的にか『そういう』品だったのかは知らないが、おそらくなにか、薬物の類が混ぜられていたんだ。オーダーのケーキだったという話だ。祭日用の品ならあり得ない話ではない。街の方には『愛する二人に向けた祝いの品』というものがある。それで、なんていったらいいだろう、僕は、化学物質への感受性が著しく低い。生まれつきの、そういう体質なんだ。それで、キャンディも、もしかしたらそのようであるのかもしれない。でも君はそうじゃなかった。そういう可能性がある」
何故彼女がそれを持ってきたかについては、事故であると仮定しよう、とFはいやにきっぱりとした口調で言った。
「……」
「あるいは、それらとはなんら関係なく、君自身が言った通り、体の規格が違うことがトリガーだったのかもしれない。調べよう。今後のために。身体に変調は」
まじまじと見つめられ、瞳の色に悪魔は惑う。縮められた距離を思うと下着が窮屈になっていく。心臓がドキドキと鳴って、息が苦しくなる。
「変調……? いや。いいや、別にこれといっては……」
「……本気で言っているのか? 自覚出来ないほど事態が切迫しているのか? 体を触られるのに抵抗は」
「ないでもないが、いや、俺は今何を聞かれている? Fが世話をしてくれると、そういったのか? 今?」
「その通りだ。友人が困っているんだ、見過ごせないだろう」
Fの眼差しは真剣そのものである。世話とはきっと看病だ。世話。ふと下げた視線で捉えた手指から、厚い掌による甘美な慰めを想像するに至り、Phは人知れず硬くなった。興奮でめまいがする。雑念を排し、それじゃあ、頼む、と一言伝えるのに、Phは舌をもつれさせないようにしなければならなかった。
「発汗と微熱、目の充血がある。関節の痛みはなし。脱力は……なさそう。だるさはある?」
「言うほどではないが、体が重い。頭がふらつく、感じがある」
「なるほど」
耳の下をぐっと押される。触れられるのが嫌でPhは僅かに身をよじったが、億劫な感じがそれを上回った。肌の上を滑る手はひんやりとして心地よさを連れてくる。それがFのものであるという事実が、埋め火のような熱をぱっと燃え上がらせる。気持ちが良かった。頭がぼうっとするのを、氷嚢の冷たさだけが引き留めている。首の上を這う指にだるさ、熱っぽさとは別種の汗が滲んだ。
「……手足の痺れはなさそうかな。いま、ここで、なにかあったら抵抗できるかい」
「…………いや、なんて?」
背筋を上る寒気に気を取られていたPhは唐突とも言える言葉の意味を掴みかね、思わず聞き返した。
「ある種の薬物は肉体の自由を奪うために使われる。君の体に作用したのはそれじゃないかと考えている」
「……そうか」
そうかとしか言いようがなかった。
「レイプドラッグの類だ、そういう感じはあるだろうか。人によっては風邪に似た症状が出ると聞くが」
そういう感じ、とPhは反芻し、股間に意識を持っていく。熱を持つそこはとうに硬くなっていて、少し痺れたようにも感じられた。しかしそれを伝えるのは半ばもうろうとした意識の中でも憚られた。乾いた唇を舐める。
「なんとも……わからないな、それといって薬を盛られた経験があるわけでもない」
「そうか。それはそうだ。舌が痺れるとか、様子が変だとかあったら、迷わず言ってくれ」
そうしたらFは助けてくれるのか、とPhは聞こうとしたが、脱力した舌は役立たずのままで、疑問は声にならなかった。
◆◆◆
疑問の答えは曖昧だ。今は頼りない星明かりのような目が、闇に瞬く宇宙色の目を真正面から見据えた。すがるような視線は意図せずFを捉え、Phは一人になる機会を失った。沈黙の中、寝台から腕が伸ばされて、指は肉へと食い込んだ。
◆◆◆
惚れ薬にしては随分強い薬だった、と思う。息が切れる。胸が苦しいのは浅い呼吸によるものばかりではない。Fは腹ばいのまま何も言わない。このやるせない気持ちをどこにおいて良いかわからない。このまま跳ね起きて悪態の一つでも口にして、起こったように部屋を出て行ってくれたならどんなに良いだろうと思う。そうしたら、あやまって、最初から何もなかったみたいに出て行けば良い。それで何もかも元通りだ。
助けてほしいなどと願ってはいない。手を貸してくれなんては言っていない。元のように、いつもの通りに。それが望んだ全てだったはずだ。この男が手に入れば良いと、他の誰よりお近づきになりたいと、出会ったときにこそ思ったが、思い描いたそれはこんな風ではなかった。望むように振る舞いたいと思う、あるべき姿でいたいと思う。それが今、こんなにも難しい。
それでも、ずっと黙っているわけにも行かない。神経の通らないような舌をなんとか動かして、謝罪を述べる。
「……すまなかった。なんといっていいかわからない。許されることだと思っているわけでもないが、無作法を許してくれ」
渇きによって狼藉を働いた。こんなことがしたかったわけではない。どんな顔をして許しを請えばいい。そもそもなぜ抵抗らしい抵抗をしない? 『やり過ごそうとした』のではないかとの考えに至り、Phは汗に濡れた体を竦ませた。
「なるほど、こんなふうになるんだな」
Fがどこか他人事のように言った。Phは意図が読めず、続く言葉を待った。
「………まあ、なんだ。不名誉な話だ。君はなんて言うか、そうだな……ん、ああ、いや、それより身体は大丈夫かい」
身体は、と聞く前の一瞬にうかんだ嬉しそうな顔つきにPhは戸惑う。
「え、ああ。平気だ……」
「うん、平気そうだね。不自由なく身体が動くなら服を替えると良い。汗みずくだよ」
俺を糾弾しないのか、ととっさに口をついて出そうになる。まるで責められたがっているようだ、と自分でも思う。Fが言葉にしないのなら、それは意識の欄外であるという意思表示に他ならない。開けかけた口を閉じ、次に言うべき言葉を探した。
「どうかしたかい。気分が優れないなら水を持ってこようか」
「いや、そうじゃない。手を煩わせてすまなかった。熱に浮かされていたとはいえ、酷いことをした。それだけあやまらせてくれ」
Fは目を眇め、少しおかしそうに笑った。
「厳格だね。君のそういった性質は好ましいな。あまり気に病まないでくれ」
そこで言葉を句切り、キャンディにはなんと言おうか、とFは続ける。
「そうだったな…… Fはなんと言うべきだと考える?」
「事が事だし、その手の品だったことは伝えるべきだろうね。あまりその後のことを伝えるのも良くないだろうし、半日休んだら良くなった、といっておこう。それでいいかい?」
「ああ、重ね重ね迷惑をかける」
喉が渇いたらしいFは水の入ったコップに口をつけた。そうして、ちょっと笑う。
「……いいんだよ」
◆◆
「ごめんなさい。きっとお友達と一緒に食べるって話をしたせいだわ」
「いや、少し熱が出たくらいで済んだ。あやまられるようなことは何もない」
Phは声をかけ、いっそ苦しそうに頭を下げるキャンディの顔を上げさせる。二人はしばし見つめ合う。
「熱を出したあなたに聞くのも変な話だけど、Fは大丈夫だった? わたし、それも心配なの……取り乱したりとか……」
「……わりといつも通りだったが、いや、なにか思うところが?」
ヘアバンドを巻いた頭に手をやり、キャンディはしばし考えるような顔をした。
「……彼ね、良いとこの長子だって話なの。それはいいの。ええと、だから、恋人になりたい人が持ってくるのですって。何人も。でも本人はその気がないから、どう扱ったものかってずっと悩んでいたみたい……ごめんなさい、私の口で言えるのはこのあたりまで。何もなかったのなら良いの」
でも、私もそのうちの一人だと思われていたのだとしたら嫌ね、とキャンディは続けた。
「ケーキ、持って行ったらまたFは食べてくれるかしら」
キャンディの零した言葉に、Phは片方の眉を上げた。
「自信をなくすことはない。Fはキャンディの作るケーキが好きだと言っていた。俺も、あの白いホールケーキは賞賛に値すると思っている」
「そう? そう言ってくれるのね」
キャンディは曖昧に微笑み、『今度はいちごのケーキを用意するわ』といった。
◆2019-10-08・privatter再録
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